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好きなもの、嫌いなもの

 ――私の角は欠陥品だ。


 毎朝姿見に写った自分の角を見ながら、私はそう溜息を吐く。


 耳の上から伸びる、左右の角。それは、母のように枝分かれすることはなく、むしられた手羽先のように途中で一度まがるだけの、枝一つない真っ白なだけの角。

 まるで老人の使う杖のようだとも思う。それほど、長さがあるわけではないけれど、根元から折って少し形を整えれば、そっくりだろう。


 注視していると、むっと眉間に皺がよった。父譲りだという切れ長の目は、目力がとても強いから、ひどく怖い顔になってしまう。

 こんなことでは、女の子としていけないだろう。むにむにと揉み解しながら、姿見から視線を離した。


水希(みずき)ー、いつまで鏡見てるの。出かけるんでしょ」

「今いきますー」


 揉みほぐすのはほどほどに諦めよう。どうにもならないことはある。

 最後に改めて姿見を見て、クセの強いせいですぐ飛び跳ねてしまう髪の乱れを整えて、私は自室を出た。


 廊下に出ると、花見に向けて庭で準備を始めている大工さんたちと、それに絡むちびっ子たちの姿が見える。少し前まで私もああしていたように思うのだが、今ではなんだか遠い昔のように思える。


「ったく色気付いちゃって」


 声に振り返れば、たすき掛け姿の母がいる。耳の上からほんの少しだけ伸びた角は、相変わらず喪に服していることを示す短小なもの。

 化粧だって、人前に出るのに失礼がない程度の軽いもので、何か気を使っている姿は見たことがない。


 それでも、その顔は侍女にしては美人すぎる。ちゅんと摘まれたような高い鼻に、少し薄めの唇。垂れ目がちの柔らかな目元には、ほんの少し翳りが差していて、それがぎゅっと顔全体の印象を引き締めている。身贔屓がすぎるような気はするのだけれど、私の母はいいところのお嬢様のように美人だ。


 少し影のあるその美しさに、縁談がよく持ち込まれるという噂話を耳に挟んだことがある。私を産んだという実績付きだから、母が欲しいという家は多いだろう。


 実際、少し前は、知らない男の人と母が引き合わされるのを見たことが何度かあった。うまいこと私が出かけているときを狙い済ましていたようだが、そういう不幸なことはある。

 とはいえ、その人たちが私の新しい父にはならなかったし、相談されたこともない。同じように他の縁談も断っているのだろう。


 いつまでも喪に服しているのは気になるし、私としては別に結婚してくれても構わないのだけど、母としては、私が裳着を済ませるまでは、とでも考えているのかもしれない。


「私だってそろそろ裳着だからね」


 そう、もうすぐ私は大人になる。いつまでも、小さな童ではないのだ。


「早いもんだよねぇ。まだまだこんな小さい感覚しかないよ」


 そう言って母は腰の辺りで手を振った。そんな身長だったのは、もう何年も昔の話だ。


「感覚止まりすぎだから」

「親からすると、子供ってのはいつまでも小さいものだよ。まあいいや。そろそろ大人ってんなら、ちゃんと約束に遅れないよう出かけるんだね」

「わかってます。出ようとしてた私に声をかけたのお母様でしょ」

「そうだけどさ。ま、失礼のないようにね。長い付き合いだけど、だからこそさ」


 親しき仲にもなんとやら、だろう。昔から、母はその手のことにうるさかった。

 それもそうだろう。娘の嫁ぐ相手は、すぐ近くにいるのだから、教育に手を抜く姿を見られては恥ずかしくて、職場から逃げ出したくなってしまうに違いない。


「じゃ、行ってくるから」

「忘れ物ない?」


 垂れ目がちの目を細めて見つめられると、ひどく心配をかけているような気になるからやめて欲しい。そういう顔の作りなのだから、勝手な文句だとは理解しているけれど。


「大丈夫だよ。全部確認したから」

「そ、じゃ、楽しんできな」


 そのくせ、こうやって安心するとすっぱり顔色を変えて仕事に行ってしまうのだから、勘弁して欲しい。

 少し呆気にとられながら、いそいそと仕事に戻る母を見送って、私も家の中を駆け抜けた。


 そうして、深い深い洞穴から逃げ出すように、広くて静かすぎる家の門に辿り着くと、ちょうど外へ出るところだったらしい行貞さん(ははのやといぬし)に遭遇した。


「おはよう水希。今日も可愛いね」


 彼は常に柔和な笑みを湛えた人だ。着物の着方がとてつもなくだらしのないこと以外は、人好きのしそうな雰囲気をまとっている。

 彼は私が将来結婚する人だ。私が生まれた頃から決められた相手。どうして下女の娘を娶ろうと思ったのかはわからないけれど、色々あったのだろう。


「おはよう、ございます」


 ――そして私の、数少ない苦手な人だ。

 人好きのしそうな笑みで考えが隠れて、よくわからないのが気持ち悪い。


「どこへ……って、そうか、今日は彩角の日だったっけ?」

「はい」

「そっかそっか」


 頷きながら、彼は一歩私に歩み寄って、軽く頭に触れてくる。

 彼にはよくこうして頭に触られることがある。他の人にしているのも見ているから、きっと、触りたがりなのだろう。


 正直にいえば、髪が乱れるからあまり頭に触っては欲しくないのだけど、不思議と彼が触った後にそうなったことはない。気をつけて、くれてるんだろうか?


「うん。これで今日のおまじないは良しっと。気をつけて行ってらっしゃい。楽しんできてね。遅くなりそうだったり、泊まりそうならきちんと文を出すんだよ」


 なんだかその言い方が子供に言い聞かせるような調子だったから、ムッとしてしまう。


「いつまでも子供扱いしないでください」

「いやはや、すまないねぇ。でも、女の子は気をつけておくに越したことはないからねぇ。特に水希は可愛いからねぇ」

「……わかりました」


 わかっては、いるのだ。心配してくれるのだということくらい。

 それでも、癪に触るものは触る。


「行ってきます」


 声を叩きつけると、逃げ出すように走り出す。

 人通りに紛れ込むように飛び込んで、だいぶ距離を取ってから振り返った。そこには、精緻な紋様の刻み込まれた巨大な門によって通りからは隔絶された邸宅がある。


黄籃(おうらん)家、か」


 まるでゆりかごのような、柔らかで静かな空気に満ち満ちた家。私が育ってきた場所で、将来血を混ぜることになる家だ。


 ――けれどその場所のことが、私はどうにも苦手だったのだ。

 

     ***

 

 母と行貞さんに引き止められたせいで、少し遅れた分を取り戻すように小走りをして目的地へ向かう。


 人混みを掻き分けて、南へ。南へ。飾角族が住む区画で、職人街と言われるあたりまでくれば目的地はもうすぐそこだ。

 様々な色合いの幟が掲げられた掻き屋が並ぶ中、赤々と煌く幟を出している店が、私のお世話になっているお店だ。


「ご、ごめん、なさい。おくれ、ました」


 走っている最中に聞いた鐘の音で、刻限に少し遅れてしまったことがわかっている。謝罪を述べながら戸を開けば、土間を改装した、掻き屋によくある診察室が視界に広がる。


「いらっしゃい。水希ちゃん」


 私の訪問に気付いたのか、部屋の中央に鎮座する診察台に腰を掛けて、紙束に目を落としていた彼女が顔を上げた。真剣そうな目つきが、私の顔を捉えるや、ふにゃんとした柔らかなものへと変化する。


「走ってこなくてもいいのに。その辺、緩くていいんだよ?」

「後の人に……関係、する、じゃないですか」

「平気だってわかってるくせに」


 けたけた笑う彼女は、数年前から私の彩角を任せている白金芙蓉(しろかねふよう)だ。


 子供のように短く揃えられた髪と、恥ずかしげもなく晒された筋肉質な両腕を見ていると、どこか男らしさを感じる。けれど、その乳房は豊満で、顔つきも男性のように厳しいものではなく、鋭さがありながらも女性的な柔らかさを兼ね備えた細面だ。

 その顔を、頭の左右から伸びる、こちらへ牙を向くような一対六本の角が彩っている。この都市では珍しい逆角(さかづの)が、独特の色香を与えていた。


 美女というよりは、美人と呼びたくなるような人……それが彼女だった。


「それでも、気にするんです……」

「はいはい。仕方ない子だなぁ。ちょっと待ってな」


 そういうと、芙蓉が立ち上がる。彼女は女性にしては珍しく上背があるから、立ち上がるとますます男っぽい。

 立ち居振る舞いは完全に女性なのだが、この刷り込みはどうにかならないのだろうか。


 そんなことを考えている間に芙蓉は奥に引っ込んで、水筒を手に戻ってくる。


「ほら、飲みな。綺麗な顔が汗でぐっしょりだよ」

「すい、ません……」


 受け取ったそれを傾けると、冷たい水が口の中に転がり込んでくる。中身を飲み干す勢いでごくりごくりと飲み込めば、全身にスッとした心地よさが広がっていく。なんてことはない水なのに、美味しすぎて驚いてしまう。


 私が息を整えながら水筒を返すと、にっと笑った芙蓉が嬉しそうに置きに行った。その最中に、今日の彩角について訊ねられる。


「今日はどうする?」

「いつものように」


 彩角には流行り廃りがあるけれど、根本的に自分の角が嫌いな私は、そういう流行り物を加えて綺麗に見せるというのに興味がなかった。おかげで、ここ数年、彫らせているものに変化がない。


 我ながら女性としてどうなのだろう、と少し思うのだけど、自分の角なのだから文句を言われる筋合いはない。


「はいよ。さ、座った座った」


 彩角の道具がまとめられた風呂敷を持ってきた彼女に、診察台に座らされる。まだ少し身長が低いせいで、台に座ると地面に足が届かないのがちょっとだけ不満だった。


 店に入るときに見た芙蓉は、悠々と足が届いていたというのに……こういうところで、まだ子供なのだと言われているような気がする。


「いつもみたいに穴を開けて、装飾して、でいいのね」

「はい」


 診察台に座ると映るようになっている姿見を見ながら、芙蓉が私の髪を掻き分けて角に触れる。

 職人のそれとは思えないほど細い指が、さりさりと擦れる音を立てながら、私の角に目星をつけていく。


「こういう長い角は綺羅派(うち)より水んとこのがいいんだけどねぇ。もっと綺麗になれるよ」


 いつもため息混じりに言われることだ。せっかくの客を逃すようなことを、昔から芙蓉はよく言う。

 彼女なりに、美しい角というものに対してこだわりがあるのだろう。


 だからこそ、女だてらに彩角師なんてやっているのだろうけど。


「私は自分の角が嫌いだからいいの。角化粧もしないのは品がないとか言われるからしてるだけだもん」

「化粧っ気のないことで、お姉さん悲しいよ」


 ヨヨヨ、わざとらしく言ってみせる芙蓉に、私は無言で彼女の頭を指差してやった。そこにある逆角は無地のままだ。


「いやほら、私は男女みたいなもんだし? 職人だし?」

「他人の作品を掲げる気にはならないと」


 茶化すような言葉に、目に力を込めて見つめ続けていると、芙蓉は観念したようにため息を吐いた。


「……はいはい。わかってる、わかってますよ。あとでやるから。もう。そんな目で見ない」

「わかればよろしい」


 無事言質が取れたので、追及から逃れるように私の両目を覆う芙蓉にされるがままになってやる。


 母もよく言うが、興味津々な時の私の目は、赫々としていて恐ろしいらしい。

 そんなこと言われても、生まれついてのものなのだから困ってしまうと言うか……というか、黒い瞳のはずなのに赫々とはどういうことなのだろう?

 父は普通のヒトだったらしいけれど……よく、わからない。

 

      ***

 

「はい、できました、と」


 いつものように角に穴を開け、その周りに陽を示すような紋様を入れて、彩括りと呼ばれる翡翠で作られた飾りを嵌め込む。

 それを左右に幾つか。彩括りは持ち込んだ品だし、作業そのものも最低限のものでしかない。あまり美味しいお客ではないのだ、私は。


「やっぱり素材がいいと見栄えがいいね。こんな簡素な装飾でも、色気が出る」

「出なくていいんですけどね」


 姿見を見ながらの自画自賛にも思える感想に、ふん、と鼻を鳴らすと苦笑が返ってきた。職人からすれば実に業腹な発言をしたとは思うが、もう苦笑いで流されてしまうくらいに繰り返したやり取りだ。


「私としては、角のこと好きになって欲しいんだけどねぇ……」

「角そのものは好きですよ」

「他人のじゃなくて自分のを、ね。まぁ、他人のもんのがよく見えるもんなのかもしれないけどさ」


 やれやれとため息を吐く芙蓉が肩を落としながら私に退くよう催促する。

 それは、お勘定の合図ではない。交代しろという指示だ。

 

 ――そう、彼女の角を彩るのは私なのだ。

 

 いったい、どうしてそんなことになったのかと言えば、事は数年前に遡る。


 いつものように私の角について嘆く芙蓉に、じゃああなたはどうなの、と噛み付いたのだ。

 すると、ついさっきも聞いた、自分は女らしくはない、だの、職人だから、だの言い訳を並べたので睨み付けてやったのだ。

 普段ならきっと、私もそこまでしなかっただろう。たぶん虫の居所が悪かったのだと思う。


「まぁ、あとは、ほら、逆角って珍しいでしょ? 扱ってくれる職人が少ないんだよねぇ」

「その中に、掲げるに値する者がいないと」

「直裁に言うとそうなるね」


 そうして叩いてやれば本音が出てきた。

 ただでさえ職人が少ないのに、妥協する気にもならないのだから無地になるのは必然、と言うことなのだろう。


 確かに、彼女の角は物珍しい。けれど、彼女一人というわけではないのだ。私のような奇形とは違って、同じ形の角を持つ者は他にもいて、毎年それは生え変わっている。やる気があるなら、練習台には困らない。


 だのに、腕が悪いと言われてしまう程度しかいないというのは、やはり所詮はお金儲けのためにやっている者が大半、ということなのだろう。中には、真に美を追い求めているようなものもいるのだろうが……。


「でも、たしか、一回だけだけど、してなかった?」


 そう、一度だけだが、彼女の角にも装飾が施されていたことを思い出す。

 それは、素人の私の目から見えても上手いというほかない彫りで。目が肥えている彼女が納得せざるを得ない彫りだったのだろう。


 記憶が正しければ流派は違ったけど、もしかすると憧れの人……だったのかもしれない。


「ん、まぁ。一回だけね。うまい人だったんだけど……流行り病でぽっくり」

「ふーん」


 結局、その人の名前は、今に至るも訊いていない。不要の様子が、母が父のことを語る時に似ていて、詮索する気になれなかったのだ。


 きっと何かあったのだろう。色恋沙汰だったのか、もっと面倒な騒動だったのかは、わからないけれど。


 ともかく、その人が死んでからは、彼女のお眼鏡にかなう職人は一人もいないのだ。


「じゃあ、私がやるわ」

「は?」

「だから、私」


 情けない職人しかいないのなら、私が手をあげよう。

 自信満々、放った言葉に一瞬呆気に取られた彼女は、やがて笑い始めた。


「やめてよねぇ、そういう冗談。面白いけどさ」

「だ、だって」

「気持ちは嬉しいけど、そう簡単なモンじゃないよ。彩角ってのは、険しい道だ」


 そうして浮かべた、どこか、ここではない遠くを知っているという風な顔が、私はたまらなく気に入らなくて。

「じゃあ、好きなだけしごけばいいじゃない! 芙蓉はそんなにも美人なのに、その角が無地だなんて勿体なさ過ぎる!」


 精一杯、声を張り上げて、そう叩きつけて。侃侃諤諤と叫びあって。

 いつしか私は彼女に弟子入りする、という話になったのだ。


 ――この、上背のある麗人の角を彩る、ただ一人のための彩角師になるために。


 もちろんこのことは母にも、そして行貞さんにも話は通してある。

 月謝なんざいらないと彼女は突っぱねたかったようだが、いくら不要物とはいえ、生え変わった角を集めてくるのだってタダではない。

 あの手この手で拒もうとする芙蓉は、あの独特の柔らかな笑みを浮かべた主さまにうまいこと丸め込まれてしまっていた。

 

 それからは、定期的にやってきて示されたお手本を元に修行に励んだ。

 将来必要なのだといわれる諸々なんかよりもはるかに真剣に、私は角に触れていた。もちろん、そちらも手は抜かなかったけれど、まるで私の中に潜む何かが角が秘めている美しさに惹かれるように、私は角に夢中になった。


 正直なところ、芙蓉はいい師匠ではなかった。彼女としては辞めさせたかったのだろうから、あえて難題やらを投げていたのかもしれないが、おかげで私はめきめき力をつけて、無事去年から彼女の角に触らせてもらえることになったのだ。


 その日私は下ろし立ての道具を持って、彼女の頭を見下ろして、なるほど、これが彫り師がいつも見ている風景かと頷いていた。けれど、作業を進めるにつれて、だんだんと怖くなり無難な彫りにしてしまった。


 失敗は、何一つしなかった。確かに。けれどそれは結果論だ。一つでも過てば、その過ちを、彼女は掲げることになる。

 もちろん彫った跡を埋めてなかったことにすることはできる。だがそれにはお金がかかるし、何よりも、過ったという、信頼への裏切りが彩角師を苛む。

 客を失ってしまうだとかいうことは、あくまでもそれに付随するだけの現実でしかないのだ。


 怖いのは、裏切ること。


「こんなに怖いことを、あなたは毎日やっているの?」


 私の問いに、芙蓉はけたけたと笑って私を撫でてくれた。ぎゅっと抱きしめて、安心させてくれた。


「そうよー。怖いし疲れるし、なんでこんなことやってるのかなぁとたまに思うよ。でも……続けてる理由、わかるっしょ?」

「……はい」


 けれど、角を彫ることは、彩りを見出すことは、楽しいし、嬉しい。


 今回は無難な彫りにしたせいで、芙蓉の喜ぶ顔は見られなかったけれど、これが満足げな笑みだったならどんなにか私は喜べるだろう。


 ああ……これはたまらない。


「ま、でも今年のこれじゃ、名前はあげられないからね。わかってるとは思うけど」

「はい。また来年、お願いします!」


 付言するように、自分の角を指しながら笑った芙蓉に、私は大きな声を出して頭を下げた。


 別に名前が欲しいわけじゃない。私は彼女のための彩角師だから、流派の慣いなんかどうでもいい。

 けれどそれが、彼女の頭を飾ることの免状であるのならば、名を授かるような彩角を、しなくてはならないのだ。


 だから今年こそはと、修練を重ねてきた。恐れを振り払うために、たくさんのことを考えてきた。

 図案は頭の中に入っている。過たず彫れるかどうかは腕との勝負だが、決して分の悪い賭けではない。


「やるわ」


 横たわった芙蓉に、仮面を被せながら宣言した。よほど気合が入っていたのか、浅い笑い声が返ってくる。


「頑張ってね」


 きっと、大して期待はされていないだろう。そういう声色だった。


 なら、見返してあげよう。私の一年がどれだけ長かったのかを、思い知らせてあげよう。

 筆を取る。角に墨を垂らす。頭の中の全てを(うつつ)へと広げていく。

 広げ終わった黒の軌跡を、彫刻刀で削り、そこに閉じ込められた煌めきを世界へ表出させていく。


 感じるのは指先だけ。あとは何もいらない。目も耳も暗くていい。けれど、呼吸だけは、手足を動かすその種火だけは忘れてはいけない。


『集中しているからこそ、世界を広く捉えているのですよ』


 ふっ、と頭の中を誰かの囁きが通り抜けた。


 ――そう、そうだ。


 指先だけではダメだ。切れっぱしに手慰みをするのとは違うのだから。


 目は明るく。耳は、やはりいらない。

 見ろ、見ろ、見ろ。

 全体を見つめろ、細部を見つめろ。点と面を同時に見つめろ。

 必要なのは、調和。あえて崩すにも保つにも、まずはそれを見つけなくてはいけない。

 探せ。見つけろ。それは小さく、そして些細すぎる変わり方をする。悪い目では、気付けないだろう。


 ――だが君ならば気付けるはずだ。だって君は……。


 何かが耳を震わせている。ボソボソとした、分厚い壁越しに誰かが話しかけている。


 あなたなの芙蓉? 何か不安でもあるの。私という彩角師が生み出すものが怖い?

 平気よ。あなたは一等美しくなる。誰もが振り向くようにしてあげる。

 あなたを男女だなんて二度と呼ばせない。同性(おんな)だって惚れてしまうくらい美しくなれるわ。

 あなたには素養がある。私にはわかる。私だからわかる。

 

 だから、綺麗になって。

 だから、笑って。

 

 私の名前を、呼んで。

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