最終話
翌日。琴音と菜々が図書室に着くと、そこには既に先客がいた。
――秀樹だ。陸上部に所属する彼は、遅れてくる事は多くても、一番乗りなのは、中々珍しい。
彼は何か考え事をしているのか、少し遠くを見つめる様な瞳をしていたが、二人を視界に入れると、軽く手を上げる。
口元には笑みを貼り付けていたが、その姿はどこか物憂げだ。
菜々の事を考えていたのだ――と、琴音は察す。
「おはよ、松浦君。早いね?」
「……はよ。今日はオフでさ。いつも遅刻してばっかだから、偶には早く来なくちゃな――って思って」
「そっか。良い心がけだね! 白川君ももうすぐ来るだろうから、そしたら作業始めよう?」
「――ああ、そうだな」
“白川君”という単語を菜々の口から聞くと、秀樹の表情が明らかに淡泊な物へと変わる。
その雰囲気を感じ取ったのか、菜々ははっと顔を強張らせ、慌てて付け足す。
「あ、あと松浦君。今日の作業、ちょっと手伝って貰いたい部分があるんだけど、良いかな?」
「別に良いけど。俺なんかで良いの? いつもみたく、白川に手伝って貰えば?」
秀樹の棘を含んだ者言いに、菜々は困ったように視線を反らす。その頬は何故か赤い。
しばしの沈黙の後、菜々は小さく呟いた。
「松浦君が、良いの。最近あんまりお喋りできなくて、……その、寂しかったから」
「――っ」
その瞬間、秀樹の頬がサッと朱に染まる。
……そりゃあ、真っ赤な頬に少しうるんだ瞳で上目遣いに見つめられたら、恥ずかしがらない男はいないだろう。相手が好きな女の子なら尚更だ。
「ご、ゴメン。……この前、大きな大会も終わったし、出来るだけこっちに参加出来ると思うから。その――これからも、宜しく」
「よ、宜しく」
微笑ましい二人の邪魔をするのも悪いので、琴音は静かに教室を出て行った――。
その後第一図書室では、まるで付き合いたての初々(ういうい)しいカップルのように仲の良い二人と、それを見つめる寂しげな視線が二つ見られるようになる――。
二人が付き合い始めたのは、それから約二ヶ月後――無事文化祭が終わり、二週間程経過した、ある日の事だった。
「それで、仲の良い二人を見たくなくて、脅迫状やら何やらを送りつけた――と、そういう解釈で宜しいでしょうか?」
「――今は、後悔しています。あの時、何で菜々に本当の気持ちが言えなかったのかな、って。そしたら、もしかしたら結果は違っていたかも知れないのに……」
そう言うと琴音は、小さく俯く。かけがえのない友人に酷い事をした――という実感はあるようだ。
カサッ――その時、近くの茂みが揺れる。
啓輔が困ったように眉根を寄せると同時に、茂みから一人の少女が現れた。
少女は琴音の前に立ちはだかり、物凄い剣幕でまくし立てる。
「……ふざけないで! 何よあんた。自分が協力するとか言っておきながら、結局嫉妬して二人を破局させようとしたわけ? そんなの、あんたの自分勝手じゃない!」
言いたい事を言い終えると、少女――菱本舞花は、思い切り琴音の頬をひっぱたいた。
頭を押さえながら軽くうめいていた啓輔は、慌てて舞花を止めにかかる。
「お、落ち着いて下さい。菱本さん!」
「これが落ち着いていられますか! 人様に迷惑かけておいて、謝罪の一つもなし。行動は矛盾してるし、加害者のくせに被害者面して――」
「止めろ、舞花!」
その時、ガサッ――という音と共に茂みから少年――秀樹が飛び出してくる。
彼の剣幕に驚いた舞花は、ようやく押し黙る。
それを確認すると、彼は悲しげに琴音を見やった。
「――犯人、塚本だったんだ。……信じてたのに」
そう言うと彼は、静かに琴音の前に佇む。
心から蔑むような想い人の視線は、ある意味舞花の平手打ちより、よっぽど痛そうだった。
「……成程。そういう事、だったの」
呆然としていた琴音は、ふっと微笑みながら、忌々(いまいま)しげにそう呟く。
琴音が来る前、予めベンチ近くの茂みには、秀樹達が待機していたのだった。
勿論、琴音の話は全て耳に入っていただろう。
「――菜々は? いるんでしょ、探偵さん?」
琴音が自嘲染みた笑みを浮かべると、茂みの奥からおずおずと菜々が顔を出す。
ばつの悪そうな顔をしているのは、決して空気が重たいからだけでは無いのだろう。
彼女は視線を落とし、開口一番頭を下げる。
「……ゴメン。私がもっと配慮してれば、こんな事、起こらないで済んだのに……」
「……謝らないで。悪いのは、全部私なんだから。……ごめんなさい。私の勝手なエゴのせいで、皆に迷惑をかけちゃって……」
琴音の謝罪に、辺りはシン――と水を打ったように静まり返る。
舞花は何か言いたげに琴音を見つめていたが、空気を読んだのか、やがてそっと瞳を伏せる。
そんな中、菜々が口を開く。
その言葉は、辺りに漂う重たい空気とはそぐわない、明るい物だった。
「――ことちゃん。私、知ってたよ?」
「え?」
「あの日。初めてことちゃんが秀樹君を見た日から、ことちゃんが一目惚れしてた――って。ずっと気付いてたけど、黙ってた。……どうしてだと思う?」
菜々の問いに、琴音ははっと顔を強張らせる。
どうやら、彼女の言わんとしている事が分かったらしい。
彼女もそれを察したらしく、苦笑を滲ませながら、説明を始める。
「――私、待ってたの。ことちゃんが、正直に自分の気持ちを話してくれるのを。ことちゃんは、自分も秀樹君が好きだ――なんて言ったら、私とぎすぎすした関係になっちゃうのが、嫌だったんだよね?」
「――」
琴音の沈黙を是と受け取ったらしい。菜々は少し寂しげに微笑みながら、言葉を続けた。
「――私、そんな事でことちゃんを嫌いになんてならない。確かに、もし二人が付き合う事になったら、ショックだけど――きちんと受け入れて、祝福すると思う」
そこで菜々は一旦言葉を切り、唇を噛みながら下を向く。
ゆっくりと顔を上げた菜々の表情は、驚くほど無機質で、冷たい物だった。
「だから――ことちゃんが犯人だって分かった時は、ショックだった。ことちゃんの私に対する思いなんて、その程度の物だったんだ――って、悲しかった」
その言葉は、遠まわしではあるものの、確実に琴音を責める物だった。
「……菜々、私――」
「だから、もう一度やり直そう? 私、こんな事で大切な親友を失いたくない」
慌てて言い繕おうとする琴音の言葉を、菜々は遮る。
その顔には、先程と同じ人間とは思えない程、明るい笑みが浮かんでいた。
「もう二度とことちゃんがこんな真似をしないと誓うのなら、私は今回の件を全て水に流す。もう二度と誰にも話さないし、話題にしない。……これで、どうかな?」
「嘘! だって私、菜々の事いっぱい傷つけたよ!? 探偵さんに相談するくらい悩ませたのに、そんなあっさり――」
「勿論、気にしていないといえば嘘になる。探偵さんには感謝してるし、脅迫状を貰った時の恐怖は、まだ忘れてない。……それでも私は、あなたを許す」
だって――貴女は、私の最高の親友だから――。
菜々がそう言い終えた瞬間、琴音の頬には一筋の雫が伝った。
“ごめんなさい”と、許しを請いながら泣きじゃくる親友を抱きしめ、菜々はそっと頭を撫でた――。