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翌朝も天気が良かった。朝っぱらから太陽の日差しが容赦なく肌を刺し、駅から学校までのほんの10分の道のりだがすぐに汗ダラ。周囲を歩くご同輩も暑そうにダルそうにしている。
その中で知った顔を見つけて、忍び寄って背後からどついた。
「幹や~ん! はよっす!」
「~~~~っ! 嵐ぃー!! うりゃあっ」
どつかれて、つんのめったようだがすぐに立ち直って、オレの首を抱え込んで拳骨を食らわせてきた。陸上部で長年鍛えてきただけあって、細身だが筋肉はばっちりだ。もがいたが抜け出せない。
「ぎぶっギブ幹やん! 悪かった。ゆるせーっ」
「ふんっ」
特大拳骨一発追加で開放された。
マジで痛い。涙ちょちょぎれそう。自業自得っていっても、軽くどついただけぢゃん。おちゃめな親愛の情ってやつじゃん、幹やん冷てーとか言ってたら、さらに鞄が降ってきた。
「荷物もち決定」
「ひでぇっ!」
でも素直に荷物もち。一応相手は上級生だし。
現在三年の幹やんは中学時代の先輩である。当時はオレも陸上部。少数精鋭?で上下無く仲が良かった。んで、いろんないたずらをしたもんである。……オレ的には今とやってることは変わらんが。入学したとき、幹やんに陸上部に勧誘されたが、走るのに飽きたので入らなかった。平均より(逃げ足が(笑))速いとは思うが、インターハイ目指せるほど速くはないし、競技として面白いとは思わなかった。要するに合わなかったんだろう。
その点幹やんは陸上競技が好きだ。走るのは長・中・短どれもオッケーだし、それ以上に走り高跳びが好きらしい。そのためならどんなにキツイトレーニングもへっちゃら。洒落っ気よりも実用主義で髪はざばりと水を被れる短髪。登下校も本当はトレーニングウェアでのし歩きたいと言っていた。きっと絶対私服はソレしかないに違いないとか思ってたりする。
ま、そんなことはともかく。幹やんは三年だ。だから三年の国語を受け持つ周防先生がどんな人物なのか聞けるかと思ったのだ。
「周防先生なあ……」
「どんな? なんか生徒会長がにやにやしてたんだけどさ」
「生徒会長? なんだ知り合いか」
「いやちょっと、関り合いになっちって」
目を丸くする幹やんに、オレは苦笑いして頬を掻いた。
「どーせまた悪さして呼び出されたか。しょーがねえなあ、嵐は。この間もなんかやってただろ」
「違うって! いやその、叱られに呼ばれたわけじゃないし。でも幹やんはやんなかったのか、壁のぼり」
「あのな、大会があるってのにそんな危ないマネする馬鹿いるか。くだらんことで怪我したら取り返しがつかん」
「まーそーかー」
呆れた顔されてしまった。いやでもさ、やってれば新記録出そうだよな。鍛えられた筋肉!……はともかく周防せんせーのことは?
「うーん。授業は分かりやすいな。ちょっとおっかねえ感じっつーか、不機嫌そうっていうか。女子は怖がってんの多いんじゃねえか? 無精ひげぼさぼさ頭のワイルド系っつーのかね。いつも白衣を羽織ってるな」
「ワイルド系ねえ」
「確か担任は持ってないはずだ。あ、そういやあヲタクって噂あったな」
「は?」
「外見とすげーミスマッチで笑えたな」
ヲタク? なんだそれ。
「あのー、白衣の下に着ているのがアニメのTシャツだったとか、携帯チョーク入れの表に美少女絵があったとか、国語の教科書にアニメ美少女な本が混じってたとかそーいうオチ?」
「さあなあ。とにかくそんな噂は聞いた。だけどアニメTシャツは本当だったら笑うなあ」
今度教室のドアの上に水入りバケツでも載せて、古典的罠張ってみたらどーすか、などくだらないことを提案してみたり。
そんなこと言っている間に下駄箱到着で、幹やんとは分かれた。
しかし、そんなことで会長がにやにやするだろうか。アレのこと話しているのに。イマイチしっくりこない。
そんな感じで一日が始まった。
やつらの網のように、いつでもどこでも紙粘土を持ち歩くようになってしまった。今まではあくまでオレの気分だったが、穴からアレが出てきて校内を徘徊すると聞いては、とっとと塞ぎたくもなるだろ。あいつらはそれが日常茶飯事で普通で、それについては気にもならんらしいが、オレとしては気色悪いわっ。
ゆえに、今のように体育の時間であろうと短パンのポケットにまで少量であろうと突っ込んである。今日はプールはほかのクラスが使っているため、体育はグラウンドで暑い中やっている。改めて観察してみると、地面にも穴があったりするのだ。合間に紙粘土を押し込んだりするが、土に粘土埋め込むってのはなんだか変だ。
「よー、嵐山。お前のポケット何入れてんの?」
「紙粘土」
「……体育にいるっけか?」
ほっとけ! と言おうかと思ったが、ふと思いついて言ってみた。
「えへっ」
「……」
「……」
効かねえ!!
野郎と見つめ合い、痛い沈黙が流れた。なまじ志野田さんをイメージして言った分、微妙にかわゆらしくなってしまった。余計にばつが悪い。背筋に冷や汗を流すオレを、通りかかった片瀬が興味深そうに観察している。
くそっ、見てないで助けろ畜生! そう念を込めて片瀬を睨み付けたがそ知らぬ顔だ。そうさ、あいつはオレと同類だもんな!!(ヤケ)
「おまえ、なんか疲れてんのか? 今日は暑いからなあっ」
ぽんぽんと肩をたたかれ、同情されちまったじゃねえか!! 何も言いようがなく、口をパクパクしているオレを尻目に、片瀬は手をひらひら振って自分のグループの方に歩いていこうとする。この野郎!
オレは片瀬に向かってダッシュ。今朝の幹やんにするよりも勢いを思い切りつけて、背後から体当たり! 肩、肘入れたろかと思ったが、さすがにそれは止めといた。片瀬は大きく体勢を崩したが、なんとか踏みとどまって膝に手を置いた。
「あ~ら~しぃ~!」
「か~た~せ~!」
オドロオドロしくオレを振り返る片瀬だが、仁王立ちするオレも負けてないぜっ。
「えへが効かねーじゃねえか!」
と、詰め寄るオレ。片瀬はそれをかわしてオレの頭を捕らえてヘッドロックかましてきた。いかん、本日二度目だ。この身長差は不利だ。
「俺らだってレクチャー受けてやってるんだ! ド素人がいきなりやって暗示かけられるわけないだろう」
「えー、そんなの聞いてねえ」
「どっかでそんな話はしてたと思うぞ。それに嵐山にあの暗示が出来るかどうかわからん」
「なんでだ」
「ひょっとするとアレが見える奴にしか出来ないって可能性があるってことだ」
「不公平! 聞いてねえ!」
もがくオレ。固める片瀬。いつの間にか見物している野郎ども。はっと気づいたときには、けむけむの影が……。
「「げっ!」」
「お前ら仲がいいなあ。二人仲良く校庭十周行って来い!」
「はいーっ」
「トラックじゃなくて外側な」
「……はいー」
400mトラックではなく、グラウンドの外枠。一体一周何メートルあるのかねえぇぇ。
オレと片瀬はおとなしく走り出した。汗だくだなあ。
本日の授業がすべて終了し、オレは椅子に座ったまま大きく伸びをした。教室内は半数がダッシュで鞄抱えて外に出て行き、あとはのんびり組。だべってるのもいれば、片付けしているのもいる。オレものんびり組で、ぼきぼきと体をのばしていたら、志野田さんに腕をがっしと?つかまれた。
何事かと思って見ると、何故かオレを睨みすえている。
「オレは無実だ。」
思わず棒読みでつるっと口にだしてしまった。無実ってなんだ。
「やっぱり逃げようと思ってたんでしょ!? ちゃんと一緒に先生の所に行ってもらいますからね!」
鼻息荒いよ。いやしかし、やっぱりってなんだ。信用ねえなあオレ。志野田さんのオレに対する認識ってどうなってんの? ついにホールドされてる腕が案外痛いぞ。握力が女子離れしてんじゃねーの? 毎日虫取り網を振り回してんだから、握力も腕力もつくってもんだよな!
「オレは一言も行かないとか逃げるとか言ってマセン。腕、放しやがれ」
「え、違うの。てっきり」
だから、お前のオレに対する認識ってどうなっとんだー!! オレはばつの悪そうな顔した志野田さんの手を振り払った。
「昨日、会長とかが周防先生がどういう先生かって、にやにやして誤魔化してたから警戒したかなーと思って」
「それこそ昨日、会長だの部長だのに挨拶に行けって言われてんのに、行かないわけいかんだろっ」
そんな怖いこと出来るかっての! 逆に睨みつけると、可愛くてへっとごまかし笑いしやがった。くそっ。
「えへっは効かないからな」
我ながらはっきり負け惜しみな一言だったが、志野田さんはとたんにちえっという顔になった。か、可愛くねー態度! なんだけどなーっ。けど、二人でにらみ合いをしつつ思った。なんか、以前より打ち解けた感じがする。気のせいか?
「なにやってるんだ?」
片瀬が怪訝そうに教室に入ってきた。そうだ今日は三人で国語準備室にいくんだっけな。
「なんでもねぇよ。行くぞっ」
オレはとっとと教室を出て行った。
片瀬はすぐにオレの隣に並んで歩き出した。で、改めて片瀬に周防先生について聞いてみる。
「ヲタクという噂をきいたのだが、これ如何に」
「「ヲタッ!?」」
片瀬と志野田さんの驚きの声が重なった。ということは、あくまで噂止まりって事か。
「・・・・・・・・あー、あー」
片瀬が額に手を当てて唸っているが、志野田さんは今にも噴出しそうなオモシロオカシイ顔をしている。なんだ、この反応は。
「傍から見ればヲタに見えるかもしれない。が、間違ってもアニメとか美少女とかいうキーワードには引っかからない」
「でも先生のあれはヲタクかもしれないよ? 嫌いでやってるようには見えないし」
「かといって、特別好きでやってるようにも趣味にも見えないんだが」
なにやら二人で言っているが、よくわからん。
「だが、資料としては絵とかで十分なのにわざわざやってるんだから、やっぱり趣味か」
「うん、私はそう思うけど」
ちょっと沈黙。オレは口を挟みようがなくて沈黙だが、網男女には微妙な空気で沈黙が流れたが、片瀬が吹っ切ったようにオレに言う。
「ヲタのような気がするが、気にするほどの話じゃない。役に立つし(多分)、迷惑かけてるわけじゃなし(多分)。ま、ちょっとワイルド系チョイ悪親父系の先生だ」
……なんか回れ右したくなってきたが、もう目の前に国語準備室の扉がウェルカムしていた。残念。
「失礼します。周防先生いらっしゃいますか」
片瀬がまず入り、それにオレと志野田さんがつづいた。身構えていたが、別に普通にスチール机が所狭しといった感じで並び、壁面にスチール書棚が張り付いているといった具合。けっこう日が入って明るいが、この部屋には女の先生が一人いるだけで、肝心の周防先生らしき人物がいない。おんやー?
「先生ならそっちの個室にいるわよ」
仕事中な先生が部屋の奥を指差して言った。おや、奥に扉がある。
「ありがとうございます。お邪魔します」
片瀬の先導で、オレはそっちの扉に向かった。プレートには「物置」と。物置が個室? それは国語教師が一人になりたいときに使用する部屋なのか、周防先生が勝手に作った巣なのか、どっちだ? と思ったが、入りゃわかるわなと、片瀬が扉を開けるのを待った。
「うわあっ!?」
思わずオレは声を上げていた。
部屋いっぱいに広がる異空間にしばし言葉を失ってしまう。なんだこの威圧感、圧倒感、廃退感は。不気味という言葉が一番適当なのかもしれない。
オレの視界には薄暗い部屋の棚に、無数の異形の置物がひしめくように置かれているのが写る。大半は手のひらサイズの物だったが、大きいのも含まれてる。まともな形のものは一つとしてなさそうだ。すべてが怪物、魔物、化け物とよばれる様なものばかり。そんなものに囲まれて一人、デスクランプのみの薄暗い机に向かっている白衣の影。恐怖映画か!
「ふぃ、フィギュア? 化け専?」
ぼそりとオレが言うと、白衣の影が振り向いた。と、同時に部屋の照明がぱっとついて、不気味空気満載だったこの部屋が突如明るくなった。
「先生~、こんなところで電気つけないでいると良くないですよー。いつも皆から言われてるでしょー」
志野田さんが点けたらしい。わかってんならもっと早く点けてくれ! 心臓に悪いわっ。
明るくなったところで部屋を見ると、とにかく雑然としているといった印象で、あの気味の悪い異空間はなんだったんだとか思うが、変なフィギュアだらけであることに変わりはない。
「そいつが変り種の新人か」
周防先生は苦みばしったワイルド系で声なんかも低めのイイ声だ。確かに言われたとおりだ。だけど髪の毛は無造作にぼさっと、ヒゲはいつも綺麗に整えるけむけむと違って明らかに無精ひげ。服装もなあ。よれった白衣ひっかけてんだからなんとも。しかもこの部屋の様子じゃあなあ。小奇麗にしてりゃモテそうだが、この状態じゃあ逆に女子は怖がりそうだ。男でも引く。絶対引く。
そのわりに志野田さんは平気そうだ。なぜだ。慣れてるのか、慣れるほど来ているのか? まさか好みがコレとか言わんよなと、恐る恐る彼女を見下ろすと、つんつんオレのことつついてた。は。そうだ。挨拶してなかった。
「一年の嵐山です。アレが見えるわけじゃないんで、半入部っていうか、理事長預かりなんですけど」
「ああ、聞いてる。あいつも珍しがってたが、まあお前みたいな能力がある奴がまったくいないわけじゃない。ただこの学校の生徒では初めてだろうな」
淡々と椅子に背を預けながら話す先生の言葉に、片瀬が驚いたようすだ。
「こんな能力持ってるのが他にもいるんですか?」
「そりゃあそうだ。お前たちが捕獲してきた生き物をどーすると思ってんだ? まさか殺して焼却処分していたとは思ってないだろうな」
そういわれて片瀬はうっと口をつぐんだ。図星か。志野田さんのほうは首をかしげている。
「回収業者の人が引き取って、そのままお世話してるんじゃないんですか?」
彼女は片瀬よりは平和主義だったようだ。だが先生は首を振って否定した。
「あのな、さらに空間を管理する奴らがいて、本来あるべき世界に扉を開けて返還してんだよ。ってことはだ、空間と空間をつなげたり、閉じたり出来る能力があるってことだろう。それを考えればそこの嵐山のような能力だって別段不思議でもなんでもない」
へー、アレってちゃんと帰してやるんだ。でもさ。
「よくどこのダレってわかりますね」
と思わずいうと、先生はこっちを見てニヤリと笑った。微妙に変な表現だったが、言わんとした事は理解してくれたらしい。さすが国語教師(笑)
「アレが大昔から出没してたのは聞いてるな? 当然研究も記録もされている。同時に、異世界でも同様に研究がされている。で、空間を繋ぐ能力者が協力するようになって、さらに研究が進めば、どこの世界にどんな生物や文明が発達して、どんなものがあるのかもわかるわけだ。異世界同士で国連みたいな団体を作ってだな、異世界に迷子になるものをもとの世界に戻そうって活動をしているわけだ。この学校の研究会もその末端なんだよ」
片瀬も志野田さんも目が点だ。初耳だったらしい。
「まあ微妙に逸れたが、ようするにどんな特徴のものが、どこの世界に所属するかってのは、きちんと百科事典みたいなもんに書いてあるわけだ。それにしたがって帰している」
そういって先生は書棚から幾冊かある分厚い本の一冊をオレに差し出した。重い。本気で百科事典みたいだ。
中を開いて見ると、カラーで動植物らしき絵や物の絵、それに特徴を書いてあった。名前がついているものもあるし、ないのもあるようだ。
「その本にあるもの全てがこの世界に出てくるわけじゃない。ほんの一握りだ。だけどいちいち本を広げて調べるのも面倒だろう。だから片っ端から作ってるんだ。すごいだろう」
え。まさか、この部屋にあるフィギュアって。本をめくる手を止めて、ぐるりと部屋を見渡した。そんなオレに片瀬が言った。
「全部異世界の生物。先生の力作。しかも日々増えている」
「オールカラーでお得よねー」
褒めてんのかいないのか、よくわからん志野田さんのコメントつき。
「お前たちも3Dの見本があればイメージしやすくていいだろう。いいか、新種をみたらちゃんとスケッチするなり、特徴をメモするなりしとけよ。それから嵐山。お前はアレが見えないんだから、このフィギュアを良く見て覚えておけ」
なぜっ! 見えないんだから覚える必要ねーじゃん!
「アレを捕獲しているのに出くわしたときに、イメージできると出来ないじゃあ対処の仕方が違うだろう」
……言われてみればそうかもなー。
でもどう見ても、趣味だよなあ。微妙にうれしそうだしさー。会長がにやにやしていた理由がわかったよ。しかもこの本来物置部屋が、完全に周防先生の「個室」だってこともな。
「まだ準備室の先生の机周りにびっしりあるよりマシ」
片瀬がこっそりオレにつぶやいた。
オレは棚にびっちりと並ぶ異形のフィギュアを一つ一つ確認するように見ている。
「お前は見えないんだから、じっくり見ていけ。何かあった時に役に立つし、会議に参加するにしても知っているのと知らないのとでは雲泥の差だからな」
そう周防先生に言われたからだ。ついでに宿題も頂戴する羽目になった。先ほど渡された百科事典状態の異空間生物事典その一を読み込めとのお達し。二週間後にテストするってさ。正部員でも無いのに、そんな馬鹿な! と思ったが。
「俺は教師、お前は生徒。俺は顧問でお前は平の準部員。俺の判断に逆らう気か、あー?」
と、凄まれた。怖いんすけど。
そんなわけで、事典を広げながらフィギュアと照らし合わせて見ている。先生の言うとおり、3Dと2Dと比べれば確かに立体であったほうが覚えやすいわな。こうなったらここにいる間に頭に叩き込める分は叩き込んでしまおうと、オレは真剣に辞典とフィギュアと格闘した。
そんな様子に先生はまたフィギュア作りに戻り、片瀬と志野田さんはオレと同じようにフィギュアを見ている。そうだ、片瀬と志野田さんにまで付き合ってもらう必要はないよなと、部活に戻ってもらうように言おうかと顔をあげたら、志野田さんと目が合った。
志野田さんはにこりと笑い、オレはちょっとどぎまぎする。
「ほら、この間のにょろ○ょろみたいな奴はこれだよ~」
彼女の手のひらの上には、可愛いうれしそうな笑顔とは裏はらの、赤黒くてろりと光る一つ目のグロテスクなフィギュア。いくら部屋が明るくなったとはいえ、異形のひしめくこの空間でソレはひくぞ!
「アレはまた大きかったよね。こうやって見ると、やっぱりミミズっぽいねー」
やめんかぁーっ!!
幼いころから変なもん見慣れてると、こんな感性になるんだろうか。普通は特に女子はミミズなんてもんは気色悪く感じるもんじゃないのか!? わからんっ。
内心首を振っていると、先生がふと頭を上げて時計を見た。
「お前たちそろそろ部会じゃないのか。今日は金曜日だろう。さっさと行け」
「あれ、今日だっけ。そうだった忘れてた。行かなくちゃ」
「俺も忘れてた」
志野田さんと片瀬はそういうと鞄を持ち直してから、はたとオレを見た。迷いが見えるような。ん? 二人の仕草に反応したのはむしろ先生だった。先生はオレのほうを顎でしゃくって言う。
「こいつはまだ今日はいいだろう。二人で行け。今日はここで勉強だって部長に言っとけ」
「わかりました。ほかに伝言はありますか」
片瀬が肯いて聞くと、先生は無いとそっけなく答えてまた机に向かった。
なるほど。そういえば昨日部長たちは顧問に挨拶に行けとは言ったが、部会のことは言ってなかったな。そんで片瀬たちは誘うべきなのか迷ったってわけだ。多分部長たちも忘れてたんだと思うね。
片瀬はじゃあなと言って先に出て、そのあとを志野田さんがにこっと笑って「また来週ね!」と言ってふんわり甘い香りさせて去っていった。
それから急に静かになった部屋でオレはまた辞典とフィギュアの憶え込みに没頭した。
どのくらいそうしていただろう。首が痛くなって顔を上げると、ちょうど先生も一息ついて伸びをしているところだった。
「おう、そろそろ帰っていいぞ。いい加減疲れただろう」
時計を見るとあれから一時間経っていた。長いような、短いような微妙なところだ。首を動かしてボキボキ鳴らしていると、先生が言った。
「お前今まで自分の能力知らなかったんだってな。びっくりしただろう」
振り返ると先生が椅子をくるりと回してオレを観察するように見ていた。
「いやまあ、驚いたことは確かですけどねー」
オレは頬をぽりぽりと掻いた。だがそのおかげで虫取り網の連中の目的がわかったわけで、入学からこっち、疑問に思っていたことには答えが出たわけで。また志野田さんとの間にあった見えない壁(くそ忌々しいえへっとかな!)が取り払われたともいえる。メリットは大きい、と、思う。
先生は上体を起こして膝の上で手を組んでじっとオレの様子を見ていたが、そのうち肩の力を抜いて椅子の背にもたれてニヤリと笑った。
「知恵熱出さない程度に頑張れよ。お前の能力は本当に俺達にとっては貴重だからな。明日、明後日はゆっくり休め。おまえ自身が思っているより相当疲れている筈だ。帰っていいぞ」
オレはこれ幸いと頭を下げて鞄片手に出て行った。重い辞典つきで。
しかしいうに事欠いて知恵熱ってなんだ! と思ったのだが、情けないことにある意味そのとおりになった。土曜日は本当に熱を出して寝込んだ。先生の言うとおり、確かに疲れていたのだろう。主に精神的に。
改めて考えてみると、この一週間はオレにとっては価値観や常識がひっくり返ったに等しいといえた。だってさ、異空間とつながるだの、そっちの世界の生き物が入り込んでくるなんざ、フィクションの世界だろう。普通だったら鼻先で哂う。ましてやオレにはそんなものは見えないんだから。
だけどオレはそんなことがあると、感覚としてあっさり認めてしまった。理性といった点ではにょろにょろもどきを網越し、チョークの粉越しで見た程度だ。なのにオレはその存在を、研究会の連中の言うままに信じた。
そして穴。オレにしか見えない穴。それこそ今まで意識などしたことも無く、まさか異空間とつながっていたなぞ思いもよらなかったが、それも指摘されたらすんなりと胸に落ちた。それもまた感覚としてどこかで知っていたのだろうと思う。無知だっただけで。
アレに関することはまったく科学的ではない。能力のないものには見えないのだ。認識できないのだ。だけどオレは科学万能主義者ではない。科学で証明できるものなど、この世の中ではほんのわずかだ。人はどこから来たのか証明できない。意識(魂)とDNAは。卵が先か鶏が先か。宇宙は、ありとあらゆる物質はどこから発生したのか。科学は証明できない。
自分たちのことすらわからないのに、異空間のことまで科学でわかるはずもない。目の前に積み重ねられる事実、事象。それらによって科学の証明を超えたところでオレは判断する。
オレは研究会の連中の言うことを事実と認める。だけどそれでも。感覚として受け入れていはいても、完全に受け入れるにはやはり精神的に負担はかかったのだろう。
結果として数年ぶりに熱を出して親を驚かせた。
……知恵熱か、やっぱ。かっこ悪。