5話 首斬りて、顔潰す
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「201号室の宿泊客は連泊を申し出たのではないですか」
そう尋ねるのは花御堂だ。
「はい」と中上というホテルスタッフ。「朝の7時ごろのことでしたが、もう一泊できないかと依頼がありました。しかしあの日は非常に多くのお客様にご予約いただいておりまして、201号室に限らず連泊はできないと申し伝えました」
近くで大規模な音楽系のイベントがあったのです、と中上は付け加えた。
「チェックアウトは何時までにお願いしていましたか」
「部屋の清掃がありますので、10時までに済ませていただくようお願いしました」
――ということは犯人も10時ごろには死体が発見されることを想定していたのかもしれない。
「もう1つお聞きしたいことがあります。あの日朝の4時以降にこちらに泊まりに来た人物がいるのではないですか」
「――ああ、確かにいらっしゃいました」
中上さんは宿帳のようなものをぺらぺらとめくる。
「5時15分のことですね。朝の10時までにチェックアウトしていただく必要がありますがよろしいですか、と尋ねたらそれでも構わないと申されましたので303号室にお通ししています。我孫子行人さんと宿帳には記入されています」
「偽名ですかね」と内田刑事。
「おそらくそうでしょう。――その人物の風貌はどのようなものでしたか? 顔を隠されていたのではないですか?」
「ええ。中肉中背の男性で、顔は大きめのサングラスで隠していたのを覚えています」
「そしてその人物はいつチェックアウトしましたか」
「ええと、朝7時6分にチェックアウトされています。もう出られるのすか、とお尋ねしたら予定が変更になったんだとおっしゃっていました」
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「どうやらアリバイについては洗い直す必要がありそうですね」と内田刑事。
「どういうことですか」と由佳。
「201号室の男と安孫子行人の共犯の可能性が高いということだ。もしそうであれば、包丁や金づちのようなものがどこから出てきたかということにも説明がつく。安孫子行人が持ち込んだものだろう」
「そしてホテル内で201号室の犯人と安孫子行人は入れ替わり可能だった。つまり201号室の宿泊客はチェックインとチェックアウトの時点では違う人物によって演じられた一人二役だった可能性があるということですよね、花御堂さん」
内田刑事の興奮したような語り口に対して、花御堂は静かに頷いた。
「そして、犯人にはやはり時間がなかったことがわかりました。犯人は10時までにすべての偽装工作を終えて逃走する必要があった。おそらくもう少し時間があれば、死体をバラバラにして丸ごと持ち去ってしまうつもりだったのではないでしょうか」
「捜査会議でもそれについては言及がなされました。正木羽菜の遺体の腰には切断しようとしたような傷があるようです。――これから捜査会議があるのですが、花御堂さんたちはどうされますか」
「せっかくの申し出ですが、今日はいろいろなところを回って少し疲れました。考えたいことがありますし、今回は辞退させてください」
「それでは県警のほうまでお送りしましょうか」と菊岡。
「いいや。それには及びませんよ。この辺でタクシーでも拾って帰りますから。捜査会議で出た話についてはまた明日にでも」
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「もう遅いですから、よろしければ夕食などご一緒されませんか」
菊岡のそんな言葉に由佳はありがたく甘えることにした。母親を家に1人にしておくのは酷な気もしたが、きっと一生縁のないようなものが食べられるのだろう、という誘惑には耐えることができなかった。
案の定、この世の格差社会ぶりを嫌というほど思い知らせるような料理たちが所狭しと食卓の上には並び始める。
「しかしそれは厄介な事件ですね」
今日あったことをざっと聞いた白瀬はそんな一言を漏らした。
「共犯が前提なら完全なアリバイがある人というのはそういないでしょうし。仮に犯人を特定できたとして、晴彦氏がその犯人をかばうつもりがあるのであれば立証も容易ではないわけですし」
「この事件の鍵は首だよ」
「首ですか」と白瀬。
「正確には首から上だ。犯人はなぜ首を切断し、死体の顔を金づちで判別不可能になるまで殴ったのか」
「江戸川乱歩いうところの」と菊岡。「『顔のない死体』というやつではないですか。犯人は被害者の身元発見を少しでも遅らせたかった。首とともに財布類やスマートフォンなど身元の確認に役立ちそうなものが盗まれているんですよね。
DNA鑑定などが発達した現代において『顔のない死体』などというトリックは意味がないという声もありますが、単に被害者の身元を隠したいだけならば有効です。警察には誰と被害者のDNAを照合すればいいのか、わからないのですから」
「その通りだ。しかし『顔のない死体』を作ることが目的ならなぜ首を切ったあとで、顔を潰す必要がある。どちらか1つでよかったはずだ。
201号室をチェックアウトした人物――今のところ上原晴彦氏である可能性が高い――には時間がなかったはずだ。彼――便宜的表現――は首をどこかへと隠匿する必要があった。
言ってしまえば犯行が露見するかどうかはこれができるかできないか、次第であり、顔が潰れて身元がわかろうとわかるまいと、首を持ち歩いたり埋めようとしたりしているところを誰かに見られれば言い逃れなどできるはずがない。
無駄な死体工作なんだ。そして無駄な死体工作をやっている暇などなかったはずだ。行動に合理性がない。
どうしても顔を破壊したければ、首をどこかに埋めるついでに行えばいい話だ。この作業だってどうせ人に見られたらおしまいなのだから。
この謎がこの事件において最大の不可解だ。この謎を解けば、犯人を特定し、立証せしうるという漠然とした直感がある」
「どちらか」と白瀬「片方の工作をしたあと、どうしても不安になって、もう片方の工作をしたということでは。どちらがより念入りかと思えば首の切断のほうだから死体の顔をつぶしたのが先だったと思われます。
顔をつぶされても首さえあれば頭蓋骨の形状や歯並びや手術痕などからDNA鑑定より用意に身元を特定することが可能ですから」
――それにしても、この人たちよく食事中にこんな話できるなあ。
由佳は少し気分が悪くなってくるのを感じた。
「可能性はありえる。しかし歯なんて金づちですべて叩き落として持ち帰ればいいはずだ。
頭蓋骨のレントゲンに関しては誰でも撮っているようなものではない。念入りな犯人という可能性もあるが、指紋も焼いていないずさんさとはかみ合わない。
俺なら先に劇薬やマッチを使って被害者の指紋を焼き潰す。指紋による照合は頭蓋骨、歯、DNAの照合よりはるかにスピーディで廉価だ」
「犯行は201号室の宿泊客と303号室の宿泊客の共犯である可能性があるんですよね。
だったら最悪片方が首を持っているところや埋めているところを見咎められて言い逃れできないような状態になったとしても、もう片方まで捜査の手が及ばないようにホテルの部屋という密室で首の顔を潰したのかもしれません」
「だとすれば、上原晴彦氏があっさりと死体が正木羽菜であることを自供したのが不自然だ」
「罠なのかもしれません。あっさりと自供しておいて、実は別の死体とか」
「顔なし死体ということで、警察もそのことは念頭において捜査していたようだ。遺族から提供された正木羽菜のへその尾と死体のDNAを照合している。大時代的な推理小説でもあるまいし、へその緒が別人だったということもないだろう」
「じゃあやっぱり入れ替わりトリックなんですよ。首から下は正木羽菜だけど、首から上は別人の死体だったとか」
「そんなことをする目的がわからない以前に、この日本でそんなほいほい死亡推定時刻の一致する死体は調達できない。それにDNA鑑定はへその緒、胴体、首ですべて一致した」
お手上げですね、という風に白瀬は肩をすくめた。
「網膜認証に被害者の眼球が必要だったというのはどうですか」と今度は菊岡。
「被害者の顔面は眼球も含めてぐちゃぐちゃだ。その可能性は考えにくい」
花御堂はアヒル肉と野菜を薄餅で包みながら言う。北京ダックだ。
「用済みになったからぐちゃぐちゃにしたのかもしれません。眼球だけを持ち去るほうが首を切断するよりはるかに楽ですが、一方で傷つけないように持ち去ろうと思えば首ごと持ち去るのが合理的かと」
「駄目だな。タイムスケジュールにかなり無理がある。網膜認証が必要なものといえばスマホなんかが考えられるが、スマホは201号室にあったのだから首など切らずその場で網膜認証を突破できた。
仮にほかに網膜認証を要する何かがあったとして、やはり用済みになったあとで顔を破壊する意味がわからない。何度も言うように犯人には時間がないのだから。
だが顔や首そのものではなく、犯人とって用があったのはそのなかの特定の部位というのは案外いい線をいっているかもしれない――」
バタン。突如花御堂が机の上に手をついて立ち上がった。彼の手元にあった紅茶のカップがその衝撃で床に落ちると音を立てて砕け散る。
「――そういうことか。だとすれば早いに越したことはない。――菊岡、今すぐ車を出す準備をしろ。白瀬、お前も来い」