夢の始まり(1)
電気はつけっぱなしでテレビからは通販番組が流れ、テレビから時折聞こえてくるアメリカンな笑い声に、俺の思考がゆっくりとクリアになっていく。
ソファーに座ったまま数十秒ほどボーっとし、そこでようやく俺は完全に目が覚めた。
最近買い換えたばかりのテレビ、紫煙のせいで黄ばんだ壁紙、冬のボーナスで無理して購入した本革のソファー、目の前の机には飲みかけの日本酒と吸い殻でタワーとなった灰皿。どこを見ても見慣れた光景がそこにあった。
「夢……か。そりゃそうだよな」
現実味はなかったが、それでもリアルな夢だった。そのせいか今でも夢の光景が頭から離れない。たぶん数時間後には記憶が薄れ、悪い夢だったのかさえ忘れるとは思うが。
時間を確認するためにスマートフォンを探す。寝落ちする前まで操作していたのか、お目当てのスマートフォンはソファーの下に転がっていた。それに手を伸ばした時、体の異変にようやく気が付く。
全身を覆う倦怠感と所々から発する痛み。そして頬に滴る一線の血液。そして夢で見た光景がフラッシュバックし、全身から汗が噴き出す。
「……いや、ありえない。あれは夢で、寝ぼけて動揺しているだけだって」
誰に言う訳でもなく、激しく高鳴る心臓を落ち着かせようと言い訳がましく呟く。
飲みかけの日本酒を一気にあおり、タバコを口にくわえて吸う。それから時間を確認するために床に転がっているスマートフォンを拾う。
時刻は深夜一時を少し回ったところだった。起床が速いどころか、本来なら二度寝といきたい所だが生憎と完全に目が覚めて叶いそうにない。
* *
「ふぁ~あ」
会社の休憩所で俺はだらしなくも大きな欠伸をした。
結局あの後は怪我の治療をしたり、スマートフォンをいじったり、読みかけの漫画を読んだり、暇を持て余していた。そのため睡眠不足となり、正午前から睡魔との激闘が繰り広げられていた。今現在は睡魔がやや優勢である。
「さっきから欠伸ばっかりで、昨日は夜更かしでもした?」
声音から察するに特に心配してくれている訳ではないが、俺の同僚であり同期であり中学校からの付き合いの伊藤詩織が、スマートフォンを操作しながら聞いてくる。
俺と伊藤は共に二十二歳の独身。中学で初めて知り合い共に同じ高校に進学し、更には短大と就職先まで同じで、仕事場での付き合いなら誰よりも長い。
毎日の様に顔を合わせているから麻痺しているが、比較的に整った顔つきの伊藤は異性からモテモテらしい。現に今も友達の紹介――もとい押し付けで異性と連絡を取り合っている。何でもいいが、面倒な表情と相手に打ち込んでいる内容がミスマッチしている。乗り気でないなら、さっさと相手に伝えればいいのに。
異性に対して伊藤はちょっと面倒くさがりやだが、それでも毎日欠かさずフルメイクで表情を着飾り、頻繁に美容室に通っているのか髪型も綺麗に整っている。身長も女性にしては割と高めで、体型もほっそりとしている。そのせいか仕事のできるキャリアウーマンを連想し、モテモテ街道に拍車をかけている。だが当の本人は理想が高いのか、中々お目当ての男性に恵まれない様子だ。
「いや、な。昨日の夢がさ――」
と、俺は伊藤に昨晩の夢を一通り説明した。
最初こそは「うんうん」と聞いていたが、途中から興味のないジャンルだと理解したのか、後半は「ふ~ん」と軽く相槌を打ちながら再びスマートフォンを操作し出した。そうなるのは分かっていたけど、あからさまな態度を取られると流石に気分が滅入る。
「それで怖くなって寝られなかった訳? 昔からそうだけど、本当にマエケンってダサいよね? オタク趣味を否定する訳じゃないけど、そのままだと彼女なんて一生無理だし。まっ、マエケンが彼女とか連れてきたら……想像しただけで笑えてくるわ」
「お、おう。楽しそうでよかったな……」
どうして俺が責められている訳? どうして夢から彼女に派生する訳? そもそも俺はオタクではない。趣味の一環として漫画やテレビゲームに多少の情熱を注いでいるが、それ以外は特に手を付けていない。……いや、最近はネット小説に若干足を踏み入れている。それを踏まえると、片足程度はオタクなのかもしれないな。
ちなみにマエケンとは俺の事である。前田健太郎、略してマエケン。なぜか伊藤は高校から俺の事をマエケンと呼ぶようになり、それが今も定着し続けている。
俺は大きなため息をつき、座っていた椅子から立ち上がる。伊藤が「あ、もしかして怒った?」と冗談交じりに言ってくる。別に怒ってはいない。ただ単に休憩時間が終わる前にタバコを吸いたかっただけだ。その旨を伊藤に告げると「私も行くー」と俺の後ろを追いかけてくる。
どういう訳か、伊藤は昔からそうだ。俺をライバル視しているのか、俺がやる事を追いかけたがる。ここ最近では、会社の付き合いでタバコを吸うようになると、その数日後には伊藤も吸い始める。時代に乗っかって携帯電話からスマートフォンに機種変更をすれば、その一週間後には伊藤もスマートフォンデビューをする。
いつだったか俺は酒の場で「本当に伊藤って俺の事が大好きだよな?」とか冗談交じりで言ってみた。その時は一瞬にして真顔になって「気持ち悪い妄想とか止めて」とか言われたのは苦い思い出だ。
「そういえばさ、その頬っぺたの絆創膏はなに?」
「これか? 俺にも分からない。夢から覚めた時に血が流れていた。どこかにぶつけた記憶もないし、なんだろうな?」
「はぁ~? ……まぁいいや。ちょっと見せてみ」
指定の喫煙所につくや否や、伊藤は強引に絆創膏を剥そうとする。俺の「ふざけんな! やめろよ!」と迫りくる伊藤の手を払いのけるが、伊藤は腕力に物をいわせて問答無用に絆創膏に引っぺがす。スリムなくせに最近はやたらと腕力が強いのはどうしてだろうか? 下手をすれば力比べで負けてしまうかもしれない。
俺の嫌がる事がよっぽど楽しいのか、伊藤は絆創膏をひらひらとなびかせ、得意げな表情をする。やられた俺はたまったものじゃなく、仕返しとばかりに絆創膏を奪い取るが、残念な事に奪った衝撃で絆創膏がくっ付き再利用はできそうにない。
「あのな、いい加減に人の嫌がる事は――」
「どこが怪我しているって? 何もないけど?」
「嘘つけ。寝起きで見た時は確かに……あれ? 本当に何もない……」
証拠とばかりに伊藤は手鏡を俺に見せてくる。
そこには絆創膏の跡とふやけた皮膚があるだけで、今朝の傷は綺麗さっぱりなくなっていた。それどころか固まった血液すら見当たらない。
一体どういう事だ? 伊藤は「寝ぼけて見間違えただけじゃ?」と言うが、俺は納得できなかった。いや、できるはずもない。なぜなら絆創膏を貼ったのは、早朝四時頃の事だった。つまり目が覚めた一時過ぎから三時間後で、それを『寝ぼけて』だけでは説明がつかない。
もしかしたら本当に――いや、その考えはあまりにも安易で現実味がないだろう。
* *
休憩時間以降はどうにも仕事に集中できず、気が付いたら定時の五時を回っていた。そこから二時間ほど残業をし、本日の業務を終えて俺は帰宅についた。
伊藤はデートとか言ってさっさと仕事を切り上げて帰った癖に、俺が家についた頃には相手に対する愚痴を永遠と電話でこぼしていた。本日もお目当ての男性ではなかったようだ。いったい何時になったら春が訪れるのか不安で仕方ない。
そんな伊藤からの電話から解放された俺は少し遅めの夕食をとり、一日の汗をシャワーで洗い流した。
全てを終えた頃には二十一時を過ぎ、寝不足のせいで俺は早々にベッドに潜り込んだ。こんな時間に寝るのは果たして何時ぶりだろうか? そんな事を思っている間に俺の意識は徐々に薄れ、いつしか眠りについた。
ただ一つ、本日こそは良い夢が見られる事を望んで、だ。
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