解説ウ〇キペディア =ワールシュタットの戦い=
ワールシュタットの戦い、又は、アムネリア帝国第一戦役とは、帝国歴元年、10月27日~11月9日に掛けて、アムネリア王国東部へ侵入したカルッタ王国遠征軍と、アムネリア王国第2王女アリス・アムネリア率いるアムネリア王国軍が激突し、カルッタ王国軍に完勝した戦いと、その後のアムネリア王国東部国境までの追撃戦、東部国境地域、ノルトライン=ヴェストファーレン州にあるイーザーローン要塞、通称イゼルローン要塞を粉砕した戦いと、転進し、アムネリア王国西部、アレシュタインにて、カロン大公軍を打ち破った戦いまでを言う。
当時の暦は、帝国歴でなく、チャールズ1世陛下即位より12年と、統一された暦が存在しなかったが、アムネリア帝国初代皇帝、ハルキ一世、通称、始皇帝が帝国歴を創始した時、帝国歴元年を彼がアムネリア王国の地に立った時とした為、便宜上、帝国歴で表記する。
当時のアムネリア王国は、10月初旬に起こったカロン大公の反乱の対応に追われており、王国の主力は、鎮圧軍として王国西部に拘束されていた。
これを奇貨と見たカルッタ王国は、同盟を破棄、アムネリア王国へ侵攻を開始した。
カルッタ王国は、アムネリア王国の長年の同盟国であり、又、近年、アムネリア王国王女、イザベラ・アムネリアが嫁いでいた為、アムネリア王国側は、全く警戒していなかったと言われる。
国境要塞を僅か3日で抜いた後、破竹の勢いで西進したカルッタ王国軍は、3万を以て王都に直撃する位置にあった。
それをアムネリア王女アリス・アムネリアは、3千の兵を以て、野戦で迎え撃ったと言われる。
カルッタ王国側は、専業兵士の騎士団や傭兵団の比率が高く、数も10倍であったと言われるが、戦後、生存者があまりにも少なく、カルッタ王国そのものが大混乱に陥った為、正確な陣容は判っていない。
アムネリア王国側は、ユキタ男爵軍を前衛とし、他の諸侯軍の騎士と僅かな王国軍を中央と後詰めに配し、民兵や徴用された歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。
アムネリア王国軍中軍が、小高い丘の上に本陣を置くと、先陣のユキタ男爵は、本陣に着弾観測班を派遣、未だ、行軍の縦列から、横隊へ戦列を移行状態にあったカルッタ王国軍へ試射を敢行した。
そして、試射が目標近傍に弾着を確認した為、修正射を行わず、効力射を開始したと言われる。
戦記物では、敵と友軍の距離が2キロの時点での砲撃とあるが、帝国に残る資料では、1マイル(約1.6キロ)に着弾とあり、戦車砲の照準器の測定での報告であり、こちらが正しいと思われる。
ただし、戦記物は、当時、アムネリア王国軍の大将を務めていたアリス・アムネリア王女の侍従武官、ハリファ卿の手記を元に書かれており、目測で3割以上も誤差があると言うのは、武官としてどうかと思われ、原因は、初めての砲撃戦を目にして、激しく動揺したからでは無いかと考えられる。
この当時の戦術としては、魔法や弓矢による遠距離攻撃の被害を防ぐ為、防御結界を戦列正面に施すのが常識であり、戦車の射程が2キロ超と諸国に伝わると、この後、アムネリア王国や帝国に抵抗した国々は、対抗策として、射程距離外からの結界展開を行うようになった。
ただし、榴弾が直撃すれば、2キロの距離でも、防御結界は無意味であり、徹甲弾なら、都市や要塞級の防御障壁も貫いた為、戦車砲の威力を正しく認識出来なかった数年間は、砲撃から生き延びるのは運以外に無かった。
効力射の開始によって、カルッタ王国軍は大混乱に陥り、状況を打開する為、カルッタ王国騎士団の最精鋭、黒騎士隊を右からアムネリア王国軍前衛に急進させた。
しかし、ユキタ男爵が所有していた対空戦車の弾幕によって、騎士隊は時を置かずして壊滅。
それを見たカルッタ王国軍は戦意を喪失して、敗走に移った。
しかし、ユキタ男爵は、2輌の対空戦車で、敗走する軍を左右から挟み込み行進間射撃を敢行、カルッタ王国軍は敗走から無秩序な潰走となっていた。
行進間射撃による追撃は、携行弾薬の制約によって、短時間であったらしいが、潰走となった軍はやがて四散し、翌々日に行われた通称、イゼルローン要塞攻略戦までに、要塞へ到達した兵士は数十人であったと伝わっている。
要塞攻略は、数十発の徹甲弾によって、1時間と経たず終了し、後に、要塞跡を訪れた大魔導士ゲベルスに、
「大陸中の魔導士を集めても、1時間で此処まで破壊し尽くす事は、魔法では叶わぬ。」
と言わしめた。
要塞戦後、ユキタ男爵は、アリス王女にカロン大公の反乱軍討伐の為の転進を提言、これを受けた王女は、僅かな供回りと、ユキタ男爵軍以外の全てを、カルッタ王国軍の残党狩りと治安回復に残し、王国西部へ向かった。
転進軍は、翌日にはユキタ男爵領で、馬車や馬から、マウルティアに牽引させた兵員輸送車へ乗り換え、短時間の補給を終えた後、3日後には、カラン大公討伐軍と合流して、鋼鉄の猛威を王国西部でも再現する事になる。
ただし、王国西部の戦いは、旧来の戦の作法に則って推移しており、転進軍の合流時点で、大公軍の本陣には堂々と大公旗が翻っており、大公自身も真っ白な全身金属鎧に、金の装飾が施され、黒い背高帽子は、希少種の飛行系魔物の色鮮やかな羽で彩ってるなど、非常に目立つ装いで大公軍兵士を鼓舞していた。
その為、大公は、ユキタ男爵が搭乗していたオストヴィントの8連射で、一瞬にして死亡した。
旗印である大公の突然の死亡で、反乱軍は大混乱に陥り、多くの兵士は、投降するか、逃亡したが、後がなく、理不尽な戦闘に納得の出来ない反乱軍の貴族や騎士は、少数ながらも抵抗した。
正しくは、抵抗しようとしたが、戦車の想像を絶する火力で、一瞬で沈黙した。
この僅か2週間の戦争の衝撃は、ユキタ男爵を公爵に陞爵する際に、王国貴族から反対者を全く出さなかった理由とされる。
又、王国の東西を短期間で移動し、戦場で有機的に機動する為の立役者、戦車と無線は、戦後、王国内外から注目された。
周辺諸国は、戦車の開発に取り組むものの、機構が難しい上、冶金技術が足りず、更に戦車砲の再現が困難を極めた事から、装甲を施した各種ゴーレムや、対戦車用火炎魔術の開発に傾斜していく。
しかし、無線は比較的早くから再現し、魔導通信技術の開花を促進した。
この戦いは、帝国史では、アムネリア帝国第一戦役と名付けられ、諸外国でも公文書ではそのように記述されるが、そもそも、この時点でアムネリア帝国は成立しておらず、又、当事者たるユキタ男爵軍は、ワールシュタットの戦いと当初呼んでいた為、一般的にはワールシュタットの戦いと呼ばれる。
因みに、ワールシュタットとは、戦車兵の祖国の言葉で、『死体の山』と言う意味である。