夜天に佇むあなたへ
裳着の翌日。あの地獄絵図を作り出した人たちは寝台に沈んだままで、家は静けさに包まれている。いつもの、長閑で落ち着いた黄籃家だ。
そんな中で私は行貞さんに寝台の上でお願い事をしていた。
彼は少し離れた椅子に座って白湯を飲んでいるけれど、お互い適当に服をまとった姿で、一夜を過ごした残り香ばかりが立ち上っている。礼儀正しさなんてありもしなかった。いや、私は一応正座してるけど。
「……僕の仕事を、見てみたい、ねぇ」
彩角の参考にしたいと頼んだ私に、彼は曖昧な表情をしていた。
先日の会話から、いつものように軽く頷かれるとは思っていなかったが、ここまで悩まれるとは思わなかった。
「ダメならダメでいいんですけど」
けどそれは、彼にとって、それだけ私の未来を見ることが苦痛ということなのだろう。
「んー、いや、協力はしたいんだけど……」
「やっぱり、見たくない?」
私の言葉に、彼は苦笑いを浮かべる。
「まぁねぇ。特に見ないようにしてきたから、改めて見ろって言われると、やっぱりね」
「じゃあ……」
いいです、と言おうとした私を彼が遮る。
「いや、いいよ。やろう。これもきっと、太母の思し召し、ってやつなんだろう」
「平気?」
「ま、なんとかなるだろうさ」
強がっている、という雰囲気ではなかったけど、よく見ればその指先が震えている。
私は寝台を飛び出して、跪くようにその手を両手で包み込んだ。
「急にごめんなさい」
「いいよ。いつかは向き合わなくちゃいけなかったことだ」
驚くほど優しい声音でそう言って机に湯呑みを置いた彼が、私の頭を撫でる。角の彫刻をなぞるように指先を躍らせて、生え際をくすぐってくる。
「ただ、そうだねぇ……その代わり、少し僕を甘やかしてほしいかな?」
告げられた言葉に、思わず笑ってしまう。
だって、それは大の男が、私のような歳の子に言うには少し、幼稚すぎるような気がして。対価というには、安すぎるような気がして。
「いいですよ」
けど、それでいいならいくらでも。
笑顔を浮かべてそう返せば、流れるような動きで寝台に運び込まれてしまった。酷く手慣れた感じで改めて正座をさせられて、膝の上に頭を載せられてしまう。
逆さまを向いた頭が見上げてくるというのは、なんとも言えない不思議な感じがあった。
「いやぁ、僕の奥さんは優しいなぁ」
にへらぁと表情を崩した彼がそう告げる。なんだか酷く嬉しそうで、つい、吐息してしまう。
「やってみたかったんですか」
「前の仕事をしている時、ヒトの男が自慢してるのを聞いたことがあってねぇ。まぁ、角が邪魔だったりしてなかなかうまくいかないものだけど……」
言われてみると、こういう姿勢をしている絵巻を見たことがある気がする。
とはいえ、彼に限った話ではないけど、私たちは角があるから、この体勢から左右を向いたりはできない。
あの本にあったお腹の方を向いたり、なんていうのは、腿に角がめり込んでしまうので難しい。
「それで、感想は?」
「君の匂いがとても濃くて、いい気分だよ。後ろ頭に感じる肉感も悪くない」
「なんか変態的じゃないですか?」
「男なんてみんなそんなもんだよ」
「もう」
なんて情けないのだろう。
……なんて言いながら、彼の頭を撫でるのが、意外と楽しくて。
母があえて空気を壊す覚悟で食事を告げにくるまで、私たちはずっとその姿勢でいた。
そして、その日からちょうど一週間後に、私は彼に連れられて仕事場に行くことになったのだ。
***
珍しくぴっちりと服を着こなした行貞さんに連れられて、私は彼の仕事場へと向かっていた。
彼の……いや、彼ら星読みの仕事場は、私たちの住む区画から北へと進んだところにある、広大な庁舎の影に隠されるようにして存在している洞窟から行くことができる。
少し狭い感じのする洞窟を進んでいくと、ある場所から雰囲気が変わる。
手が届きそうだった左右の壁がなくなって、頭上にあったはずの天井が消えて、きらきらと光が瞬き始める。
星海の枝と呼ばれるその場所は、つい先日、儀式で訪れた墓所の奥地のように、常に夜空を戴いているのだ。あの場所と違うのは、星が瞬いていてるということ。
それだけでも明るいのに、足下に葉脈のような網目状に走る光の筋があって、十分すぎる明るさがあった。
けれど、それだけの光でも払えないくらいの強烈な違和感と、肌をヒリつかせる何か恐ろしいものの気配がそこには横たわっている。
それは星空が近すぎるせいなのだろうか。それとも、この光ですら払えない闇の中に、何かが潜んでいるのだろうか。
あの場所とは違う、人を拒む何かが、ここにはあった。
「そんなに怯えなくても平気だよ」
身を竦ませる私に、先を行く行貞さんが戻ってきて手を取ってくれた。微笑みを浮かべる彼は、この空間に何も感じていないように見えた。
それは慣れなのだろうか。それとも、私だけが恐怖を覚えているのだろうか。
「怖く、ないんですか」
どうしてだか、彼も怖れを感じていて欲しくて、つい訊いてしまった。
職場なのだから、怖くなくて当たり前なのに。
「昔は僕も怖かったよ。でもま、いつまでも怖い怖い言ってたら仕事にもならないしねぇ」
慣れちゃった、と答える彼は、握る手の力を強くして、たしかにここにいるんだよと伝えてくれる。
その温もりを感じていると、自然と恐怖が遠のいていくように思える。
誰かがいる、ということは、とても心強い。
「さ、行こう。怖いのなら、さっさと済ませちゃおう」
手を繋いだまま、彼が進む。はい、と頷いて、その後を追った。
そうして、しばらく歩いていると、唐突に行貞さんが足を止めた。手を放して彼が離れていくのが、少し、寂しかった。
「さて、この辺でいいかな」
くるり、振り向いた彼がいう。
空の見え方も変わらないし、足下の光も相変わらずだ。
入り口のあたりと何が違うのか全くわからなかったが、彼にはわかる差があるのだろう。
「これって、どこまで続いてるんですか?」
「んー、少なくとも端に辿り着いたって人は聞いたことがないなぁ。帰ってこなかった、って話は何度か耳にしたことはあるけど……」
「そんなに広いんですか?」
「うーん、どうなんだろうねぇ。怖がらせるための怪談か、よほど入り組んでるんじゃない。こうも暗いと上下感覚なんて適当になるから、上がったり下がったりしてもわからないでしょ?」
意識できるほどの傾斜ならともかく、比較物がないとわからない程度の傾斜だったら、いつの間にか登ったりしているということはあるのかもしれない。
「ま、そんな奥に行く用事ないし。どーでもいい話だよ」
「はぁ……」
ずいぶんと軽いなぁと思ってしまう。けれど、理解できるような気もした。
どうせ考えてもわからないのだから、考えるだけ無駄なのだろう。たとえその広さが、さっき感じた恐怖に繋がっているとしても、この辺りまでは安全なのだし。
「さて……それはともかくとしてさ。始めようか?」
「は、はい」
彼が薄く笑う気配がして、ぱちん、と手が打ち鳴らされる。
その音が、広い広いこの空間に染み込んでいって、何かが均されていくのがわかる。
同時、彼のまとう気配が変わった。いつもの、ダラけた、柔らかな空気ではない。襟を正したときのものでも、ない。
――それは、何?
わからない。未知の感覚。
いいえそれは、少し、この場所に充満する怖ろしさに似ていて。
顔を見るのが、怖い。
いつしか私は、目を閉じて……しまう。
『さあ、僕を見て』
彼の声が聞こえる。まるで、陶器のツボを被せたような、不思議な硬質感を被せられた声が。
本当にそれは彼の声なの。この闇に潜む何かと、入れ替わってしまったのではないの。
怖れに応えを返せないでいると、私の手が彼の両手に包まれる。
『見届けるんだろう? ほら、開いてごらん』
伝わってくるその温もりは本物だったから。
私は――目を、開く。
目を閉じる前と何一つ変わらない景色の中、瞳の中に星を浮かべた行貞さんが目の前にいた。
柔らかな、いつも湛えているものとはまた違う、優しい微笑みを浮かべて、私を見つめていた。
『さあ、星を見よう。空を見よう。その輝きが条へ変わるのがわかるだろう。それが揺らぐ糸になるのが見えるだろう』
瞳の中、浮かぶ星々が蠢き始める。ゆっくり、ゆっくりと、遥か夜天にも中心点があるとでもいうように、キレイな弧を描いて。
いいえ、いいえ。それは瞳の中の出来事ではなくて。
空。空だ。今私の頭上を覆う星空が回転している。
ぐるり、ぐるりと。ここが中心であるはずがないのに。私の頭上がそうであるかのように、周囲に光条が増えていく。
『見えたかな。わかるかな。それが君だ。それが君を包む人だ。
さぁ、星を読もう。震える糸たちのあげる声を聞こう』
弦が鳴動するかのように、遠大に引き伸ばされた音が響く。
それは私の動きに答える音。それは私の音で震わされた音。
それは過去。これまでのこと。
それは未来。これからのこと。
音が広がる。重奏が重なっていく。
それはもはや耳では捉えきれない大合唱。
おそろしくおぞましいほしのこえ。
音に飲み込まれて、体がバラバラに撹拌されていく。
私が引き伸ばされる。
私が小さくなる。
このあまりにも広すぎる天に、ぽつんと、投げ出される。
近くの光が遠すぎる。
近くの光が早すぎる。
条にしか見えない。
触れられない。
置いていかれてしまう。
それはきっと、芙蓉や行貞さんなのに。
これは嫌だ。
こんな孤独、嫌だ。
手を伸ばして、少し先にいる行貞さんに触れようとする。
私を見ている。私の先を読んでいる。私を聞いている彼に、手を。
手を……!
――ぱちん、と手が打ち鳴らされる。
感覚が一気に体に戻って来て、強烈な頭痛と吐き気が破裂した。
「うっ……!」
私が膝をつくよりも早く、行貞さんがどこかに持っていた甕を差し出してくれて、その中に躊躇いもなく嘔吐した。
「ごめん、ごめんね。まさかここまで才能があるとは思ってなかったんだ」
そんな私を彼が抱きしめてくれる。包み込んでくれた彼の匂いが、少し、動悸を抑えてくれる。
私はここにいて、彼に触れられているのだと確信させてくれる。
「あ、れは……」
なんだったのだろう。謝られるということは、本来見えない景色のはずなのだろう。
きっと、普通はあの星を目に浮かべた彼が見えるだけ。
胡散臭そうな笑みで、こちらの未来を紡ぐ彼が見えるだけ。
けれど、私が見たのは空だ。漆黒の空。何もなく、誰もが遠すぎて、そして、何処かへ落ちていくだけの場所。
「僕らの見ているものさ。僕らは空へ行き、少し離れたところから君達を見る。だから先がわかる」
「おかめ、はちもく?」
「そんなようなものだね」
あんなにも恐ろしい景色を、彼は何度も味わっているというのだろうか。
その中で、自身に致命的なものを、見てしまうのだろうか。
ああ、それは、なんて恐ろしくて、耐え難い。
「でも、まあ、今回はいいものが見えたよ。とても、幸せな道行だ」
あの景色を見た今、自分だけの未来なんてどうでもよかった。
私以外の、私が触れられる人がどうなっているのかが、気になっていた。
「……私だけ、じゃなくて、行貞さん、は?」
「安心して、僕にも優しい未来だったよ」
ああ、それならよかった。
ほっ、と安心した私は、そのまま崩れるように、彼に体をあずけて、目を、閉じる。
***
次に目を覚ました時、私は自室の寝台にいた。
掌に温もりを感じて傍を見れば、少し心配そうな顔をした母がいた。
「聞いたよ。倒れたんだって。大丈夫だったの?」
「うん。少し酔っただけ。そんなことはどうでもいいの」
体の奥底から、強烈な衝動が湧き上がってくる。
彼の、彼の角を彫らなくては。彩って、傍に寄り添わなくてはいけない。
「はいはい。その目、あの人にそっくり」
「お父さんのこと?」
「そ。やると決めた時のあの人の目に似てる。とても恐ろしくて、美しい意志の塊。説得とかする気にもならない」
そう語る母は、どこかうっとりとした雰囲気で、もしかするとそんな父の姿を思い出しているのかもしれなかった。
それから、手を離した母が、少し離れたところに置いてあった布を取ってくる。
「あんたが出かけてる間に届いたよ。ったく、こんなの買ってもらっちゃって」
その青々とした布は、私が芙蓉に頼んだものだ。彼女の知り合いたちは確かな仕事をしたようで、その色味は、私の色にとてもよく似ている。ほんの少し深すぎるような気もするが、これはこれで不満がない。
けれど、それは一目見た瞬間から、並大抵の品ではないことがわかる布だった。その光沢といい手触りといい、私のお遊びのようなものに付き合わせていいものではない。
それだけ期待しているということなのか。それとも……。
「綺麗な布だね。何に使うんだい?」
「行貞さんの角に巻くの」
「はー……勿体無い」
「まあちょっとね。でも、これくらいじゃないとね」
彼を包むにはこれくらいで十分なような気もしていた。
だから問題は、私がこの良さを潰してしまわないかということで。
「ねぇ、お母さん?」
「んー? 何か頼みごとかなー?」
「うん。ちょっと、手伝って欲しいことがあるの」
「……ったく、仕方ない子だね」
やれやれといった顔をしながらも、母に拒む様子はなくて。
これなら千人力と、私は図案を引っ張り出してきてやりたいことを説明し始めた。
そして、それから数週間は後。
私は行貞さんの角を彫っていた。
ぐるりと渦をまいた彼の角を遠目から見たり、近づいて見たりを繰り返しながら、少しずつ図形を作り上げていく。
それは星と柊の絡み合う唐草模様。余計なお世話だろうけど、彼を悪いものから守ってくれますようにという願いを込めたものだ。
あの真っ暗な世界は孤独で、そして危険な場所だ。彼は慣れているから平気というけど、寄り添う者がいたって邪魔ではないだろう。
それから、その模様に沿うように、角に巻きつける。この布には目のように見える刺繍を入れてある。正面から見ると、もう一対の目が見つめてくるように見える仕組みだ。
巻きつけるのに使った彩括りは、櫂の形に似せて作ってもらった。彼がどんな場所からでも帰ってこられますようにと。
「ふぅ……」
これで、ずいぶんとそれっぽくなったのではないかと思う。いいや、いざやるとなれば雰囲気はあるのだけど、私なりにそれの手助け、というか。
「終わったのかな」
「ええ、まあ、なんとか」
「見てもいい?」
保護のために被せていた仮面を取って、手鏡を渡す。体を起こした行貞さんは、食い入るように全体を眺めていた。
やがて、草木が芽吹くように、ふんわりと笑みが零れた。
「流石僕の奥さんは上手いねぇ」
「まだ奥さんではないです」
「形式上の話じゃないか」
まあ、そうなんだけど……色々、先に済ませてしまったし。
「さて、君としてはこの彫りは何点なのかな」
にんまり、笑みを深めた彼が問うてくる。意図したことだけど、布の眼と合わせて、本当に胡散臭い雰囲気しかなくなった。……うん、家にいる時は布を外してもらおう。うん。
「一応満点は目指しましたけど」
「けどぉ? おやおやまさか届かなかったとでも?」
「むしろはみ出た感じ」
正直ここまでになるとは思ってなかった。着崩した着物姿でこれなのだから、しっかりとした格好をさせたらどうなることやら。
「ははは。つまりとても胡散臭く見えるということだね」
「まあ……だから、家にいる時はその布外して」
「手ずから編んでくれたらしいのにぃ?」
「家じゃ演出はいらないでしょ!」
もう、と鼻を鳴らしてしまう。絶対にわかっていてやっているだろう、これは。
「仕方ない。無くさないよう別のところに巻きつけるとしよう」
「別に、なくなったら新しいの用意するけど」
「こんなに綺麗な青い布、そんなホイホイ買えるものじゃないってことくらいわかるよ。なにせ一月近くも前から仕込んでいたんじゃないかい?」
「それは、まあ……」
確かに図案を思いついてから、それくらいの時間が経っている。それは裳着よりあとで彫りたかったから、というのもあるけど、この布に手を入れるのにそれぐらい時間が掛かったのだ。
なにせあまりにも質が良かったものだから、おっかなびっくりやっていたのだ。布の手配をしてくれた芙蓉の仕事仲間には、改めてお礼をしないといけないだろう。
「僕はね、仕事柄色々なものを貰うけれど、こんなにも愛があって、嬉しい贈り物は初めてなんだよ」
「またそういうことを言って」
「事実だからねぇ」
きゃらきゃら笑う彼に、頬が熱くなるのを感じていた。
わかりにくいと告げてから、彼はひどく直裁になった。頻繁にこうして喜びや慕情を告げてくるので、恥ずかしくなる日が絶えない。
「僕は君が好きなんだよ? とても、そう……言葉では言い表せないくらい、とてもね」
「うぅ……」
日々、苦手だと告げた心が塗り替えられていくのを感じる。
もちろん、それは不快というわけではない。むしろ、嬉しいのだろうけど、どう返していいのかわからないのだ。
「ところで色はさしてくれないのかな?」
「そんなの、どうしてかなんてわかってるくせに!」
きっとこれからずっと私は彼に振り回されるのだろう。
とてもとても胡散臭い彼に。
だって、彼の角を自分の色に染めた布で包んでしまうくらい、私も彼のことを好きになれるんだから。
ここまでお読みくださって、ありがとうございました
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