第88話 ギャンブルスタートと寡黙なスラッガー
(足りねぇ…。)
目の前にいるバッターの目を見つつサインを確認し、ボールを投げ込む。
(まだまだ足りねぇな…。)
投げる瞬間に右手の甲を内側に向くようにしてボールに更なる威力を加えつつ、ミットに叩き込む。
「(もっと殺す気で向かってこいよッッ!!)オォラッッ!!!」
ボールを指やツメで小さなキズをつけるような勢いで強く弾き、リストで強烈なバックスピンをかける。
「ストライーク!バッターアウト!!」
「っしゃぁあ!!」
151km/hのストレートで見逃し三振を奪い、小さくガッツポーズを作って吼えながらベンチへ戻る。
試合は7回。
味方が必ず逆転してくれると信じ、オレは身体がバラバラになるくらい強い力で腕を振るい続ける。
沢木からはヒットや四球などでランナーこそ出してはいるが、併殺打などで悉く打ち取られて後続が続かない。
だが、幸いなのは一人最低でも5球は投げさせているので沢木のスタミナが尽きかけていることだ。
昨日と合わせて22イニングも投げて疲労に苛まれていないわけがなく、その証拠に精密機械のごとき制球力もバラつき始めてきている。
そして今しがたこの回先頭バッターである結城に四球を出した。
ここで攻め立てられなければ勝機が一気に薄くなる。
頼むぜみんな…!
Side H.Yuuki
「セーフ!」
1塁ベースに向かって頭から滑り込み、牽制を掻い潜る。
僕がフォアボールで出てから随分と牽制してくるね…。
秋山先生から盗塁許可のサインが出てはいるが、警戒度をかなり上げているのか2球に1球の割合で牽制がやってくるし、クイックも1.1秒とプロの平均的なピッチャーよりも速い。
それに加えてキャッチャーもセカンド送球到達時間も1.9秒と肩も強いし、スローイング技術もレベルが高い。
……参ったなぁ。コツがなさそうだ。
となると僕が今から盗塁を決めるのは1つしかない。
それは沢木くんが投球動作を始めるのと同時にスタートを切る……ギャンブルスタートにかけるしかなくなった。
盗塁を決めることができれば僕らに大きなチャンスを作られ、横浜総学館に大きなプレッシャーを与えることができる。
もちろん牽制球を投げられると一・二塁間に挟まれてしまうだけでなく、折角のチャンスを自らの手で潰してしまう。
まさに文字通りのハイリスク・ハイリターン。
……どうする?行くか?
「なーんて…、僕らしく無かったね。」
今さら迷う必要なんて無かった。
ようは善は急げ、だ。行くと決めたら行くしかないんだ。
沢木くんがセットポジションの体勢から動き始めた瞬間、僕は甲子園の土を蹴った。
Side out
Side D.Tohjoh
結城が完璧なスタートを切った盗塁を決めたことにより、空いた1塁を埋めるため武田は敬遠気味の四球でノーアウト1・2塁となって松宮に代わって3番に座る俺に打席が回ってきた。
昨日と今日で沢木からは1本もヒットを打っていないので、より確実にアウトカウントを稼ぐというのが横浜総学館バッテリーの考えなのだろう。
だが、ここで打てなければ清峰に勝ち目は無くなる。
自分の意思とは裏腹に手足がガクガクと震え始め、呼吸がだんだん浅くなっていく。
頼む、今だけは静まってくれ俺の心臓……!
バッターボックスでバットを天に翳すように立てて構え、沢木がそれを確認してからボールを投げ込むが、高速シュートに全くタイミングが取れず空振りした後思わずバランスを崩してしまった。
「タ……タイム!」
俺は慌ててタイムを要求し、バッターボックスから外れる。
(沢木は多種多様な球種を持っていてどれをとっても決め球になりうる一級品のボールばかり……。って、ごちゃごちゃ考えるのも面倒だな……とりあえず追い込まれるまではシンキングファストとシュートは捨てよう。)
スパイクについた土をバットで軽く叩いて落とし、狙い球を絞った上で再度バッターボックスに入ったところで息を吐きながら集中力を高めていく。
プレーが再開されてすぐ投げ込まれてきた2球目、リリースの瞬間に沢木の右手の甲が少し内側に向いているのが見えた。
インコースのボールゾーンからストライクに掠めていく高速シュートが決まり、追い込まれるがさっきまでとはうって変わって冷静だった。
(ストレートに高速シュートと来たからセオリー通りで行けば次はナックル。だけどタイミングがあっていない上にランナーは足の速い結城…。不規則な変化によるバッテリーエラーの危険性を孕むこのボールを要求するとは思えない。)
俺の予想が当たりナックルではなくシンキングファストでゴロを狙ったバッテリーだったが俺は見送り、次のボールもアウトコースのストレートが外れて2ー2となる。
そして勝負の5球目。
甘めのところからインコース低めに突き刺さるようにスライダーがやってきた。
身体を開かないようにバットを巻き付くようにスイングして、ボールを捉える。
打球はラインドライブを描き……ライト線の上に落ちた。
Side out
1塁の審判が東條の打球がフェアだという主張を身体全体使ってジャッジした瞬間、両校のアルプススタンドからは歓喜と絶望の悲鳴が聞こえてきた。
2塁ランナーの結城は打球の行方を確認してから快足を飛ばしてホームインし、走塁が上手い1塁ランナーの武田も3塁ベースを蹴った。
しかし武田が3塁ベースを蹴ったと同時に、ライトからカットに入ったセカンドへボールが返ってきていた。
「走れ!!!武田ぁぁあ!!!!」
俺はベンチから身を寄り出し、叫んだ。
ホームでクロスプレーとなり、ホームベース付近では砂塵が巻き上がっている。
判定は……どっちだ!?
「セーフ!セーーフ!!!!」
東條の同点に追い付く起死回生のタイムリーツーベース。
結城と武田は2人でハイタッチを交わし、タイムリーを打った東條は顔色一つ変えずこちらに向けて拳を突き出していた。
なにはともあれこれで同点………だッ!!!
「ハハッ…、信じらんねぇ」
試合中にも関わらず涙が込み上げてきて、誰にも悟られないように涙を指の腹で拭う。
この決勝戦再試合……しかもこちらのビハインドなのにギャンブルスタートでの盗塁を決めた結城も結城だけど、この場面でキッチリ結果を残す東條も東條だ。
やっぱりこいつらすげぇよ…。
そう思った瞬間ベンチの外からは痛烈な打球音が響き渡り、思わずそちらを振り向いた。
打った瞬間ホームランと確信したように打球の行方を確認しながらバットをゆっくりと放り投げ、1塁へ駆け出す石川の姿があった。
Side D.Amamiya
相手にとっては起死回生……僕たちにとっては痛恨の意味がある同点タイムリーを打たれたその後、沢木の感情がコントロール出来なくなった直後の初球を石川くんに仕留められてしまい、2点リードが一瞬にして2点ビハインドにされてしまった。
石川くん以降のバッターを何とか打ち取った沢木だったが、ベンチに戻ってくるなりイスに座り込んで頭を垂らした。
石川くんのツーランホームランが余程堪えているのか、なかなか頭が上がってくる様子は見られない。
「……沢木」
監督が名前を呼びながら沢木の元に近づいていく。
「どうするんだ?まだ投げるか?それとも味方の援護を信じて代わるか?」
ブルペンでは2番手の2年生ピッチャーを準備させていて、いつでもスイッチできるような態勢を取っている。
だが、沢木の首は横に動いてようやく頭が上がり前を向いた。
「……いいえ。行かせてください。相手のエースが手負いの状態で立っているのに俺だけ先にマウンドを降りたら横浜総学館のエースとしてのプライドが傷付きます」
「分かった。この試合のマウンドはお前に任せた」
それだけを言い残し、監督はバッターへの指示を送ることに専念するためにホームベースから最も近い場所へと戻っていった。
「……意外だな」
「何が意外なんだよ?」
「ん?続投を志願することをだよ」
沢木は多くの先発ピッチャーが拘りを持つであろう『出来るだけ長いイニングを投げる』ことをあまり拘っていない。
さっきのように監督が『次のイニングはどうすんだ?』と聞かれた時の多くは、『交代お願いします』『あとは後ろのピッチャーに任せます』と言う。
実際昨日の試合でようやく今夏初完投という記録したくらいだし。
「……さっきも言ったろ。あいつがマウンドに立っているのに俺だけ先に降りる訳にいかないって」
沢木の視線がマウンドに向いたので、僕も沢木と同じようにマウンドを見る。
そこには殺気すら感じるような気迫を撒き散らしながらえげつないボールを投じ続ける松宮の姿があった。
次のイニング…つまり9回はこの調子でいけば打順は1番から始まる。
27個目のアウトが取られる前にランナーが1人得点圏に行くか、9回ツーアウトで何らかの形でランナーが出れば僕に打順が回ってくる。
だが、そんな僅かな期待をも粉々に砕くように松宮は24個目のアウトを奪い気合いの雄叫びをあげた。




