プロローグ
マギステル続編です。
今何時だろう。お腹が空いた。
もう夜なのはわかってる。だけどぼくには、時間を知るすべがない。
だってマットでぐるぐる巻きにされているから。
ぼくを動物のように見下ろすあいつ。周りで「かわいそうじゃん」と言いながら楽しむ連中。
あいつらは数年後、きっとこう言う。
「あの時は若かった」
「こっちも家庭で色々あって荒れてた」
「もう済んだことじゃないか」
若い?ぼくもまだ高校生だ。
家庭で色々?色々あるのは誰だって同じだ。
済んだこと?じゃあ、今は。
今はどう耐えればいいんだよ。
砂かホコリかわからない、とにかく粉っぽいにおいが鼻につく。ライン引きの中の白い粉は、今では危険防止のために石灰から貝殻の粉に変わったと聞いた。それでも体育倉庫が粉っぽいことに変わりはない。
巻かれているマットも、もう何年使ってないんだろう。カビくさい。
今ぼくがマットに巻かれて横になっている場所は、グラウンドの端にある古い体育倉庫。
と言ってもすでに体育倉庫とは名ばかりで、体育に関係ない掃除用具なども雑然と詰め込まれている。
今はよく見えないけど、巻かれる時に見たから間違いない。
この体育倉庫は入り口にカギが無く、しかも常に半開きになっている。昔はちゃんとカギがあったみたいだけど、取られて困る物も無いという開き直りか、いつからかカギは開けっ放しになったみたいだ。
戸が半開きなのは、レールに何かが詰まっていて最後までスライドしないせい。きちんと整備すれば閉まるはずなのに、ぼくが入学した頃から誰も整備していない。
みんな、誰かがやってくれてると思ってる。
……誰か来る。
宿直の先生かな。でもそれにしては、足音が変だ。妙にゆっくりで、まるで片足を引きずるような音。先生がこんな変な歩き方する?少なくとも、片足が不自由な先生は校内にいないと思う。ぼくが転がされている場所からはよく見えない。
そのうちに息遣いも聞こえてきた。規則的な、それでいて苦しげな。耳に届くかすかな声だけでも、それは男のものだとわかった。
戸の隙間から走る一筋の光が、一瞬影に覆われる。
ガチャン!という大きな金属音。
誰かが体育倉庫の鉄扉に寄せかかった。
そのうちに、ゆっくり鉄扉が開いていく。と同時にドサッと倒れ込む音。差し込む月光が太くなり、ぼくとそいつの目が合った。
「うおおおおっ!だ、だ、誰だ!」
男の声と、カチン、という小さな金属音が聞こえた。かなりびびったみたいだ。そりゃそうか。誰もいないと思ってた体育倉庫で人と目が合ったんだから。
光の中に浮かび上がった男は、三十代から四十代のおじさんで、暗めのシャツに黒いズボンをはいている。短く刈り込んだ頭に、無精ひげ。ほほがこけるほどやせていて、細くて鋭い目がぼくをにらみつけている。
そしてもう一つ、ぼくをにらみつけているもの。実物を見たのは初めてだけど、ぼくにはそれが何かわかった。
銃口だ。
「……ガキか?」
男はゆっくりと口を開いた。
「お前……こんなところで何してる」
ぼくは答えた。
「おじさんこそ」
「おじさ……いや、もうおじさんか。俺のことは聞かない方がいい。お前が答えろ」
ぼくはこの体育倉庫です巻きにされたいきさつを、しぶしぶ話した。
意外にも、おじさんは暗闇の中で顔をしかめていたようで、
「近頃のガキは陰湿だな。気に食わねえヤツがいるなら、一対一で直接やりあやぁいいんだ」
そう言って、ぼくのそばに這い寄ってきた。
「おじさん、ケガしてるの?」
「ああ、ちっとな。待ってろ、今ほどいてやる」
おじさんは体を重そうに引きずりながらぼくが転がっているそばまで来て、雑に結ばれているタフロープをほどきにかかる。
「ちっ……何だこの結び目は。カタ結びじゃねえか」
一つ舌打ちして、おじさんはズボンの後ろポケットから光るものを取り出した。タフロープがすぐに切れたので、多分ナイフだ。
ゆるくなったマットを確認して、ぼくはゴロゴロと転がってみる。絞めつけていたマットがはがれていき、何時間かぶりにぼくは自由を取り戻した。
膝立ちになり、服装を整える。
「ありがとう」
「おお」
おじさんは壁に寄りかかったまま、短く答える。影になって顔は見えない。
「おじさん、ヤクザ?誰かに追われてるの?」
「聞かない方がいいって言っただろ」
「言ってくれないと、通報するかも」
「恩を仇で返す気か、てめえ」
「だったら教えてよ」
おじさんは一つ息を吐いて、言った。
「……詳しくは言えねえが、俺はある目的で悪い組織に入り込んだ」
「暴力団?」
「直接じゃねえが、関わってはいる。そいつらに商品を調達する会社だ」
「麻薬?」
「違う。これだ」
言って、おじさんは手にしている拳銃を持ち上げた。
「じゃあそれって……本来は売り物なんじゃないの?」
「なかなか鋭いな。頭の回るガキは嫌いじゃないぜ」
「ガキじゃない」
「おじさんから見れば、未成年はみんなガキだ」
少し笑い、立てた両ひざに両腕を置く。
ぼくは言った。
「おじさんは、その、いわゆるヘタ打った、っていう状況なの?」
「そこまで頭が回ると嫌いだな」
「誰だってわかるよ」
「そういやそうか」
おじさんはまた笑った。乾いた笑いだ。自嘲?諦観?ぼくの人生経験ではまだわからない。
「……これから、どうするの?足痛そうだし、見つかったら多分逃げられないよ」
「さて、どうすっかな」
おじさんは手にした拳銃を見つめた。そして、顔を上げてぼくを見た。
その視線に、ぼくは一瞬ドキリと緊張する。
「お前……自分をいじめてる連中のこと、殺したいと思うか?」
「え」
殺したい。
「そんなの……」
思ってる。毎日、毎時間、毎分、毎秒。
おじさんは僕の顔を見てまた笑った。
「顔に出てるぜ」
言うと、銃口を真上に向けた。
「これはベレッタっていう銃だ。知ってるか?」
ぶんぶんと首を振る。
「当たり前か。とにかく銃の中でもかなりメジャーだ。世界各国の軍隊、警察で使われてる。もちろん日本の警察も」
言いながら、握り手をスライドさせて、カートリッジのようなものを取り出した。
「残り二発ある。この弾は9mm弾っていって、パラベラム弾ていう別名もある」
「うん……それが?」
「やるよ、お前に」
「は?」
「このベレッタと、9mm残り二発。好きに使え」
再びカートリッジを差し込み、固まった僕の手に、おじさんは無理やり銃を握らせた。
重い。
そして熱い。
「何だ、ちっちぇえ手だな」
「い、い、いらないよ、こんなの。警察に捕まっちゃう」
「心配するな。法を破ってる連中が盗難届なんて出すかよ」
「で、でも」
「いらなきゃ川にでも捨てろ。お前が捕まることはねえ」
ぼくは手にした拳銃を見つめた。
これがあれば、あいつらを殺せる。
この生活を変えられる。
でも。
でも。
おじさんは壁によりかかりながら、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあな、俺は行くぜ。もう会うことはねえだろうが」
「待ってよ、これ」
「あのな、ガキ」
背中を向けたまま、おじさんは言った。
「何も行動を起こさないまま、誰かが何とかしてくれるなんて思ってたら、一生そのままだぞ」
「……」
言い残し、おじさんは差し込む光へ歩いていく。
ぼくは。
ぼくは。
今のままじゃ、いやだ。
「おじさん」
ぼくは立ち上がった。おじさんが振り返る。
「何だ?」
「撃ち方……教えてくれる?」
つづく