第九話
……随分と、長い話だった。
否、話の内容だけが長かった訳ではない。
話の途中で菜々が嗚咽を漏らし始め、一旦会話が中断される、という事が、多々あったのだ。
最初の時のように、意味も無く口籠る事は少なかったので、苛立ちまではしなかったが、基本的には気の長い啓輔でさえも、実を言うと、少し苦痛に感じる時があったほどだ。
勿論、そんなものは表情にはおくびにも出さなかったのだが。
啓輔は、事務所の壁にかけてある時計を見やる。
現時刻は、午後七時半――彼女が来てから既に数時間経過していた。
窓を見やると、いつの間にか、外は真っ暗だ。
ただでさえ暗くなるのが早い冬。女子高生が一人で帰るには、少し危険な時間帯だ。
啓輔は、腰かけていた長椅子から立ち上がり、玄関近くのフックに掛けているコートを手に取った。
「――送りましょう。家は、どの辺ですか?」
「あ、いえ、大丈夫です! どうか、お気になさらずに」
突如、菜々は慌てふためく。
彼女は、話を聞いていて感じた、気の弱い少女、という印象通りのようだった。
啓輔は、いつも以上に真剣な瞳を菜々へ向ける。
「速水さん。貴女、ご自分の立場、分かっていらっしゃいますか? 幸いにもまだ、体に影響は無いですが、いつそのストーカー犯に何をされるか、分かりません。只でさえ変質者も多いのですから。……大丈夫です。何も、取って食いやしませんよ」
「でも、私、本当に――」
「……分かりました。ではせめて、タクシーに送らせましょう。少し高くつきますが、ストーカー犯や、変質者に追われるよりはマシでしょう?」
「は、はい。そうします」
タクシー、という手段で、ようやく菜々は納得したようだ。
ぺこりと頭を下げ、事務所の出入り口の扉を開ける。
せめて近場の大通りまでは送って行こう――と、啓輔もその後に続いていった。
啓輔が事務所に戻ると、長椅子に腰かけ、不機嫌そうに頬を膨らます少女が目に映った。
優だ。会話が長く退屈だったのと、無断で外出された事に対して、腹を立てているようだった。
……後者はともかく、前者の場合は、彼女にも責任があるような気はするが。
優は、表情に合った不機嫌そうな声を出す。
「随分遅かったね。菜々さんの話が長かったのは知ってるけど、まさか最後に口説きにかかるとは思わなかったよ」
「……は?」
「だって、いい年したおじさんが、か弱い女子高生を二人きりで車に誘った上、“何も、取って食いやしませんよ”なんて気持ち悪い台詞言うなんて、明らかにナンパ――った! い、痛い! 止めて!」
「どこをどう捉えたらそういう解釈になるんだ! この馬鹿!」
啓輔は、両手で拳骨を作り、優のこめかみにぐりぐりと押し当てる。
俗に言う梅干という奴だ。かなり痛いらしく、優の瞳には薄らと涙が滲んでいる。
啓輔はしばらくそれを続けていたが、優の口から“ごめんなさい”という言葉が出てくると、ようやくその手を止めた。
優は小さく頭をさすりながら、きっ、と啓輔を睨みつける。
「……パパ、ちょっとは加減してよね。これ児童虐待だよ? 訴えられちゃうよ?」
「この程度で訴えられるなら、全国の親達は今頃全員刑務所だろ」
啓輔は呆れた顔で娘を窘める。
優は未だ膨れていたが、ふと思いなおしたように、啓輔に問いかける。
「で、パパ。明日からどうするの? 大方、犯人の目星は付いてるんでしょ?」
「お前……さては、聞いてたな。まあ、大体はな」
その言葉に、優はすっと目を細める。彼女曰く、思考が推理モードに切り替わった、という事らしい。
尤も、どうせ何か言う時は、ワトソン博士もびっくりの迷推理なので、啓輔が真面目に聞いた試しは無いのだが。
「で、これからどうするの? まさか、今から高校まで直行……なんて、言いださないよね?」
「今何時だと思ってるんだ。これから急いで行ったとしても、着くのは八時半頃――とっくに皆、帰ってるだろ」
菜々曰く、陸上部の活動が終わるのは、いつも大体六時頃だそうだ。
事務所から彼女達の通う学校までは、多く見積もって約一時間。
とすると、帰りは大体七時半過ぎ……関係者からの話が長引いたり、渋滞などがあったら、もっと遅くなるだろう。
啓輔は、帰りが適度に遅くなる時間の場合は、夕飯や防犯などの関係上、出来るだけ優を同行させる事に決めていた。
まあ、ただ単においてけぼりにされて拗ねる娘をあやすのが面倒――という理由もあるのだが。
「優。明日は、帰るの少し遅くなりそうなんだけど――」
「勿論一緒に行くよ!」
「……俺、まだ全部言い終わってないんだけど」
「助手兼次期沢内探偵なんだから、事件に同行する権利くらいあるでしょ?」
「次期沢内探偵、ねぇ」
偉そうに腰に手を当てる少女は、とても探偵には見えない。
優も、あと数十年もすれば、立派な探偵になっているのか――と、啓輔は思い耽るが、すぐに首を振る。
「無理だ。俺には想像できない」
「パパ、今何かすごく失礼な事考えてなかった?」
「……さて、夕飯の支度でもするか」
「あ、ちょっと! 話を変えないでよ!」
啓輔はさっと目を逸らし、座っていた応接用のソファーから腰を上げた。
冷たい優の視線を受けながし、啓輔は、キッチンのある奥の部屋へと向かって行く。
――さて、今日のメニューは何にしようか。
こうして、夜は更けていく――。