7 クラリネットとピアノ
闇無さんがスマホの通話を終えた。
「今のって、灰川さんからですか?」
「ええ。もうすぐこっちに来るって」
「えっ」
さっき電話で話した限りではとても優しそうな感じだったけど、実際会うとどんな感じなんだろう。
ちょっとドキドキする。
「灰川さんて、どんな人なんですか?」
私が聞くと、闇無さんはしばし「うーん」とうなった。
「根はいい人なんですけどね、ちょっと最近色々あってこじらせちゃって」
「いろいろ?」
「はい、知人を立て続けに二人亡くしたんです」
「それは……お気の毒に」
「それ以来あんまり笑わなくなって、とっつきにくい感じになっちゃったんですよね」
「無理もないと思います」
「私としては、ずっとそんな調子じゃ困るんですけどね。千佳さんもかわいそうですし」
ぶつぶつ独り言を始めて歩き出す彼女を、私は慌てて追いかけた。
吹奏楽部の部室である音楽室は、敷地の一番奥の校舎の3階にある。
私たちが校舎に入る前からもう練習が始まっていて、スローな綺麗な曲が聞こえてくる。どこかで聞いたことがあるけど、曲名がわからない。
「あ、ムーンライトセレナーデですね」
階段を昇りながら、闇無さんが言った。
「そういうタイトルなんですか。初めて知りました」
「ジャズの定番です。クラリネットがいいんですよ、ほら」
音楽にはうとい私にも、どこか切なく聞こえる笛の音がわかる。
3階に着いて、二人で音楽室の前に立つ。
殺人事件の捜査に来ているということをしばし忘れ、私はその穏やかな優しい曲に身をゆだねた。
「はい、ダメ。全然ダメ」
先生らしき男性の声とともに、演奏はストップした。すると目を閉じて聞いていた闇無さんが、おもむろに音楽室のドアをノックする。
そしてドアに向けて呼びかけた。
「すみませーん!ちょっといいですかー?」
しばらくして、横開きのドアがガラリと開いた。
「……何か?」
出てきたのは、背が高く長髪をセンター分けにした、気難しそうなおじさん。闇無さんと私を順にジロリとにらむ。
闇無さんはそんな視線を気にする風もなく言った。
「練習中、お邪魔してすみません。私、県警特別捜査チームの闇無乃衣、闇が無いと書いてくらなしです。こちらは五十里浜署の崑野百合巡査」
「崑野です」
二人でバッジを出して、とりあえず笑顔。
音楽室の中から、生徒たちのざわついた声が聞こえてくる。
「……吹奏楽部顧問の、武藤です」
「武藤先生、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
武藤先生はちらりと教室内を振りかえり、
「五分休憩だ」
と言うと、廊下に出て後ろ手でドアを閉めた。生徒たちのざわつきが大きくなる。
「何でしょうか」
「昨日の事件、ご存じですか?」
「もちろん知っていますよ。ニュースでも新聞でも見ました」
「学校のすぐそばが現場ですからね、先生方も心配でしょう」
両眉を下げて闇無さんが言った。すごく心がこもっている。意外と演技派だ。
「ええ、まあ。しかしこの学校自体が関係したわけではないので、我々はいつも通りの仕事をするだけです」
「ご立派だと思います」
闇無さんは愛想よく微笑んで続けた。
「被害者が亡くなったのは、昨日か一昨日か、というところなんです」
「なるほど」
「そこでですね、この学校で一番遅くまで居残り練習している部活はこの吹奏楽部だと聞きまして」
「はあ」
「それで、居残り練習中に何か不審な音を聞いたり、不審者を目撃した生徒はいないかと。例えば遠くの方で銃声とか」
「それは物騒な話ですね」
武藤先生はあごに手を当てしばらく考え込んだ。
「私は六時半には帰ってしまいますので、その後のことはわかりません。昨日と一昨日、居残った部員たちに聞いてみましょうか」
「いえいえ、先生の手をわずらわせるまでもありません。先生立ち合いのもとで、私たちが聞いてもいいですか?」
「ええ、顧問として責任がありますので、もちろん立ち会いますよ」
音楽室に入ると、一斉に生徒たちの視線が注がれる。皆、ピカピカに輝く楽器を持っている。あの前の方に並んでいる、黒くて大きな笛がきっとクラリネットだ。
吹奏楽なのにピアノの前にも男の子が座っている。太鼓と管楽器だけじゃないんだ。
「みなさーん!こーんにーちわー!」
闇無さんが、唐突に子供番組のようなあいさつをした。
どよめきながらも、「こんにちは」とちゃんと返ってきた。
「あれー?元気が無いぞー?」
私は見かねて、彼女の服を引っ張った。
「闇無さん、すぐ本題に入りましょう」
「そうですか?では」
一つ咳ばらいをして、闇無さんは続けた。
「私は県警特別捜査チームの闇無乃衣、闇が無いと書いてくらなしです。こちらは五十里浜署の崑野百合巡査」
「どうも、崑野です」
楽器を持った生徒たちの目が私に移り、また闇無さんに戻る。
「昨日、もしくは一昨日、武藤先生が帰った後も居残り練習をしていた人はいますか?いたら手を挙げてください」
生徒たちはそれぞれ顔を見合わせた。しばらくしてから、三人の手が上がる。
男子一人と、女子二人。
男子がピアノで、女子二人はクラリネットとサックス。
ピアノの男の子は深津理人君。普段はクラリネットだけど、たまにピアノが必要な曲になると担当するらしい。スラッとして眼鏡をかけていて、すごくおとなしそうな感じ。
クラリネットの女子は佐宗麻衣さん。背が高く、目の光が強い綺麗な子。気も強そうな感じがする。同じクラスにいたら苦手なタイプかな。
加納玲さんというショートカットのボーイッシュな子がサックス。見た目はスポーツ少女みたいで、ちょっと親近感がもてる。
でも不思議な取り合わせ。線が細くておとなしそうな男の子と、割と気が強そうな女の子二人で居残り練習。幼馴染かしら。
「あ、え、ええと、僕は二日とも居残りしてましたけど、何も聞きませんでした」
おどおどした様子で深津君が言った。ずっと下を向いている。そんなに怖がらせているつもりもないんだけど。
「私も。ていうか、練習で音出してたら何も聞こえなくないですか?」
佐宗さんがつっけんどんな言い方で問いかける。いや、問うている形で抗議している?
闇無さんは佐宗さんににっこりと笑いかけた。
「みなさんは音楽をやっているんでしょう?だったら耳は良いはずです。特に練習中、邪魔になるような異音が少しでもしたら反応するんじゃないかと期待したんですが」
「あー、私絶対音感無いんで、それ無理」
「そうですか。加納さんはどうですか?」
「何も」
あっさりと答えられてしまった。
どうしよう。あまり時間もないけれど、何とか別の角度で質問しないと。銃声だけじゃなくて、怪しい人影を見たかとか。それだけでも聞きたい。
しかし闇無さんは特に残念がった様子もなく、武藤先生を振り返った。
「先生、私たちはこれで失礼します。どうもお邪魔しました。練習続けてください」
「もういいのですか?別に急かしたつもりはないですが」
「いえ、大丈夫です。ほんの形式的なものですから」
言うと、彼女は生徒たちの方へ振り向いた。
「生徒諸君!それではさようなら」
一瞬の静寂の後、クスクス笑いが広がっていく。私は恥ずかしくなって、あいさつもそこそこに闇無さんを引っ張って音楽室を出た。
灰川さんは「進む方向は必ず間違えないヤツ」と言っていたけど。
今のは一体何だったんだろう。彼女がわからない。
「あの、闇無さん」
「しっ」
聞こうとした私に、彼女は人差し指を立てた。そして目を閉じる。
「さっきの曲です。しばらく聞きましょう」
「……はあ」
ムーンライトセレナーデが再び演奏される。
黙ったまま聞いていると、闇無さんがささやいた。
「……気づきませんか?」
「え?」
「ピアノの音が、少し動揺しています。さっきは完璧だったのに」
「……そういえば」
私は音楽にはくわしくないけれど、確かにさっきよりは合ってないかな……とは思った。気のせいかもしれないけど。
そうこうしているうちに、武藤先生が演奏を止めた。深津君が注意されている声が外に聞こえてくる。
「気の弱そうな子でしたし、私たちが動揺させちゃったかもしれませんよ。かわいそうに」
闇無さんは私の顔を見て、嬉しそうに笑った。
「崑野さんは優しいですね。でもあいにく私は、そんなに性格良くないんです」
「そんなことは……」
「さっき私が見たかったのは、どの子がどの楽器を担当しているか、なんです」
「はあ」
「実際に居残り練習していた子たちが、あの三人だけかどうかはわかりません。でもそんなことは重要じゃなくて」
彼女は続けた。
「警察が来た、ということで極端に動揺して演奏にそれが出てしまっている子がいたら、もしかしたらその子は何か隠しているんじゃないかと」
「……」
そんなこと……考えもしなかった。
「で、でもそれって、単に警察が来たってことで動揺する気の弱い子も……」
あ。
私は闇無さんの妙に自信満々な顔を見つめた。
入ってすぐの、子供番組みたいなあいさつ。
音楽室を出る前の謎のあいさつ。
おかしなことを言いだして妙な笑いが起きて、部屋全体から緊張感が無くなっていった。あれを見て私たちを怖いと思う子は多分いない。
この人はそこまで計算して。
これが、FBI帰りのプロファイラー。
そう言うと、彼女は不思議そうな顔をして小首をかしげた。
「いえ、あれはただ単に一度言ってみたかっただけですよ」
「……」
絶句する私を尻目に、闇無さんは階段の方へ歩いて行った。
「さ、今日はもう帰りましょう。明日はあの深津君を何とか呼び出す口実を作って話を聞きますよ」
つづく