phase.2-3
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ダイブしてから約一時間。どれだけ歩いただろうか。この『ポータル』と呼ばれる物体を背負って。
「マスター? 大丈夫ですか?」
心配そうな表情を浮かべる心に笑顔で答える。
「まだ、大丈夫かな」
額の汗を拭って歩みを進める。
こっちの状態などお構いなしにペースを落とさないクロッカスの背中をじっと睨み付けてやる晴一朗。
少しして大人気ないなと自己嫌悪に陥る。
晴一朗の肉体の疲労の原因は『ポータル』によるものが大きい。
ポータルは様々な機能を持つ設置型のマルチデバイスであり、周囲の安全確保に詳細な座標の特定が主となるダイブ支援設備なのだが。如何せん重たい。
一つ十キロの物を二つ背負い晴一朗は歩き続けいるのだ。しかも目的地はまだまだ遥か彼方。予定では最低でもあと十キロは歩くことになっている。
久しぶりに後悔と言う文字が晴一朗の頭の中をぐるぐると回っていた。
「うむ。クロッカスよ、少し休憩にせぬか?」
思いもよらない提案にクロッカスが足を止めて振り返る。
「どうしたの? 貴女らしくないわよ?」
クロッカスの言うとおり、ヴィクトリアは景色の違いや見知らぬ風景を楽しみながら歩けるフィールドワークが好きだからこそ立ち止まるのは見たい景色があるときだけ。
しかし今は海岸沿いに歩けなくなったところから内陸方面へ少し移動している森の中、めぼしい風景も景色も見当たらないからこそクロッカスは首をかしげた。
「たまには余とてそういう気分の時もあるのだ」
そういって視線を逸らすふりをして晴一朗のほうを見る。
クロッカスはあえてため息をついてポータルを降ろして手近な石に腰を下ろした。
「仕方ないわね。十分ほど休憩しましょうか」
助かった。晴一朗はほっと息をついてポータルを降ろして地面に尻をつく。
「マスター。こちらをどうぞ」
そういって心は水筒を差し出し、晴一朗は礼を言ってそれに口をつける。
「ぷはっ! ふーっ。はぁ……。生き返るなぁ」
五臓六腑に染み渡るとはこの事かとしみじみ感じながら晴一朗は空を見上げた。
そして、その視線の先に信じられないものを見た。
巨大な蜘蛛だ。
ただでかいなんてモノじゃない。明らかに手を伸ばして届く距離にいないのに手のひらなんかじゃ足りないくらいに大きかった。
「嘘だろっ!」
疲れた体に鞭打ち晴一朗は飛び上がって駆け出した。
「どうしました?」
「上に馬鹿デカイ蜘蛛が居るんだよ!」
そういって避難する姿を見て何だ蜘蛛かとヴィクトリアたちが息をつくと同時にチョーカから声が発せられた。
『アンノウンです! 戦闘準備を!』
オペレータのシルヴィアの慌てた様な声に全員が瞬く間に臨戦態勢を取ろうとするが遅かった。
上から落ちてきたのはとてつもなく大きな体躯の蜘蛛。ただし、人の成りをした上半身を頭部に持つ異形の怪物。
ヴィクトリアとクロッカスが距離を取り武器を生成していく。それは彼女達それぞれに割り振られた自らを守る術の一つ。
金色のハルバードを握り締めて矛先を向けるヴィクトリア、クロッカスは両手にP90の様な短機関銃を構える。
その間に心は晴一朗の保護をするべく音速を超える速度で手を伸ばす。
しかし心の足に白い糸が巻きつき勢いよく引きずられる。
「このっ!」
心も自らの武器を生成する。それは鋭く研ぎ澄まされ妖艶とも取れる刀だった。
その刀で白い糸を切り裂く。
視線を蜘蛛の怪物に向けるとそこに姿は無くヴィクトリアが叫ぶ。
「心!」
その声音ですべてを理解して立ち上がり晴一朗の元へと走る。
心の反転がほんの少し遅れた。ただそれだけの間に突き刺すように伸びる白い糸が晴一朗の胴体に巻きつく。
「マスター!」
絶望の中に上げる悲鳴の様な心の声に晴一朗は答えることが出来ずに森の中に消えていく。
「……やられたわ。まさか出し抜かれるとは思わなかったわ」
狙いは最初から晴一朗だったのだと事が終わってからクロッカスは理解した。
心の顔からは表情が消え尻尾と耳が逆立っていた。
「追います」
その一言だけ放ち走り去ろうとする心の手を掴み止めるクロッカス。
「まちなさい。こんな森の中をどうするつもりなの?」
「匂いで追います。大丈夫です。マスターの匂いは覚えています」
今までに無いほどに力が篭る心の腕にクロッカスは眼を丸くした。
『大体の座標なら追えるから少し時間を頂戴』
チョーカから智恵の声が聞こえた。
「すぐに追ったら追いつけます」
「相手はこの森を熟知している可能性が高いわ。どれだけ罠が張っているか分からないのに一人で先走るのはやめなさい」
嗜めるクロッカスに心はようやく表情を取り戻す。
それは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「でも、でも、やっとめぐり合えたんです。私のマスター。私のマスター。いやです。いやなんです。ようやく私のマスターに。マスター、マスター、マスター……」
箍が外れたように心はマスターと呟く。あまりにも見ていられない様子にクロッカスが背中を撫でて落ち着かせる。
「安心しなさい。何も殺すつもりならあの時糸を首に巻けばよかっただけのこと。何か目的があるはずよ。それが達せられるまでは殺されはしないわ」
自分で言っていても楽観していると思うクロッカスであったが今は心を落ち着かせることを優先していた。
「その通りである。心よ、何もそう不安になることもあるまい。大丈夫、晴一朗は無事であろう」
一言も発しなかったヴィクトリアも心を励まそうとそう口にしてクロッカスも心配させないでよと言いたげにヴィクトリアに視線をやるとヴィクトリアは晴一朗の消えた森のほうを眺めていた。
あぁ、そうね。クロッカスは察して心の背中を撫で続けていた。
本当に不器用な皇帝陛下だこと。
口にする事無く言葉を飲み込みクロッカスはため息を吐く。
『すみません。ポータルが無いのを言い訳には出来ません。私のせいです……』
シルヴィアも今にも泣きそうな声音にもう好きにしてと投げ出したくなったクロッカスだった。