夢の始まり(3)
俺が高校生の頃は学校の行事でマラソン大会があった。男子は十五キロで女子は五キロと、若いからといって楽々と完走できる距離でもない。よっぽどの事情がない限り全校生徒が参加し、途中リタイアや仮病で休んでも日を改めて同じ距離を走らなければならない。
そんな過酷な行事が毎年あったのだが、魔王となった俺の体は実に軽快な足取りだった。城の地下で三十分も走った時もそうだったが、何気なく走り出して五キロ弱。未だに息切れどころか体の疲労感さえ感じられない。
なのだが、どのような原理なのか分からないが、先に根を上げたのは俺の腕の中にいるスノーだった。そのため小休憩を挟む事となった。俺は川沿いの草むらに座り、スノーは川で水浴びを楽しんでいる。
近くに集落でもあるのか森なのだが手入れが行き届き、森というより林と比喩した方がしっくりとくる。そのため木々から漏れる日光が辺りを照らし、木漏れ日が草花を反射して辺りは非常に明るかった。どことなく平和な日常を感じさせる光景に、今が撤退中の身だと一切感じさせない。
「あらあら、旅人さんとは珍しいですね」
保護者の気分で水浴びをしているスノーを眺めていると、背後から声をかけられた。振り返らなくても分かる。相手は美人でこのファンタジー世界のヒロインだと。理由は相手の声にある。例えるなら小鳥のさえずり、声量は低いが相手を引き付ける透き通った声音。それに加えてゆっくりと喋る口調は、生まれつき病弱なのだが天気の良い日だから無理して散歩をした。そんなイメージさえ自然に生まれてくる。これは確実に背後に立っている人は、美人で症状欄には【病弱】が付いているに間違いない。
来たれ俺のヒロイン! 淡い期待を胸に抱いて俺は振り返り――言葉を失った。
「……旅人さん? ボーっとしてどうかなさいましたか?」
「あっ、すいません。あまりの美しさに言葉を失い、ついつい見とれてしまいました」
「あらあら、お言葉がお上手ですね。お世辞にしても嬉しいですよ」
「はっはっは、お世辞なんてとんでもない。細く長い尻尾が木漏れ日を反射して輝き、その姿はまるで妖精の様です」
爬虫類族の蜥蜴人だけどね!
そもそも蜥蜴人とは簡単に説明すれば、二足歩行の蜥蜴である。テレビゲームだと決まって武器や防具で身を固め、視界に入った他族は問答無用で襲い掛かる勇戦的なイメージなのだが、この世界ではどうも違うようだ。現に後ろに立っている蜥蜴人――名前はハルカなのだが、装備品はワンピースに花柄エプロン、極めつけは両腕に持っているバスケット。どこからどう見てもピクニックに出かける村娘である。ちなみにレベルは俺より二つ上で三レベルとなっている。村娘が魔王よりレベルが高いっていいのか?
それはそうと、ついつい褒めてしまったが、顔は蜥蜴なので実際のところは美人だか分からない。もしかしたら蜥蜴人の中では美人かもしれないが、生憎のところ俺には区別がつかない。それによくよく考えてみたら、魔王の領地で暮らす民は人間ではなく、ファンタジー要素が詰まった生き物である。今後はあまり期待しないでおこう。
「ふふふ。もしお邪魔でなければお隣に座ってもよろしいでしょうか?」
「ええ、それは大歓迎です」
そしてハルカは草むらにハンカチを敷いて俺の隣に座る。どうでもいいがハルカの女子力は中々に高いようだ。更にどうでもいいが俺との距離が非常に近い。そのせいでハルカの体温を直に感じ取れたのだが、爬虫類だけに体温は低いようだ。
「もしよろしければ、旅人さんのお名前を聞いてもいいですか?」
「はい。名前は――」
どう答えればいい? 本名の前田健太郎を名乗っていいのだろうか? それだと人間族と勘違いされて問題になりそうな気もする。俺のステータスには名前の欄は空白となっており、特に決まってもいない。かといって『名前は――魔王です』とか言えるはずもない。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、すいません。名前はマエケンと申します」
中々名乗らない俺に痺れを切らしたのか、ハルカは怪訝そうに俺の顔を覗き込む。そのせいで伊藤が付けた俺のニックネームを咄嗟に名乗ってしまった。それにしてもマエケンは無いだろう。もし魔王として名乗る時がきたら『私は魔王マエケンです』と言わなければならない。これでは魔王としての威厳にかかわってしまうが、名乗ってしまった以上は仕方ない。他にいい案が思い浮かばないし、当面はこの名前で通していこう。
ハルカは俺の名前が可笑しかったようで、口に手を当ててクスクスと控えめに笑い「珍しい名前ですね」とほほ笑んだ。そこだけを切り取れば良い雰囲気で終わるのだが、残念な事に蜥蜴の笑顔は捕食されそうで少し怖い。
「ハルカさんはこの付近で暮らしているのですか?」
「あら? マエケンさんのお名前はお聞きしましたけど、私は名乗ったでしょうか?」
「あー、はい。先ほど教えてもらいましたよ」
詳細ステータスで名前は確認済みだったが、本人からは聞いていない。便利なスキルだが、これに慣れてしまうといつかは疑問の種を植えてしまいそうだ。今後は気をつけよう。
ハルカは「そうでしたっけ?」と最初こそは疑問に思っていたが、それほど気にするタイプでもないのか、「そう言われてみたら、そうかもしれませんね」と笑みを浮かべた。
「小さな集落がここから一キロ先にあります。私はそこでお花屋さんを経営しているのですが、これがどうにも上手くいかなくて……。だけど小さい頃からの夢だったので、貧乏生活ですけど毎日とても楽しいです!」
「そう、ですか。自分の好きな道を歩めるのは素晴らしいと思います。今は辛いかもしれませんが、花が浸透するまで頑張らないといけませんね」
小さい集落でお花屋さんを営むのは無謀だが、そこに突っ込みを入れるほど俺は野暮な人間じゃない。ここは素直に応援するしかないだろう。
「はい! マエケンさんはどちらから来られたのですか?」
「そちらで水浴びをしているスノーと一緒に王都から来ました」
「あら、これは珍しい妖精族の方ですね。あっ、もしかしてお嫁さんですか? そうでしたら私はお邪魔虫なので――」
「いえ、彼女は旅仲間の友人です。一人で旅をするより、二人で探索する方が楽しいでしょう?」
ハルカの言い方だと、他種族同士での結婚も珍しくないのだろうか? 仮にそれが当たり前だとすると、産まれてくる赤ちゃんはどうなるのだろうか?
疑問をそのままにするのも気持ち悪いので、前置きとして世間体を知らない旅人と伝え、その実態をハルカに聞いてみた。
そこから簡単に説明すると、他種族同士での結婚は珍しくないらしい。残念な事に他種族同士では赤ちゃんを身ごもる事は出来ないようだが、その場合は戦災孤児の施設から子供を引き取るケースが多いらしい。
「なるほど……。そうなりますとハルカさんが暮らす小さな集落などは、跡継ぎの問題から集落自体がなくなったりしないのですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。それはあくまで王都などの都会での話です。私達が暮らす集落では基本的に同族の集まりです。稀に他種族も移り住む事もあるようですが、あくまで稀なので問題になる事はありませんよ。……ただ今は戦争中です。私の集落もそうですが、ほとんどの男性は兵士として出兵します。それは仕方のない事ですが――って不謹慎ですよね、すいません。きっと新しい魔王様が私達を導いてくれますよね」
「新しい魔王様ですか?」
「あら? 知らないのですか?」
俺の疑問があまりにも非常識だったのか、ハルカは目を細めていぶかしむ。
もちろん知っているどころか魔王様は俺自身なのだが、この機に色々と情報を収集しておきたかった。魔王軍と人間族との戦争が第一の問題だが、情報の枯渇はそれ以前の問題であり、この世界も夢ではなく一つの世界なら知る必要がある。先ほどからチラチラとこちらを見ているスノーに聞けば早いのだろうが、その説明を真に受けてしまうのは怖い。現実世界でもそうだが、組織からの説明は基本的に己のプラスになる事しか言わない。それを鵜呑みにすればいいように使われるかもしれないし、この行為はスノーに対して『情報は他からも集められる』と牽制にもなる。それを踏まえて一般人であるハルカから聞く必要もあった。
かといってハルカがそこまで不振がるのは予想外だったので、ここからどの様な言い回しで情報収集すればいいのか俺は悩む。下手な言い訳は余計な不振を与えかねないし、そこから面倒事に発展して『あっ、自分が魔王です』とか名乗るのも違うような気がする。
「……もしかしてマエケンさんは――」
「彼は魔力不適合者です。まず初めに、大方のお話を盗み聞きしていた事を謝罪します。そして先ほど彼から説明があったと思いますが、私が旅仲間であり魔力不適合者のサポート役をしているスノーと申します」
見かねたスノーがハルカの言葉を遮った。体を小刻みに振って水滴を払いのけ、当たり前のように俺の膝元に腰を据える。設定上では旅仲間なので、それを押し通すためにスノーも一芝居をうってくれたのだろう。
スノーの返答が予想通りだったのか「やはりそうでしたか……」と、同情と珍しさを織り交ぜた眼差しを俺に送る。どうやら魔力不適合者はこの世界において風当たりが悪いらしい。言葉通りなら魔力が枯渇しているだけなのだが、たったそれだけの事で何が問題なのだろうか?
ちなみに詳細ステータスを見る限りではマジックポイントがあるので、俺が魔力不適合者ではなく建前上でスノーが言っただけに過ぎないのだろう。ここは面目よりも情報収集を優先し、このまま魔力不適合者として接した方が賢明な判断だろう。
「あら? それでしたら新しい魔王様の情報をスノーさんからお聞きになっていないのですか?」
「ええ、今晩の床を見つけた時にでもお話しするつもりでしたので、彼にはまだ話してはいません。まぁその必要もなくなりましたけども」
「そうでしたか。……なんだかすいません。スノーさんのタイミングを知らず、私が勝手な事を言ってしまって……」
「気にしないで下さい。それほど深い諸事情がある訳でもないので」
「でしたらあの事も?」
「ええ、それもまだです。太陽が昇った楽しい旅路には不必要な情報でしょう?」
「そうかもしれませんが、これは我ら魔族にとっては大切な――って、すいません。またいらない事を言っていますね」
ハルカの言う『あの事』とは何を差しているのか気になるが、あまり食いつくと変な誤解が生まれそうで、取り敢えずこの場は退くことにしよう。
ただ核心は無いが、何となく話の流れから情報を得る事ができた。どうも魔力不適合者では情報の伝達に不備があるようで、それを補うのがサポート役の務めなのだろう。あくまで想像でしかないが、人間族以外の種族――魔族にとって魔力とは生活する中で必要不可欠な物なのだろう。生活圏を見た事はないが、もしかしたら魔力が主体となっているのかもしれない。だから俺が魔力不適合者と告げられた時に、ハルカは同情と珍しさを織り交ぜた眼差しを俺に送ったのだろう。
本当はもっと話を聞いて情報を集めたいのだが、俺があまりにもこの世界の常識を知らな過ぎる。今だってスノーが助け舟を出さなければ、微々たる情報とはいえ得る事は無かっただろう。当面は常識の獲得に力を注ぎ、情報収集は二の次にした方が間違いはないかもしれない。
この行為にはスノーに対する牽制の意味合いもあったが、今の状況では俺自身が墓穴を掘る方が早いかもしれない。それなら取り敢えずは牽制を一度隅に置き、知識を得た後に行動に移せばいいだろう。
その後はスノーを交えて他愛もない話に花を咲かせ、頃合いを見計らって俺たちは先を急ぐことにした。もう二度と会う事もないだろうが、この世界で出来た初めての知り合いに手を振り、俺はスノーを抱きかかえて歩き出す。
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