phase.3-1
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目を覚ました晴一朗は目を擦り昨日の事を思い出す。
何時寝たかさえ覚えていない状況でどうして布団に包まって寝ていたのだろうかと考えて姉の姿を思い浮かべる。
「全く。敵わないなぁ」
照れくさそうにそういって体を伸ばしていると戸をノックする音が聞こえた。
「……マスター。起きてますか?」
今にも消えてしまいそうな声が部屋の向こうから聞こえた。
「起きてるよ。入ってもいいよ」
恐らく思うところがあるのだろうと晴一朗は気を使う。
「……失礼します」
ゆっくりと開かれる扉。声音と同じくその表情はあまりにも痛ましく言葉を詰まらせる。
「……マスターは」
その目は暗く深い紺色をしていた。
「私を許してくれますか?」
卑怯な質問だと心も自分で理解していた。
しかし、そうでもして答えを晴一朗の口から聞かなくては心は自分を保てない。
自分はマスターの犬失格だ。
もし許して貰えたとしてもどうやってそれに報いたらいいのだろうか。聞きたくなかった。マスターの泣き声など。悲しませたくてやったわけではない。
それでもすべては自らの落ち度による所。
せめて、せめて自害するにしても最後に自らの主の微笑みを抱いて逝きたかった。
彼女の、心の本質はたった一つ。
主の犬になることだけ。
それは心にとって、デザインモデルとなった少女の一族すべての逃れることの出来ない宿命染みた血筋ゆえ。
どれだけ犬に成りたくとも人は人でしかない。
故に心は忠犬であろうとした、それでしか自らが犬足りえないと思い込んでいるからだ。
初めて出会った瞬間、すべてを捧げて使えたい。そう魂から思えた相手だからこそ、唯一無二の運命のマスターだからこそ、自らの失態が許せなかった。
気が狂いそうで耐えられず心は最後にここに来た。
「…………。」
何も知らない晴一朗はその答えを出しあぐねていた。
心が許されなくてはいけないことをしたのかとまずそこからよく分かってない為、許していいのか許しちゃいけないのか悩んでいた。
だが、その態度に心の顔が絶望に染まっていく。
晴一朗なら卑怯な質問だとしても笑顔で許してくれると信じていたからだ。
本当にもうどうしようもない事をしてしまったのだと心は思考が深淵へと誘われて行く。
小さく口から吐息が漏れ今すぐにでも発狂してしまいそうだったが何処まで行っても犬の本質がこれ以上の失態を押し止めていた。
「……心」
明らかにまともじゃない心の様子に晴一朗は無意識にそう口にして両手を広げていた。
「あっ……」
吸い寄せられるように心はおぼつかない足取りで晴一朗の胸に顔を埋め、そんな心を強く抱きしめた。
あぁ。この匂いだ。この匂いが私は好きなんだ。マスター。マスター。マスター。
心は胸のうちで晴一朗の甘さとも言える善良な優しさに身を委ねる。
「大丈夫。君は何も悪くない、だから許すよ」
どうしても聞きたかったその言葉に全身が震える。
好き。好き。好き。大好き。大好き。大好き。慕っています。愛しいです。愛しています。
心の頭の中が晴一朗に対する思いで溢れていく。
狂気が融けていくのを晴一朗は心の尻尾と耳の動きで感じてほっとする。
「辛いなら何時でもこうしてあげるから悲しい顔をしないでくれ」
子供をあやすように頭を撫でながら優しく落ち着かせていく。
「ですが。……マスター」
心が腕の中で震えそっと胸を押して離れようとするから晴一朗はそれより強く抱きしめる。
「君まで……。君まで俺の前から消えないでくれ」
晴一朗が吐露したのは失う恐怖だった。
すでに一つ、大きな荷物を背負った晴一朗は失う恐怖に脅えていた。
その言葉を聞いて心はとめどない感情が溢れ全身に甘い痺れが走る。
「……はい。私はマスターの傍に居ます。今もこれからもずっと。ずっと」
血よりも濃く、命よりも重く、愛よりも深い言葉。
たとえ晴一朗の口から自らが主であることを認められなくとも心は晴一朗の犬として、忠犬であることを誓う。
死ねと言われれば死のう。殺せと言われれば殺そう。慰めろと言われれば慰めよう。待てと言われれば待とう。
だから、その時が来るまでお傍に居させてください。頭を撫でてください。名前を呼んでください。愛させてください。恋慕することを許してください。
この幸福に身を委ねることを許してください。
「ありがとう」
そういって晴一朗は腕を解き心の瞳を見つめる。
「大丈夫かな、腹も減ったし食堂にでも行くか」
「はい。私が何か作りましょうか」
いつも通り。子供のような笑顔の心を見て晴一朗はほっとして部屋を出た。