千紫寺家
杞龍家が住んでいる土地、遠市の隣町である八岐町の中心部の小高い丘には、一軒の大きな屋敷が聳え建っている。
屋敷の周囲は、コンクリートの分厚い壁で囲まれ、その上には電流の流れる有刺鉄線。敷地内には守衛、防犯カメラ、赤外線等が設置され、他者の侵入を一切許さない造りとなっている。
屋敷の主の名は、千紫寺道成。
千紫寺家は平安時代から続く旧家で、道成は四十五代目に当たる。
資産は食うに困らない程、十分にあったが、歴代の当主と同じように、道成も悠悠自適な生活を送る人間ではなかった。
先々代が興した千紫寺商事(株)を基盤に、エネルギー、建設、情報システム、環境、繊維、金融、航空宇宙等、あらゆる分野に手を出し、失敗と成功を繰り返しながら会社を発展させていった。
その一方で、自身が認めた中小企業には投資、援助を惜しみなく行っていき、気づけば千紫寺商事(株)は、世界でも十本の指に入る世界的大企業となっていた。
相反して、千紫寺道成自身の評価は決して良いものではなかった。
企業の代表である以上、会社と社員、そしてその家族を守る立場と責任があり、綺麗毎だけでは済まされない部分が生じてくる。
大勢の人間が「正」だと納得することが、一人の人間にとっては「悪」だと不満を洩してしまうことは、人が生きていく上で仕方のないことではあるし、道成自身、人から恨みを買う真似を幾度となく起こしている自覚はある。
だが、周囲の反応は気にも留めず、日々毅然とした態度で人に接し、人に弱みを見せず、努めて孤独と戦っている彼の心情は、誰にも分かるはずはない。
資産家である千紫寺家には当然のように約七十人の使用人がいる。
彼らは皆、千紫寺家敷地内にある別宅に住み職務を真っ当している。
使用人達が外出したい場合、外出許可書を提出、受理された後、裏門に設置してある顔及び指紋認証システムにて照合適合と認められた場合、裏門から出入りすることが可能である。
裏門には守衛が常時待機しており、今日も朝刊を読みながらお茶を啜っている――――と、屋敷に近づいてくる人影に気づき警戒を強めた。
スーツ姿の優男は守衛の前で立ち止まり笑顔で挨拶した。
「おはようございます。鳴﨑様に連絡を繋いで頂けますか?杞龍嗣が来ました、と」
守衛が本宅に連絡を入れると直ぐに確認が取れたので裏門を開門した。
嗣は一礼すると早々に千紫寺家の敷地内へと足を踏み入れた。
数分後。本宅に辿り着くと、嗣は玄関からは上がらず、裏の勝手口から本宅内へと入って行った。
使用人達が通る薄暗く長い廊下を足早に抜けると、二階へと続く階段へと足を進めた。
一歩違う通路に足を踏み入れれば、床一面シミのない赤い絨毯や、曇りのない窓ガラス。天井は豪華絢爛なシャンデリア。壁面には多数の著名な絵画や焼物等、建物内は別世界のように光り輝いていた。
階段を上り終わったところで、千紫寺家使用人達の長、鳴﨑文蔵に遭遇した。
守衛には鳴﨑に用があると言ったがそれは全くの嘘で、本当はこの屋敷の主、千紫寺道成に用があった。
なるべく自分と道成との関係を疑われないようにする為の嘘だ。
鳴﨑は燕尾服に身を包み眼鏡をかけ、顔や手には年相応の皺が刻まれているが、その両目には何事にも動じない強い意志を秘めている。
さすがはあの千紫寺道成に仕えるだけはあると、嗣は会う度に思っていた。
しかし、今はそんなことは全く感じさせない、柔和な眼差しを嗣に向けている。
「これは嗣様。おはようございます」
「おはようございます、鳴﨑さん。お久しぶりですね」
嗣が一礼しようとすると鳴﨑は制止した。
「嗣様、使用人である私にそのような真似はお止め下さい」
苦笑しながら嗣は顔を上げた。
「鳴﨑さん。私だってこの家の使用人みたいなものです。・・・・でも、他の方達よりは優遇して頂いていますが・・・」
自嘲気味に話す嗣に、きっぱりと反論する。
「それは千紫寺家と杞龍家の長きに渡る繋がりを考えれば当然のことでございます」
(杞龍家としては切ってくれた方がありがたいのですが・・・)
嗣の瞳の奥にある悲哀に漂う目を見て鳴﨑は話題を変えた。
「そう言えば先程守衛から連絡を頂いた時から気になっていたのですが、今日は何故こちらへ?」
「昨日我が主から言われたのです。明日は会社ではなく本宅へ来るようにと・・・」
杞龍家の人間が千紫寺家を訪問する場合、鳴﨑を通じて来訪するように、主たる道成から言われ、既に何度か本宅を訪れているのにも関わらず、鳴﨑は不思議そうに首を傾げていた。
「嗣様、道成様は昨日会社から戻られた後、直ぐに一週間のイギリス出張へと旅立たれ屋敷にはおりません。イギリス出張の件は、道成様が直接、嗣様にお話されると仰っておられましたが、お聞きになっておられませんか?」
(!!(怒))
「ええ、残念ながら聞いていませんね」
(あんのクソジジイ・・・。)
笑みを絶やさず答える嗣だったが、内心は怒り狂っていた。
彼を知る者が、彼の口からその言葉だけでも聞けば、「きっと気のせい」として現実逃避することだろう。
鳴﨑は主の代わりに深々と謝罪した。
「誠に申し訳ありません。私がお伝えすべきでした」
真摯に謝罪する態度に、嗣は偽の微笑ではなく真の微笑をした。
「頭を上げて下さい、鳴﨑さん。あなたのせいではないのですから。それに契約上、私は我が主の海外出張等には同行しないのですから私には告げなくていいと判断したのでしょう」
「しかし・・・!」
「それにこんなこと前にもありましたよね?五、六回・・・否、もっとあったかな?我らが主は私を困らせるのが趣味な御人ですから。きっと出張から帰って来たらそこにある防犯カメラに映っている私の表情を焼酎片手に嬉しそうに見るに決まっているんです」
天井に設置されている防犯カメラを指差しながら、満面の笑みで答える嗣に鳴﨑は思わず頬を緩ませた。
「・・・本来ならば道成様に仕える者として否定せねばならないのですが、事実なので何も言えません」
今の発言は新人の使用人が口にすれば、鳴﨑の鋭い眼光と道成への報告、解雇、そして地獄の人生が待っているが、道成と五十年以上かけて築いた信頼関係のある彼だからこそ、口に出せる言葉だった。
「そうですよ。では私はこれで失礼致します。我が主がいないとなれば私がここにいる必要はありませんから」
(最初はムカついたが、考えようによっては・・・(笑))
千紫寺家本宅に召集をかけたくせに本人がいないとは!戻って来たら(戻ってこなくて構わないが)嫌味と皮肉を満面の笑みでぶちまけてやる、とも思ったが、自分の仕事は我が主、千紫寺道成がいてこその仕事なので、『主の不在→仕事なし→お休み!』へと、彼の脳は瞬時に導き出し、すぐさま一週間の予定を練り始めた。
一.家のことが出来る(洗濯や掃除、修繕等)
一.日雇いバイトが出来る(本当はしてはいけませんが)
一.弟達の勉強を見ることが出来る
一.弟達と遊ぶ
一、思い切って弟達と日帰り旅行に行く
様々な予定を思案しながら来た道を機嫌良く戻ろうとすると鳴﨑に呼び止められた。
「嗣様。少々お待ち下さい」
「?」
鳴﨑は何かを思い出し足早に嗣の元を去った。
数分後、右手に白い封筒を持って再び現れると封筒を差し出した。
「何ですか?これは?」
「道成様から出立前にお預かりしていた物です。今度嗣様が本宅に来られたら渡すようにと」
「そうですか・・・では確かに」
「それと嗣様。これは私の願いでもありますが、時々は、仕事抜きでこちらへ遊びにいらして下さい。道成様もお喜びになられます」
「我が主が喜ぶわけがないと思いますが、ありがとうございます。でも、それは出来ません。あくまでも私もあなたと同じ立場なのですから・・・・・では、失礼致します」
(今度って・・・昨日の今日じゃねーか!あのクソジジイ!!)
本音は決して顔と口には出さず笑顔で封筒を受け取ると開封せず、嗣は千紫寺家を後にした。