6話 王手?
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一行の乗る車は一般道を高速道路か何かと勘違いしているのではないかという速度で来津中央病院へと向かっていた。夜の街並みが馬鹿みたいなスピードで後へ流れていく。
しかしそんな運転をしながらも危なげな様子は感じさせないあたり、菊岡のハンドル捌きは大したものだった。
道中、花御堂は携帯電話で県警に電話をかけ、九島警部を呼び出した。
「九島警部ですか。今すぐ事件の関係者を全員確保してください。とくに上原隆之を最優先で。私たちは病院のほうに向かいますから、警部たちは自宅のほうに手を回してください。
電話などで向こうに居場所を確認するのはやめてください。相手に我々が探しているの気取られてはいけません。
もしそれぞれの関係者を確保できたらその行動を絶えず見張っておいてください。一時も証拠を隠滅するチャンスを与えてはいけません」
花御堂はまくし立てるように電話口に向かってそう言った。そして制限速度をはるかに超えたドライビングで一行の乗車するやたら車体の長い車は来津中央病院へと到着するのであった。
菊岡が病院の前に車を横付けすると、花御堂はすばやい動きで病院に乗り込んでいく。
「申し訳ございません。今日は一般外来は終了しておりまして」
などという受付の女性が言う。
「診察をしてもらいにきたわけではありません。心臓外科長の上原隆之先生に用があるだけです。上原先生はまだ院内にいらっしゃいますか」
「アポイントメントは取られていますか」
「緊急事態ですから。上原先生はまだいらっしゃいますか」
「それはお答えできません」
「いらっしゃるようですね」
女性の表情を見てそう判断したのだろう。
「手術中ですか? それとも科長室で論文でも書いていらっしゃるところですか? ――どうやら手術中ではなさそうだ」
「いい加減にしてください」
そんな女性の声とともに警備員の男性がこちらへ歩み寄ってくるのが見えた。
「私が制圧しましょうか」
と表情も変えずに白瀬が物騒なことを言った。
「いや騒ぎを起こすのはまずい」
そんなことを花御堂が言ったときだった。
「おや花御堂さん、由佳ちゃん、こんな時間にどうされたんですか」
「よかった。ちょうどあなたを探していたんですよ」
そこには上原隆之が立っていた。
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「コーヒーでいいですか?」
誰も異を唱えなかったので上原隆之は人数分のお湯の入ったカップにインスタントコーヒーの粉末を溶かしている。
「それで今日はどのようなご用件ですか」
花御堂は先ほど事務所の食卓で議論されたことの要点をまとめて隆之に語った。
「花御堂さん、あなたはよく合理的という言葉を用いますね。しかし人間はそれほど合理的な生き物なのでしょうか。医者などという職業をしているととくに思います。患者はとても非合理な行動を取りますから。
ましてや犯罪を犯してしまったときなら正常な判断ができずとも仕方ないと思いますけどね」
「――ドイツ生まれの社会学の祖の1人といわれるマックス・ウェーバーは合理的に考えないことの合理性というものを指摘しています。
つまりいちいち合理的なやり方は何かを考えて時間をロスするよりも、とりあえずやってしまうほうが合理的だという考え方です。
何が言いたいかというと、人は思いのほか合理的に動きます。とりわけ一世一代の進退のかかった犯罪という場所だからこそ。ただしその合理性の基準が人によって違い、そしてTPOによって揺れがある、というだけのことです」
「なるほど。興味深いご意見です」
「私は首を切断、あるいは顔を破壊する、死体の身元を分かりにくくする以外の目的について考えました。いずれにせよ『顔のない死体』を作る以外の目的があるのであれば、死体工作の順番としては『顔のない死体』を作るための行為が先で、そうでない目的の行為があとのはずであると考えます。
ここでいうそうでない目的の行為は、首を切断するという形を取るとして、顔を破壊するという行為を取るとしても、『顔のない死体』を作ることになるからです。
首を切断する理由として考えられるのは①怨恨、②芸術的関心、好意などからの収集行為、③網膜認証、④なんらかの見立て、⑤蘇りの阻止などとの魔術的発想、⑥科学的知識の欠如から確実に止めを刺すために首を斬る必要があると考えた、⑦間違いなく被害者を殺したことを第三者に客観的に証明するため
顔を破壊する理由として考えられるのは⑧同じく怨恨、⑨同じくなんらかの見立て、⑩顔の表面に犯人を特定する決定的な証拠が残されている場合。
こんなところでしょうか」
「異論はありません」
「③は私たちの議論のなかでも否定されました。
①、⑦は考えにくい。この犯人の人物像とは合致しません。何より死因から正木羽菜の死は突発的事故だった可能性が高い。それほど強い怨恨であれば、計画的犯罪という形態と取るはずです。
④、⑨も考えにくい。これまで捜査関係者のなかに何らかの見立てを感じたものはいませんし、犯人は犯行声明を送るような気配もない。伝わらないメッセージには何の意味もない。もしこれが見立て殺人なのであれば犯人はもっと伝わる努力をするはずなのです。
⑤、⑥についてはこれまで捜査線上にそのような現代社会の一般的な知識体系とは異なる知識体系を持つ人物がいなかったことから除外します」
「それは少し恣意的なんじゃないですか。花御堂さんや警察のかたは特定の人たちを重要な容疑者と直感的に判断して、それに合わせて議論を構成してしまっている」
隆之はそう言ったあとに、少し熱そうにインスタントコーヒーをすする。
「そうかもしれませんね。ですが、仮に魔術的知識を有していたり、科学的知識を有していないことによって止めを刺すための行為として行ったのだとすれば、首を持ち去る必要はないのです。
したがってやはり⑤、⑥は除外可能だと考えられます。②のような動機での首の切断は決して珍しくはありません。しかしそのようなフェティシズム的執着のある犯人であれば顔を破壊しているのは不自然としか言いようがありません。したがって除外できます。
⑦については、どこの殺し屋だよ、という話で議論することも馬鹿々々しいですが、②と同様の理由から除外されます。
⑩については、すでに首を切断しているのですからそのまま持ち去ればいい。したがって除外できます」
「おや結局すべて除外されてしまいましたな。やはり合理的な解釈は不可能、ということになりませんか」
「私も途中そう考えました。しかし犯人の目的は顔や首そのものではないのではないかと思ったのです。考え方としては④に近いです。これは菊岡の問いのおかげで生まれた視点です。彼はいつも私に刺激的な発想をもたらしてくれる」
「もったいないお言葉です」
「そこで考えたのは『顔のない死体』という死体工作が本当はどれほど有効なのかということです。日本では年間8万人の行方不明者が存在するといわれています。しかし例えばここ神奈川県に限って言えば行方不明者は4000人しかいない。
全国での行方不明者のうち約3万人が女性と言われていますから先ほどの4000人に3/8をかけて単純計算すれば600人。年間、600人、これはやはり単純計算ですが、1週間に十数人程度のこの程度の数であれば警察は必ず特定しますよ。どれだけ時間がかかってもね。
まったく縁も所縁もない地で殺すならともかく正木羽菜は神奈川県在住の神奈川県勤務だ。
つまりこのトリックには被害者を全くの名無しにする効果はなく、せいぜい捜査を遅延させる程度の効果しかないんです。
意味がないとは言いません。しかし時間をかけてまで犯人がこんなことをしたのは一石二鳥の別の狙いがあったのではないかと思ったのです。これはあくまで推測ですがね。
犯人は身元を判別できないようにするための行為――これにはスマホやカードを持ち去った行為も含まれます――という木々のなかに別の存在、石を隠したのです。
木を隠すなら森のなかという言葉がありますが、逆に言えば森のなかに何かを隠した人物を見れば、我々はそれは木だと考えてしまうのです。
今思えば、犯人は決して顔を潰す、あるいは首を切断したあとに、首を切断する、あるいは顔を潰す必要があると思い直したのではないかと思われるほどです。
つまり犯人は木の数を増やすために、犯人は『顔のない死体』を作ろうとしている、と捜査する者が解釈しそうな記号を2つも残したのではないでしょうか。これももちろん憶測です」
「なるほど。しかし犯人はやり過ぎてしまったために犯人はあなたに目を付けられることになってしまった。過ぎたるは及ばざるがごとしとはこのことですね。それで一体犯人が森のなかに隠した石とはなんなのですか」
「もはや犯人の目的を達成するための行為が首の切断や顔の破壊だけだったと断定することはできません。財布類やスマホの持ち去り、すべての木を射程に入れる必要があります。もっとも財布類やスマホから有益な情報は出ていませんから、やはりその木は首の切断や顔の破壊であったと私は考えます。
まず絶対の条件として、⑪犯人の目的は、首の切断、顔の破壊などの身元を判別させにくくさせるための行為によって間接的になしとげられる。
その可能性が高いこととして、⑫犯人の目的は、首の切断、顔の破壊によって間接的に成し遂げられる、⑬犯人は首から上の何かを利用、あるいは警察から隠匿したかった。⑭首ごと持ち去るのが都合がよかった、あるいは首とそれを分離するのは容易ではなかった。
このいずれもを満たすのが口です」
「――口だって、口を隠匿するにしても利用するにしても、その場で破壊するなり切り取って持ち去るなりすればよかったはずだ。それは⑮と矛盾しないか」
「失礼。正確には口ではなく、口中。それも口中の内容物。それもとても微細で、それを口中から除去できたかどうか、判断することが難しかったものです。
犯行は突発的な事故だったという可能性が高いと申し上げましたが、犯人はおそらくホテルのなかで彼女と何かを巡って揉み合いになった、その挙句バランスを崩して彼女は後頭部を机の角にぶつけたと思われます。
犯人はその最中、被害者に身体の一部を噛まれたんですよ。火事場の馬鹿力の、とても強い力で。そのとき彼女の口中や歯の隙間に皮膚片や血液が流れた。
この考え方にたどり着いたとき、私は天啓を受けた気になりました。犯人の気持ちがよくわかったのです。よく犯人同定に用いられる証拠に犯人の皮膚片が被害者の爪の間に挟まっていたというものがあります。
しかし被害者の口から犯人の皮膚片やDNAが検出されたというのは犯人にとってそれほどの痛手ではないのかもしれません。犯人は被害者とは実は特別な関係にあって、キスをしたときに口の中を怪我していたからそのせいだ、ということもできるはずなのです。
ですが、人間の持つ多くの天然の武器のなかでも歯には爪とは違った意味で誤魔化しようのない点があることに気づきました。歯はその並びによって白骨を同定しうるほど千差万別なのです。
したがっていかに共犯者を隠れ蓑に用いる狡猾な犯罪者であっても、その身体にその被害者と一致する歯型の傷でもあれば、それは被害者と犯人が揉み合った証左として、犯人を投獄せしうるのです」