怨叉-おんさ- 裏野ハイツ編
裏野ハイツへと引っ越して来た時から全ては始まっていた。
<3月7日 午後1時 裏野ハイツ203号室>
「なぁ、ユキト。このプラモデルは、どこに置くんだー」
ひろあきは、顔の辺りまで積み重なったプラモデルの入った箱を抱えながら問いかけてきた。
大学2年の春、僕はこの海桜徒台にある裏野ハイツへ引っ越すことなった。大学に通うのには距離的に遠くはなったけれど、電車一本で通える利便性の良さと徒歩10分以内にコンビニやコインランドリーなどがあるという好条件に喜んで賃貸契約をした。
「ちょっ、大事に扱えよなー。俺の商売道具なんだからさぁ」
ヒロアキが抱えていた箱を半分受け取って、洋室のウォーキングクローゼットの角に積み上げた。僕は大学卒業後に模型造形師になろうと考えている。現在も大学に通いながら、作品をコンクールに出したりしているし、作品が2点ほど正式に一般販売されている。
「おまえー、そこって服を入れる場所だろうが……てか、そう言えば衣類って書かれたダンボール箱なかったけど。どのダンボール箱なんだ?」
「あー、ないよ。全部、リサイクルショップに売ったもん」
「はぁーーーー? じゃあ服って、いま着てるのだけなのかよ! どうすんだよ、明日からの着替えは?」
「大丈夫だって、あと4時間くらいしたら密林から頼んどいたの届くからさ」
「マジ? …………おまえ、ホント変わってるよなぁー。今回の引越しだっって、例の占い師のアドバイスなんだろう? まぁ……いいや。日が暮れる前に片付けちまおうぜ」
心の底から呆れ果て疲れた顔を浮かべながら、ヒロアキは残りのダンボール箱の開封をはじめた。
僕だって、ヒロアキの言いたいことは分かる。それでも牛立さんのアドバイスは、僕にとって最優先する事柄なんだ。
それから僕とヒロアキは、必要最低限の会話を交わすくらいで荷物を解いて部屋に配置することに専念した。
荷物を置いていくうちに、前に住んでいた部屋よりもこの部屋のほうが広いので、思っていた以上に何もないスペースが空いてしまうことに気が付いた。これならば、リサイクルショップにいくつかの家具を売る必要がなかったぁーと少しだけ僕は後悔した。
「よっしゃ~~、終わったーー。ユキトぉー、腹減ったからさぁなんか食いに行こうぜ…………お、そうだ。せっかくだから、引越しそばを出前でも取ろう」
「うん、いいよ。……おっと、服が来たかな? 」
ちょうどタイミングよくインターホンが鳴ったので出ると、双頭の犬のマークが付いた帽子を被ったケロベロス急便の人が立っていた
「ケロベロス急便です。お荷物をお届けにまいりました」
「はい、ご苦労さまです……」
宅急便の人が差し出された受け取り伝票3枚にハンコを押して、ダンボール箱3つを受け取った。
「ヒロアキー、手伝ってくれよ」
3つ重なったダンボール箱上2つを抱えながら、部屋の奥にいるヒロアキに呼びかけた。
「んー、面倒くさいな~。…………おいおい、3箱って一年分の服でも買ったのか?」
「一年分ってわけじゃないけどさ。タイムセールやってたからまとめ買いしたんだよ」
抱えていたダンボール箱2つを洋室のテーブルの上に置いて、開封してみると箱の中から新品の服特有の匂いがした。箱の中の衣類を、それぞれ上下ごとに分ける作業をしていると……。
「なにこれっ、重っ! おまえ、どんな服買ったんだよぉー」
「ええー? 重い服なんて買ってないはずだけどなぁ……あっ、それ牛立さんからの荷物みたい」
受け取った配達控えを気になって確認すると、3枚のうち1枚は牛立さんが送り主と書かれていた。しかも、荷物種類に『こわれもの』と書いてあった。
「ふ~ん、ヨイショっと。ひょっとしたら、引っ越し祝いじゃねぇ」
ヒロアキは、テーブルの上にその箱を置くと開封し始めた。
「……ん? 家具?……小物いれかな?」
ヒロアキは、ダンボール箱から入っていた高級感のある漆塗りの小型の洋服ダンスみたいなものを取り出してテーブルの上に置いた。
「あっ……ズシ…………」
「なにそれ? てか、小物入れの重さじゃなかったよな。なんか入ってんのかな…………ん? うっ、うわぁーーー」
ヒロアキは叫び声をあげて、後ろ側にひっくり返った。観音開きの扉を開いた中には、ゴシックアンドロリータ衣装を着た人形が入っていて、その人形の顔は、皮膚をツギハギしたような状態だった。
「なっ……なんだよ、コレー!」
「……やっぱり、ツギメの人形」
その異形の人形には、見覚えがありました。むかし一度だけ、牛立さんが僕に見せてくれた命の次に大切にしていると言っていた人形です。
「やっぱりって、なんだよ? ユキト、知ってんのか? この気味の悪い人形のこと…………」
ヒロアキは、ちらちらと横目で人形を見ながら問いかけてきた。たぶん、直視するのは気味が悪いので嫌なのだけれど、視界の外にその人形が確実に居ることも怖いのだろう。
もしも、人形が見ていないうちに自分の方に近づいてきたら……そんな想像をヒロアキは考えてしまったのだろう。それほどまでに、この人形には生々(なまなま)しい雰囲気がある。
「うん、知ってるっていうか。7年くらい前に、牛立さんがその人形を見せてくれたんだよ。その時に、その人形を入れてある物が厨子と呼ばれる仏像なんかを入れるための物だって事も教えてくれたんだぁ~……」
「7年前って…………ひょっとして、ミキの件か?」
「……うん…………そうだよ」
僕とヒロアキは、しばしお互い押し黙った状態になってしまった。
僕とヒロアキの付き合いは中学校時代からだ。そして、ミキというのは同級生で中学2年生の時に自殺した女の子…………僕とヒロアキの初恋の人でもあった。
部屋から夕日の紅が消えて、夜闇が差し込み始めた。
「…………おっと、そうだった。外に飯を食いに行こうぜ、もちろんユキトのおごりな」
「……えっ。うん、行こう。これは明日、牛立さんに電話して聞いてみるよ」
僕はそう言って、厨子をリビングダイニングの小さい本棚の上に置いた。厨子抱えた時に、まるで赤ん坊を抱えた時のような重さがあって背筋が寒くなった。
なぜだか、帰ってきた時に部屋が真っ暗なのが嫌で、部屋の明かりを点けたままにヒロアキと近くのファミリーレストランへと食事に出かけた。
ヒロアキとは食事の後に別れて、部屋には僕一人で戻って来た。部屋に着くと引っ越しの疲れがでたのか、急な眠気が襲って来た。
明日の授業は午後からなので、眠気に流されるままにベットへと倒れこんで瞳を閉じることにした。
「…………んっ……ぅん……寒い……うん? えっ」
どのくらいの時間が経ったのだろうか。身体に当たる冷たい風を感じて、目が覚めてしまった。
目を開けると明かりの点いた室内ではなく、月明かりが照らす林の中だった。
自分が目にしている光景が理解できぬまま困惑しながら周りを見渡すと、木々の間に何かが見えた。
「…………なんだろう? ……うわっ、寒っい。あっちから、風が吹いてきてるのか」
吸い寄せられるように近づいていくと、そこには2mほどの高さの小さな社があった。神社の本殿を何分の一の大きさに縮めたような、薄暗い月明かりの下でも細かな木製の細工がわかる精巧な社だった。
社の周囲を見回してみるが、その社以外に人工物は何もなかった。というよりも、僕が倒れていた場所も含めて地面には草が伸び放題になっている様子から、何年も人が立ち入っていない感じ思えた。
そんな不釣り合いな状況に不穏さを感じながらも、模型造形師を目指している僕の興味は社そのものへと向いていた。
社の表面から反時計回りにゆっくりと造形を見ていく、その造りは只々感心する以外に無いほどに良く出来ていた。細かな彫刻の一つ一つが、丁寧に心を込めて造られていることが伝わってくる。
「へぇー、よく出来てるなぁ……寒っ…………ん? ここから吹いているのかぁ~」
社を一周しようとしていた時に、また凍えそうに冷たい風が吹いてきた。
その冷たい風は、どうやら土台の石垣の隙間から漏れ出てきているようだった。つまりは、この社の下には風が吹いてくるような空間があるということなのだろう。
普通に考えるならば、建造物の下に穴や空間がある事自体おかしな話だ。それこそ石垣というのは、積み重ねた石の重さを互いに受けあって崩れないようになっているものなのだから。
「…………ん? ……えっ……うぅわぁぁぁぁぁーーーーーー」
つくづく変な社だなぁーと表面の石垣をしゃがみこんで観察していると、頭上の方から木の扉が開くような音がした。
僕がその音がした場所へと何気なく視線を向けると、閉じられていた社の観音開きの扉が開いていた。なんで扉が開いたのだろうと不思議に思いながらも、扉を閉じよう立ち上がって近づいた次の瞬間、扉口の空いた社の暗闇の奥から爪の長い真っ白な手が伸びてきた。
僕は驚いて悲鳴をあげながら、その白い手から逃れるために反対側へと走った。僕は直感で、あの白い手に捕まったら命を持っていかれるだろうと感じた。
「……わぁぁぁー…………おっ、落ちる」
そこから、あの白い手から、逃げなければいけないという思いだけがいっぱいで、まともに前さえ見ずに
走って逃げていたために、足が空を切ったのに気が付いた次の瞬間には斜面を転がり落ちていました。
「……ぅぅっ…………痛ってぇ~、あっ…………裏野ハイツ?」
自分が転がり落ちてきた斜面を眺めたのちに、前方へと視線を向けると裏野ハイツ遠くに見えた。今日引っ越してきたはずなのに、その姿を見て何とも言えない懐かしい感情が胸に湧きあがって来た。
とにかく自分の部屋へ、安全な場所へという気持ちのほうが先に走りだして、それを追うように身体のあちらこちらが擦り傷などで痛む状態で走りだした。
そう、まだ白い手が執拗に追ってきている嫌な気配を、僕は感じていたのです。
裏野ハイツの住人に助けを求めようとも考えましたが。今日来た住人が、いきなり夜中に扉を叩くというのは頭がおかしな人だと思われるだろうという、変に冷静な思考が働いてしまい急ぎ足で自分の部屋へ向かうことに決めた。
部屋の前に立つと、室内が煌々(こうこう)と電気が点いていることを視認して安堵しながらドアノブに手をかけて回そうとした時に「あっ、玄関の鍵かけちゃったよな」と思いだしました。
しかも、僕は疲れていながらも律儀にセーフティーチェーンまでかけた記憶がありました。その記憶によれば、部屋の鍵はリビングダイニングの椅子に投げかけたジャンパーの右ポケットの中。
「はぁ~……マジかぁー。でも、もしかしたら……あれ? 開いた」
絶望した気分に包まれながらもドアノブを回してみると、なんの抵抗もなくドアが開いた。かけたはずのセーフティーチェーンもかかってなかった。
不思議に思いながらも部屋へと入り、鍵とセーフティーチェーンをかけた。僕は奥の部屋のベットまで早足で歩いて行って布団を被って朝を待った。
「……ぅん…………ん? あ、朝か」
いつの間にか眠ってしまったらしく、目を覚ますとベットの上で部屋の明かりも付いたままだった。
もやもやした頭をすっきりさせようとシャワーを浴びていると、擦り傷などはないけれど身体が痛む感じがする。昨夜のは夢だったのか、現実だったのか、僕は分からなくなった。
シャワーからあがると、すぐに牛立さんに電話をかけた。けれど、牛立さんが電話に出ることはなかった。何度か5分刻みで電話をかけてみたが留守番電話に切り替わってしまう。仕方なく「連絡を下さい。至急、お願いします」と伝言だけを残して大学へと向かうことした。
大学の授業を終えてからもう一度牛立さんに電話をしたが、留守番電話になるばかりだった。
それから数日後、このままでは埒が明かないので、牛立さんのいる占いの館へと直接会いに行こうと考えました。
ただ、一人で行くのが少し怖くて、ヒロアキにも一緒に行ってもらおうと携帯で連絡を取ってキャンパス内のカフェで落ち合った…………のですが。
「…………えっ……ヒロアキ、どうしたんだよ? その顔は?」
カフェに来たヒロアキの顔は別人のように頬がこけて、目の下にはくまが出来ていました。その疲労困憊の見本のような姿に、只事ではない何かがヒロアキに起きているとそう感じました。
ヒロアキと合流したらすぐに牛立さんの所へ向かうつもりでしたが、ヒロアキの状態を見たらそれどころではなくなりました。
「なぁ、ユキト…………おまえ、変わったことないか?」
「えっ、変わったこと……」
その言葉を聞いてすぐに、あの出来事が思い当たりました。
「…………俺さぁ、おまえの引っ越し手伝ったあの日から……ずっと、同じ夢を見るんだよ……」
そこから先にヒロアキが語った夢というのは、僕の体験したものとは全く別のものでした。ただ、その夢の内容は僕が体験しても、ヒロアキのように衰弱しただろうと想像できる精神的にくるものでした。
ヒロアキが言うのには、その夢は必ず7年前に通っていた中学校の自分の席から始まるそうなのです。
夢の中のヒロアキは、現在の記憶と意識があって自分が中学校にいることや自分が学生服を着ていることに疑問を感じながらも、とりあえず家に帰るために教室のある4階から1階へと階段を降りることに。
そして、2階の踊り場を降り始めた頃に1階から誰かが登って来る足音が聞こえて来る。誰が来るのだろうと思っていると、足音に混じって鼻歌が聞こえてくる…………その鼻歌がノクターンだと分かった瞬間に、ヒロアキは足音を立てぬように注意しながら2階の踊り場に戻って近くの扉の開いている教室に身を隠す。
僕はそこまで話を聞いた時点で、ヒロアキに起きている出来事が7年前と同じだと感じて身体が震えました。
ノクターン、和名を夜想曲。それは7年前に自殺したミキが大好きな曲で、彼女は当時よく鼻歌で歌っていました。
ヒロアキが教室に隠れたのは、その鼻歌がノクターンだと気がついたからなんだと言っていました。階段を登って来ているのが亡くなったはずのミキだと分かったから、怖くて身を隠したんだと涙を浮かべながらヒロアキは語りました。
怖くて、怖くて、ヒロアキは教室の机の下で鼻歌と足音が去っていくのを目を閉じて待ったそうです。
ところが、足音と鼻歌が2階の踊り場に来た辺りで急に止んでしまう。しーんと静まり返った教室の中で、ヒロアキは目を閉じたままでどうすることも出来ずに隠れ続けていると……。
「ヒロアキくん」
急に背後からミキの声がして、そう呼びかけられる。びっくりして背後を向くと、制服姿であの頃のミキが立っていた。
ミキが立っているその場所は教室の中ではなく、部室棟にあるソフトボール部の部室野中。そして、ヒロアキは部室前の廊下に立っていた。
そのことに気が付いたヒロアキは、体の芯から来る恐怖で身体を震わせながらもミキから目が離せなくなった。
「ヒロアキくん、ユキトのこと……助けてあげてね」
ミキはそう告げると、ヒロアキに笑いかける。
「……ぅ……ぁ……ミ……キ……」
声にならない声でミキに何か語りかけようとするヒロアキ。その時、辺りに漂い始めた灯油の匂いに気が付いた。
次の瞬間、ヒロアキに笑顔を向けながら立っているミキの身体に火がついて燃え始める。
「……ぁっ……ぁぅ…………うあぁーーーー」
炎に包まれて朽ちていくミキの姿を、ヒロアキは悲しみの絶叫を上げ続けながら見ていることしか出来ない。
そんな夢をヒロアキは、毎晩のように見るというのだ。
僕はヒロアキにどう話しかけたらいいのか、彼の苦しみを救う術を必死になって考え続けた。
そう、ヒロアキは焼身自殺したミキの第一発見者だった。そして、自殺の前日に電話でミキから夢の中と同じ言葉を実際に投げかけられたと捜査に来た警察にも話していた。
ヒロアキの心の傷がどれほどまでに深いものだったかは、近くで見ていた僕自身が一番良くわかっている。僕自身も同じように心に傷を負ったし、その日から様々な出来事があった。
それら多くの出来事を経験して、多くの人々の支えを受けながら僕達は乗り越えた……はずだった。
その日は牛立さんの所に行くことをあきらめて、ヒロアキと過ごすことにしました。気晴らしに夜遅くまで二人で遊び歩いて、夢の件があることから僕の部屋にヒロアキを泊めることにしました。
ヒロアキを励ますつもりが、僕自身が慣れない酒を飲み過ぎてしまって酔いつぶれてしまいました。
その夜、あの夢を見ました。
ただ、違っている事がありました。前回と同じように部屋へと戻って来てドアを開けると、部屋の中が目で確認できるくらいに白く煙っており、むせそうなくらい焦げ臭かったのです。
火事かもしれないと思って、部屋中を火元を探して歩いてみますが見つかりませんでした。それよりも、気にかかることを発見してしまいました。
リビングダイニングに置いてあった厨子の扉が少し開いていて、なんだろうと思い扉を開けて中を確認してみると、ツギメの人形が入っていなかった。
この部屋のどこかに、ツギメの人形が居る。僕はその事実に恐怖を感じながらも、これが夢だという事を思い出してベットに入り布団を被ることにした。次に起きた時には、何でもない僕の部屋のはずだから……。
「……ぃ……ぉ…………ぅ」
布団を被っている僕の耳に、何かが聞こえてきた。それは隣のリビングダイニングから聞こえてくるようだった。その音の事を考えていて、僕は思いだした。部屋が煙っていることに気を取られて、部屋の鍵をかけ忘れていたことに。
人間の恐怖心とは不思議なもので、じっと目を閉じたままの方が怖い時がある。それを見たら消えない恐怖になると、分かっていても……。
僕は布団を被ったままベットから身体を乗り出して、リビングダイニングの方を覗き込んだ。
そこには真っ暗な空間があった。もちろん、僕は電気を消していない。
それどころか、例えリビングダイニングの明かりが消えていても、道路にある街灯の光が少なからず差し込むはずなのに、それすらも無い漆黒の闇が広がっていた。
「……ぅ…………と」
僕の耳に聞こえてきた音……声は、その漆黒の闇の向こうから聞こえてくる。
息を殺して、聞こえてくる声に耳を澄ます。
「…………ぃと……ぅきと…………ユキト」
その声は、僕の名前を呼んでいた。いや…………本当は、分かっていた。
その声の主が、誰なのかも…………。
「ユキト……ユキト…………」
その声が近づくにしたがって、漆黒の闇から何かが近づいて来る。それほどリビングダイニングに奥行きはないはずなのに、10m以上先から坂道を登って来るように姿を現した……それは、ツギメの人形だった。
そのツギメの人形は、僕の名前を呼びながら近づいてくる。だけど、その歩みは人形の歩みではなく、人が歩いてくるような感じだった。
ツギメの人形の姿を見つめていると、ゴスロリ服のツギメの人形が学生服を着た女の子の姿になっていく。それは、間違いなくミキだった。呼びかける懐かしい声と同じミキの姿が、僕の方へと近づいて来る。
「……ミキ、なんで?」
それは、純粋な疑問だった。終わったはずなんだ…………。
「……ミキ、君は…………」
ミキは僕の前まで来て、僕の右手を両手で掴んで胸のあたりまで持ってくると……。
「……ユキト…………ユキト、逃げて」
「えっ、逃げる?」
僕は、ミキに言葉の意味を問い返す。だけど、ミキは笑顔を向けてくるだけだった。
刹那、鼻先に焦げ臭さを感じた。次の瞬間、ミキの身体から炎が立ち上がり燃え始めた。
ミキが掴んでいる僕の右手も炎に包まれ、言葉にならない痛みが僕を襲う。
「……ミ……キ…………」
僕は炎の中で朽ち身体が崩れていくミキの姿を見つめ、意識が薄らぎ遠退くのを感じた。
「……ぃっ…………はぁ~……ミキ」
なんとも言えない虚しさを抱いたまま、僕は目が覚めた。右腕にはひりつく痛みとミキの柔らかな手の感触が残っていた。
「………むにゃむ………えへへっ……」
洋室の布団の上で、気持ちよさそうにヒロアキが寝言を言っている。今日はお互い授業はないので、寝ていられるだけ寝かせて置こう。
ヒロアキを起こさないように静かに移動して、リビングダイニングの厨子へと向かった。
「………………」
確認しなければ、何を確認すると言うんだ、そんな葛藤を抱きながら観音開きの扉を開いた。
そこには、ツギメの人形がなにも変わらず存在していた。それは当たり前のことであり、あれは夢の出来事だったという証明なのだから喜んで良いはずなのに、僕の心は虚しさに満ちていた。
僕はシャワーを浴びて、牛立さんの占いの館へ行く準備をした。ヒロアキへは、占い館へ行ってくるとメモを残して置いた。
占い館までは電車で1時間40分かかる。電車に揺られながら、僕は夢の中で見たミキの姿を思い返していた。
なぜ、全てが終わったはずなのにミキがまた現れるようになったのか。
七年前に中学校内で、死んだはずのミキの姿を見たというウワサ話が頻繁にあった。それと同時に、不可解な事故と生徒や教師の自殺が相次いだ。
幼い頃から変なモノをよく見ていた僕は、母親の友人が助けてもらったと言っていた牛立さんを紹介された。それから時々困ったことが起きると、牛立さんに手助けしてもらうようになったのだ。
だから、ミキの一件でも牛立さんに相談をした。すると学校側に話を通してくれて、牛立さんと友人の神主さん達が学校に来て対処してくれて、不可解な事故などもぱったりと無くなった。
それからもミキを学校内で見るというウワサ話が残ったけれど、どうやら学校の七不思議の一つになってしまっただけのようだった。校内で生徒が焼身自殺という事件が起きてしまったのだから、当然といえば当然のことかもしれない。
僕とヒロアキ、ミキを知っている者達にとっては悲しいことだけれど仕方がない。
占いの館の前に着くと、長い行列ができていた。これほどまでに、何かを悩んでいる人がいるのかと思うと考え深いが並んでいるほとんどの人の顔に深刻さは見えない。
この占いの館は、ありとあらゆる占い師が商店街や飲み屋街のように並んでいる商業施設だ。
僕もその長い列に並んで、牛立さんの場所へと向かった。
ところが、その場所に牛立さんの名前は無く準備中の札が下がっていた。僕は困り果てて、携帯で牛立さんに電話をかけてみることにした。
すると、背後にある店から携帯の呼び出し音が聞こえてきた。なんだか変にタイミングが合って、誰かの携帯が鳴ったのだろうと思っていたら、背後のお店から鳴っている携帯を手に女の人が出てきた。
何気なく携帯を切ってみると、女の人が持っている呼び出し音も止んだ。
「もしかして、貴方がユキトさん?」
「…………えっ? あ、はい」
「そう……貴方がユキトさんなのね。私は牛立さんの友人で矢那です。この携帯に何度も貴方から着信があったのは知っていたのだけれど、電話でどう説明したら良いのか分からなくてねぇ……」
矢那さんが話してくれた内容は、僕にとって衝撃的なものでした。
矢那さんが言うのに、牛立さんは2ヶ月くらい前から行き方知れずになっているそうなのだ。それも、占い師同士でシェアハウスに牛立さんも住んでいるのだけれど、2ヶ月前の夜中に出かけて行った牛立さんを仲間が見かけたのを最後に足取りが分からない状態で、一昨日に占い師仲間が捜索願を警察に提出してきたのだと言う。
矢那さんに、牛立さんからツギメの人形が送られてきたことを話すと。
「……そうなの、うん。やっぱりねぇ、最後に見た友人が牛立さんがダンボール箱を抱えていたって言っていたのよ。牛立さんの部屋を確認したら厨子がなかったので、みんなで箱の中身がそうだったんじゃないかって話をしていたのよ」
ということは、ツギメの人形を送ったのは牛立さんで間違いなさそうだ。
僕は矢那さんに、牛立さんから連絡があったらお互いに知らせようと話し合って占いの館を後にした。
帰り道の電車の中で、僕は矢那さんにも話せなかったある事実を考えていた。
矢那さんの話しによれば、牛立さんが消えたのは2ヶ月前のこと。
そして、僕が牛立さんからメールで裏野ハイツを教えられたのは1ヶ月前のこと。
牛立さんの携帯が、部屋に置きっ放しになっているのを矢那さんが見つけて充電切れになっているのを充電したのが2週間前のことだと言う。
それらを時系列で考えると、この僕の携帯に残っている牛立さんから来たメールは牛立さん本人が送ったメールでは無い。それどころか、矢那さんに牛立さんの携帯を見せてもらった時に確認したのだが、同じ時間にメールを送信した履歴が無かった。
一連の出来事を、考えれば考えるほどに何が起きているのか分からない。
ただ一つだけ、僕の中で決意したことがあった。
部屋に戻ると、ヒロアキが部屋の掃除をしていた。ヒロアキは昔から家事をするのが好きで、小学校でキャンプに行った時には全クラスで一番美味しいカレーを作った。それからのキャンプでは、ヒロアキが料理長と呼ばれて調理指示を出すことになった。
「おう、お帰り~。おまえなぁ、掃除は部屋の隅まで掃くのが大事なんだぞ」
人差し指を立てて力説するヒロアキに、僕は自然と笑顔になった。ヒロアキの顔は、昨日と比べ物にならないくらい良くなっていた。
「あははっ、分かったよ。よし、それじゃあ部屋中をきれいにしようぜ」
僕は荷物を置いて、雑巾を手に取った。
「なぁー、ヒロアキ」
「ん? なんだよ」
「来週末に引っ越すから、また手伝ってくれよな」
「はぁーーーー?」
こうして僕は、裏野ハイツから引っ越すこと決めました。ミキが「ユキト、逃げて」と言っていた事やメールが牛立さんからでなかった事。
そして、僕とヒロアキに変な事が起き始めた時期から考えると、裏野ハイツもしくは海桜徒台に原因となる何かがあると思えて仕方がありませんでした。
実際、引っ越してからは僕もヒロアキもあの夢を見ることが無くなりました。
ツギメの人形は、現在も僕の手元にあります。矢那さんが「もし嫌ならば、牛立さんの部屋に戻しておくわよ」と言ってくれましたが、牛立さんが戻って来た時に僕自身が手渡した方が良い感じました。
これが、裏野ハイツで僕が体験した不思議な出来事です。もちろん、僕が裏野ハイツに住むことは二度とありませんでした。
ただ、まさか数年後に、海桜徒台へもう一度を足を運ぶことになろうとは夢にも思いませんでした。
(裏野ハイツ編 完)