第十六話
一年前、春。
“ねえ、知ってる? 三組の松浦秀樹君”
“知ってる知ってる~! まだ入ったばかりなのに、もうレギュラー入りしたんでしょ?”
“イケメンで運動神経抜群。おまけに頭も性格もいいなんて、まるで王子様だよね~”
琴音が、彼“松浦秀樹”の噂を聞いたのは、入学してすぐの休み時間。
大して仲良くもない女子グループの女子達の話だったので、詳しくは覚えていないが、一目見てみたいな――なんて野次馬根性を持ったのはよく覚えている。
その日の昼休み。琴音は一年三組を訪れた。
別段、噂の彼を見に行ったわけではない。
ただ単に、親友をお弁当に誘いにいっただけだ。
彼女――速水菜々もまた、一年三組に所属する者の一人なのだ。
琴音は周りを見回し、親友の姿を探す。
菜々は――いた。隣の席に座る少年と、楽しげに談笑している。
少年の姿は、窓から差し込む光の関係で、シルエットしか見えない。
果たして声を掛けていいものなのか――と軽く悩むが、彼女が声を掛ける前に、菜々が琴音に気が付いた。
「あ、ことちゃん! 迎えに来てくれたの?」
「まあね。お昼行こ?」
「うん、ちょっと待ってて。……ゴメンね、松浦君。この話の続きは、また後で」
「ああ。後でな」
“松浦君”と呼ばれた少年は、小さく手を上げ、菜々の言葉に応える。
その時ふと、先程の少女達の会話が頭を過った。
“ねえ、知ってる? 三組の松浦秀樹君”
ちょっとした好奇心で、琴音は問いかけてみる。
「ねえ菜々。もしかして彼って……松浦、秀樹君?」
「……君、何で俺の名前知ってんの?」
琴音の言葉に、“松浦君”は瞬時に反応する。どうやら、当たりのようだ。
菜々も、不思議そうな顔で琴音を見つめていた。
「さっき、うちのクラスで話題になってたの。イケメンで運動神経抜群。おまけに頭も性格もいいなんて、まるで王子様みたいだって」
「王子様なんて……そんな、大層なもんじゃないよ」
少年は困ったように小首を傾げる。
その時、カーテンが閉じられ――彼の顔が、見えた。
苦笑を浮かべる彼の顔立ちはかなり整っている。
琴音はあまりジャニーズなどには詳しくないのだが、そういったグループの一人だと紹介を受けても、全く驚かない。
体つきは華奢だが、決してガリガリという訳ではない。
必要最低限の筋肉が程良くつき、健康的なスポーツマン、という感じだ。
これで本当に頭も性格も良いというのなら、確かに、まるで何処かの国の王子様のようだ。
爽やかな笑みを浮かべる彼に、いつしか彼女の目は釘付けになっており……動悸が高まるのを感じる。
ああ……これが、一目惚れなんだ――と、琴音は思った。
その時、彼女は気付かなかった。
彼が自分ではなく、親友に熱い視線を注いでいた事に。
この日をキッカケに、全ての歯車は、少しずつ狂いだしていく――。
「ことちゃん。私、松浦君の事……好きかもしれない」
頬を赤く染めた彼女からそう告げられたのは、それから約一カ月ほど経った後の昼休みの事だった。
「――そう、なんだ」
しばしの沈黙の後、琴音が口にしたのは、酷く乾いた言葉だった。
口角を上げるのが辛い。
幸いな事に、困ったような愛想笑いの意味は菜々に気付かれていないようだった。
不自然な親友の態度に気付かないまま、菜々は話を続けていく。
「最初の頃は、ただ格好良いだけで、付き合いにくい人なのかな~……なんて思ってたんだけどね、お話ししていくうちに、本当は良い人なんだ、って気付いていって……」
そこまで話終えると、菜々は照れたように瞳を伏せる。
菜々の事は中学の頃から知っているが、彼女のこんな微笑みをみたのは初めてだった。
……応援しよう。
琴音はそう心に決めた。
どうせ叶いもしない自分の恋慕の情で大切な親友を失うより、自分の恋心を押し殺して、友情を守り抜いた方が良いに決まっている。
そう思った琴音は、必死に口角を上げ、菜々に微笑みかけた。
「……菜々、私応援するから。頑張ってね」
「ありがと。ことちゃんなら、そう言ってくれるって信じてた」
無邪気な笑顔を浮かべる彼女を見るのが、辛かった。
しかしその決意は、彼女が思う以上に、あまりにも厳しいものだった。
昼休み。琴音が菜々を迎えに行くたびに見せつけられる、仲睦まじい親友と想い人の姿。
毎日のように聞かされる、想い人との惚気話……。
駄目。応援するって決めたのは、私じゃない――そう思いながら菜々に接し続けるのは、酷く精神的苦痛を伴った。
そんな日々を繰り返していく内に……いつしか琴音の心に黒い感情が芽生えていったのは、当然の事なのかもしれない――。