銀の月、決心する
「よっと」
真紅の執事の一言と共に、するりとロープが地面に落ちる。
大量の本が並んだ地下の図書館の中心に立つ彼の体には、ロープできつく縛られた跡が。
彼は今、全身を縛りあげられた状態から見事に脱出して見せたのだ。
それを見て、その館の主人たる吸血鬼の少女は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「ふん……本当に見事な縄抜けね。今回に関しては憎たらしいくらいに」
「必死で特訓しましたから」
レミリアの一言に、銀月は涼しげな表情と涼やかな声でそう口にする。
その口調には優越感が多分に含まれており、縛り上げた当人であるレミリアの神経を逆なでする。
その横で、薄紫色の魔女が困ったように溜息をついた。
「それにしても、意外と考え付かないものね。銀月を誰でも拘束しておける方法は」
「縄抜けと錠外しが厄介すぎますね。おまけにネットで包んだところで破って出てくるし、能力のせいで鎖まで千切られる始末です」
「魔法での拘束も鎖で縛るのと変わらないし、蔦で拘束しても送還魔法で返されてしまう。想定していたよりも、ずっと難解な問題ね」
本を読んでいるパチュリーと紅茶の準備をしている咲夜はそう言いあうと揃って考え込む。
事実、銀月はこれまでレミリア達が思いつく限りの拘束方法をことごとく破っていた。
手錠を掛ければ軽く外され、鎖で縛れば『限界を超える程度の能力』で耐久力の限界を超える力で破壊され、縄も結び方をいくら変えても容易に抜けられてしまう。
彼を捕まえておく方法は、想像をはるかに超えた難易度であった。
「ええーい! 無駄に多芸になりおってからに!」
「ちょっ、蹴らないでください、レミリア様!」
なかなか思い通りにならない試行錯誤に、レミリアは八つ当たり気味に銀月のすねを蹴る。
その横で、パチュリーは小さくため息をついて読んでいた本を閉じる。
「でも、だからと言ってそう簡単に諦める訳には行かないのも事実。銀月のリスクを考えれば、暴走した銀月は抑えておく手段が絶対に必要になるはずよ。さもなければ、暴走したら即最終手段なんてことになりかねないものね」
「そんなこと言って、本当は銀月をどうするつもりよ?」
パチュリーが次の本を手に取ろうとした瞬間、入口から本来ここに居るはずのない少女の声が聞こえてくる。
一行がその方へと目を向けると、そこには紅白の巫女が立っていた。
「あれ? 何で霊夢がここに居るのさ?」
「ここのメイド妖精から通報があったのよ。銀月が酷い目に遭わされてるって」
霊夢はそう言いながらまっすぐ銀月のところへと歩いて行く。
その一方で、レミリアはパチュリーに話しかけていた。
「……パチェ、これってメイドたちにどう見えるかしら?」
「レミィが銀月を吊るし上げようとしている風に見えるわね」
銀月の周りには手錠や縄、鎖に網など、彼を縛りあげるための道具が大量に転がっている。
何も知らないものが見れば、彼を取り囲んで甚振ろうとしているようにも見えた。
パチュリーの言葉に、レミリアは目頭を押さえて俯いた。
「で、何でそれが巫女のところに通報されるのよ?」
「レミィは銀月を甘く見すぎよ。銀月はありとあらゆる手段を使ってメイド妖精を懐柔しているのだから。一度主人が誰であるのか思い出させたほうがいいんじゃないかしら?」
パチュリーはそう言って大きなため息をついた。
メイド妖精たちにとって、銀月は優しく接してくれてお菓子をくれる気のいい上司なのだ。
その様子は、作業員が社長よりも直属の上司に懐くのと同じようなものである。
ただ一つの違いは、その社長を一従業員があっさり通報してしまうところなのだが。
「……ねえ、私って、そんなに威厳が無いのかしら?」
「もうほとんど残ってないんじゃない? レミィは普段咲夜や銀月の前にしか顔を出さないし、たまに顔を出したかと思えば金平糖だのゼリーだのにまみれてるし」
「あれは私のせいじゃないわよ! あんの悪戯ピエロが面白がって私の部屋をお菓子まみれにしてるんだからしょうがないじゃない! この前だって、あいつのせいで私の飲み物が全部プリンに変わってたのよ!?」
「あれは本当にびっくりでしたね。水差しの水をグラスに注いだら、いきなりプリンに化けたんですもの」
パチュリーの言葉に、レミリアは憤慨した様子で実態を口にし、咲夜がそれに同意する。
どうやら、レミリアは普段より愛梨の悪戯に悩まされているようであり、しかも相手の力が強いためにどうする事も出来ない状態なのであった。
それを聞いて、銀月はがくりと肩を落とした。
「……何やってんのさ、愛梨姉さん……」
「何やってんのさ、じゃないわよ! あんたの身内でしょう、あんたが何とかしなさいよ!」
「愛梨姉さんは私では止められません。何しろ神出鬼没で、父くらいしかその出現場所を特定できないのですから」
レミリアの主張に、銀月はそう言って首を横に振る。
基本的に愛梨は仕事の時以外は人影があれば気分次第でどこにでも行くため、いつどこで何をするのかを特定することは困難を極める。
ただ例外的に、将志には行き先を伝えてから外に出るので、彼だけはどこに居るのか分かるのであった。
……実は愛梨はこの時に将志に一緒に来てほしいなどと考えているのだが、恥ずかしがってそれを見せないためにその願いが叶ったことが無いのは余談である。
「いいじゃない、レミィ。おやつに困らないのだから。知ってるわよ、レミィがおやつまみれになる度にそれをため込んでることは」
「そういう問題じゃないわよ! もう色々と実害が、って何してるのよ、霊夢!」
パチュリーに反論しようとしたレミリアだったが、突如として霊夢に矛先を向けた。
霊夢は銀月の手をしっかりと握っており、そのまま図書館の外へと歩き出していたのだ。
そんな彼女は、レミリアの言葉を聞いて銀月を強く引き寄せた。
「こんな危険なところに銀月を居させられないもの。連れて帰るわよ」
「……あの、霊夢?」
「あんたの抗議は聞かないわよ。こういうときのあんたの言葉ほど信用できないものは無いんだから」
霊夢はそう言うと、手のつなぎ方を変える。
それは指と指をからませ合う、いわゆる恋人つなぎと言うものであった。
突然の霊夢の行為に、銀月は呆気にとられた表情で霊夢を見やった。
「……この手のつなぎ方は?」
「こうしておけば、簡単には振りほどけないでしょ? あんたの能力も使わせてもらうわ。逃げられると思わないことね」
困惑する銀月に、霊夢は色気もそっけもなくそう言って彼の腕を抱きよせる。
基本的に無茶ばかりする銀月である。霊夢にとって、彼が大丈夫と言うときは間違いなく大丈夫ではないという認識の様である。
ぐいぐいと銀月の腕を抱きかかえて引っ張る霊夢。
「連れて帰られるのは困るわ、霊夢」
その霊夢の前に、咲夜が立ちふさがった。
それを見て、霊夢は冷ややかな視線を彼女に向けた。
「何よ、咲夜。私は通報を受けてここに居るんだけど?」
「その通報、元はと言えば私がメイド妖精に貴女を呼ぶように頼んだだけなのよ。通報って形にすれば、貴女もすぐに来ると思ったし」
「どうして私も呼ぶわけ?」
「ほら、また銀月が暴れだしたときに捕まえる方法が欲しいでしょう? だから、貴女も知ってた方が良いと思って」
咲夜は霊夢に事の次第を簡単に説明した。
それを聞くと、霊夢は納得してうなずいた。
「ああ、そういうこと。それなら協力するわ」
一転して、銀月の腕をしっかりと抱えたまま図書館の真ん中に戻っていく霊夢。
その足取りは力強く、やる気に満ち溢れたものであった。
そんな霊夢に、銀月は空いている左手で頭を抱えた。
「……なんでそんなにノリノリなのさ」
「だって、あんたはいざとなったら私達に何も言わずに消えるじゃない、この前の異変みたいに。付いて来ないなら、縛り付けていたほうがよっぽど安心できるわ」
銀月の言葉に、霊夢はじとじととした視線を向けて腕に力を込めた。
それを見て、銀月は大きなため息をついた。
「はぁ……俺ってそんなに信用……ん?」
銀月はふと何かの気配に気が付いて立ち止まる。
「ばぁっ♪」
すると、銀月の影から金色の髪に赤いリボンをつけた闇色の服の少女が飛び出してきた。
「うぅわ!? ル、ルーミア姉さん!?」
突然現れたそれに、銀月は思わず霊夢をかばうように体を動かし、銀のタロットを取り出した。
そんな反撃態勢の彼に、ルーミアは構うことなく近づいて行く。
「捜したわよ、銀月。も~、お姉ちゃんをあんまり放って置くもんじゃないぞ?」
「別に放っておいたつもりは無いんだけどなぁ……ふぁぁあ!?」
疲れた様子で肩を落とす銀月に、ルーミアは飛びついて首筋をペロッと舐める。
そこから背中へと駆け巡るぞわぞわとした感覚に、銀月は堪らずに背を仰け反らせた。
「問答無用よ! そ・れ・に~……お姉ちゃん、まだお仕置き済んでないのよ?」
「待ちなさい、そこの妖怪」
銀月の耳に吐息をかけながら色気のある声色で話すルーミアに、霊夢がそう言って声をかける。
それに対して、ルーミアは霊夢の反対側に回りこんで銀月の肩越しに彼女を見た。
「何よ、霊夢? 混ざりたいの?」
「違うわよ! あんたいっつもやりすぎるじゃない! そうじゃなくて、今大事な話をしてるんだから、帰った帰った!」
にやにやと笑うルーミアに、霊夢はそう言って追い払おうとする。
ルーミアが銀月に何かするときは、大抵銀月がしばらく使い物にならなくなってしまうのだから、霊夢にとって邪魔にしかなっていないのである。
しかしその話を聞いて、ルーミアは面白そうに笑みを浮かべた。
「大事な話? だったら、私も混ざるわ」
「はぁ? 何でよ?」
「だって、貴女がここに来るような大事な話って、銀月のことしかないもの。私はお姉ちゃんなんだから、ちゃんと聞いておかないとね」
ルーミアは銀月の頬を撫でながら、楽しそうにそう口にする。
そんな彼女に対して、銀月はこれ見よがしに大きなため息をついた。
「……よりにもよって、一番聞かれたくない人に……」
「何か言ったかしら、銀月?」
「……何でもない」
ルーミアのまとわりつくような視線を受けて、銀月は黙り込んだ。
ここで何か反論しようものならば、激しい責め苦が自分を待ち受けていると理解しているからである。
大人しくなった銀月に満足げに頷くと、ルーミアは館の主に目を向けた。
「それで、話の内容は何なの、レミリア?」
「銀月をどうすれば捕まえておけるかよ。牢に閉じ込めても、縄で縛っても簡単に抜けられてしまうもの」
レミリアは心底困った様子でルーミアにそう告げる。
実際問題、暴走した銀月を如何にして捕らえるかと言うのは彼女にとって大きな問題なのである。
何故なら、銀月を雇用している都合上、彼が暴走したときに紅魔館全体に被害が出る恐れがあるからである。
その話を聞いて、ルーミアの眼がきらりと光った。
「へえ、面白いじゃない。良いわね、私もやるわ!」
「ああ……やっぱりこうなった……」
キラキラと輝くルーミアの眼に、銀月はこれから自分が舐める辛酸を想定してがっくりと肩を落とした。
「とは言っても、もう肝心の方法がほとんど出尽くしてしまったのよね。物理的な方法も魔法も無理だったし、どうしたものかしら」
その横で、パチュリーが本を閉じてため息交じりにルーミアの方を見た。
どうやら彼女の手札は出し尽くしたらしく、手持ちの本を読んでもなかなか答えが出ないようであった。
そんな彼女に、ルーミアは不思議そうに首をかしげた。
「え~? 銀月なんて、組み伏せちゃえばいいじゃない」
「それが出来ない場合のことを今やってるのよ。銀月が本当に暴走したら、誰に止められるかなんていう保障は無いのだから」
ルーミアの言葉に、レミリアはそう言って深刻なため息をついた。
彼女が思い出すのは、銀月が紅魔館に務める切欠となった事件。
吸血鬼が二人掛かりでも御しきれず、ただ生きたいと言う生存本能だけのために竜巻のように周囲を飲み込む翠眼の悪魔。
レミリアにとって、その生物災害を銀月を殺さずに止める方法を探すことが一番の命題なのであった。
そんな彼女の言葉に、ルーミアの眼が爛々と輝いた。
「だったら、私がずっと張り付いてれば良いんだわ! そうすれば、いつだって捕まえられるもの!」
ルーミアはそういうと、銀月の背中にべったりと張り付いた。
そんな彼女に、銀月は嫌な予感を感じて頭を抱えた。
「……姉さん。まさかお風呂や布団の中でも張り付くつもり?」
「当然よ! あんたはいつ暴走するか分からないんだし。それに、お風呂だって小さい頃は一緒に入ってたじゃない。別に今更気にする事はうへへへへ……」
「はい、アウトー」
顔のゆるみきったルーミアに、霊夢はそう言って拳骨を振り下ろすのであった。
「キャハハ☆ こんにちは♪」
主達が熱心に研究に励んでいるころ、地下室に陽気なピエロの声が響いた。
その声を聞いて、部屋の主は怪訝な表情でその突然の訪問者を見た。
「……だあれ?」
「キャハ☆ 僕は喜嶋愛梨♪ しがないピエロさ♪」
愛梨は大玉に乗ったままそう言って、手にした黒いステッキで被っている赤いリボン付きのシルクハットを軽くたたいた。
その彼女にフランドールは不思議そうに首をかしげた。
「そのピエロが、一体何をしにきたの?」
「ピエロといえば、やる事は一つ♪ 君を笑わせに来たんだ♪」
「え?」
愛梨の一言に、フランドールはきょとんとした表情を浮かべた。
訳の分かっていない様子の彼女の反応に、愛梨は面白そうに笑みを深めた。
「キャハハ☆ それでは、たった一人の、君のためのショーの始まり始まり~♪」
愛梨はそういうと、五つの玉を取り出してジャグリングを始めた。
彼女の手の中で、まるで意志を持っているかのように彼らは舞い踊る。
それはまさに、芸術とも言えるものであった。
「……やめてよ」
しかし、フランドールの口から漏れたのは称賛でも感嘆でもなく、悲痛な呟きであった。
それを聞いて、愛梨はピタリとジャグリングを止めた。
「あれれ? 面白くなかったのかな?」
「……それで笑わせるなら、銀月のところへ行ってよ……」
心配そうな表情を浮かべる愛梨に、フランドールは泣きそうな表情でそう口にする。
何故なら今の愛梨の行為は、初めて会った時の銀月を思い出させるものだったからである。
今は失われてしまったものを思い出してしまい、彼女の胸は強く締め付けられたのだ。
そんな彼女の言葉に、愛梨は苦笑いを浮かべた。
「今の銀月くんを笑わせるのは難しいかな♪」
「……どうして?」
「笑顔ってね、向ける相手が必ず居るんだ♪ だから、僕が笑わせても、それは君が望む笑顔じゃないんだ♪ だって、それは僕に向けられた笑顔だからね♪」
悲しげなフランドールに、愛梨は優しくそう口にする。
フランドールが望んでいるのは、銀月の笑顔であった。しかし、自分が叶えても彼女の心は満たされない。
みんなが笑顔でいることを望む愛梨にとって、笑顔の道化師としてそれは悲しいことなのであった。
だからこそ、愛梨はフランドール自身に銀月を笑顔にしてほしいと望んだのだ。
そんな彼女に、フランドールはすがるような視線を彼女に向けた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「その前に、どうしたら良いと思うのかな?」
フランドールの問いかけに、愛梨は問いかけで返す。
それに対して、フランドールは俯いて力なく首を横に振った。
「分かんないよ……私、もうどうしたらいいのか分かんないよぉ……」
「うんうん、じゃあ、何で分かんないのかな?」
かすれた声でのフランドールの返答に、愛梨はさらに問いかけを重ねる。
それを聞いて、フランドールはゆっくりと顔をあげた。
「え?」
「フランちゃん、何でどうしたら良いのか分からないのかな?」
愛梨はそう言って、母親の様な優しい微笑みをフランドールに向ける。
フランドールは少し考えると、おずおずとその目を見返した。
「……それは、私が銀月のことをよく知らないから……」
「本当にそうかな?」
「っ……」
愛梨の返答に、フランドールは思わず目をそむける。
彼女は怖いのだ。それは、目の前の道化師に対する怖さでは無い。自分がなにも分かっていないことに対する、無知であることへの恐怖であった。
何故なら、無知は相手を傷つけるから。以前それで銀月を殺してしまった彼女は、知らないと言うことが怖くなっていたのだった。
「は~い、ここで一つヒントをあげちゃう♪」
そんな彼女に、愛梨は明るく声をかけた。
それを聞いて、フランドールは再び愛梨に目を向ける。
「ヒント?」
「うん♪ ピエロってね、お客さんのことが分からなくても笑わせることができるんだよ♪」
「じゃあ、私が銀月を知らなくても、笑わせられるの?」
「そうだよ♪ だって、君は初めて会った銀月くんに笑顔にしてもらったんじゃないのかな?」
愛梨はフランドールにそう話す。
それを聞いて、フランドールはハッとした表情を浮かべた。
初対面の自分を、銀月はいとも容易く笑顔にして見せたことを思い出したのだ。
「そっか……じゃあ、何で?」
「そんな君に、もう一つヒント♪ 実はね……銀月くん、とっくに君の前で笑ってるんだよ♪」
愛梨は再び優しい声で、静かに楽しそうにそう口にした。
その言葉を聞いて、フランドールは茫然とした表情を浮かべた。
その発言の内容が、とても信じられなかったのだ。
「……嘘」
「キャハハ☆ 本当さ♪ 君が気づいてないだけで、銀月くんは何度か君に笑顔にしてもらってるんだ♪」
「で、でも、その場にいなかったのに、何で分かるの?」
「ふっふ~ん♪ ピエロは魔法使いさ♪ 笑顔のことなら、何でも知ってるんだ♪」
愛梨はそういうと、得意げに胸を張った。
その様子からは嘘を言っているようなそぶりは感じられない。
「そんなの……」
しかし、それでも彼女は信じ切れなかった。
自分に対して、絶対的な恐怖心を持っている銀月を、自分が笑顔に出来たことがあると言うことは、到底信じ切れるものではなかったのだ。
そんな彼女に、愛梨はにこやかに笑った。
「キャハハ☆ 信じるも信じないも君次第さ♪ でもね、何で僕が君の前に来たと思う?」
「理由、あるの?」
「うん♪ でも、僕は失敗しちゃったんだよね~……」
愛梨はそう言って苦笑いを浮かべる。
しかしそこまで気にしたそぶりを見せることは無い。
どうやら、目的は無理に達成しなければならないものではないもののようであった。
その理由が分からず、フランドールは更に問いかける。
「私を笑わせに来たってこと?」
「それが一番だね♪ でもでも、本当は君を笑顔にする理由があったんだ♪」
「それ、なに?」
「キャハ☆ それは秘密さ♪」
繰り返される問いかけに、愛梨は口に人差し指をあてて楽しそうにそう答えた。
その途端、上の方から震動と共に何かが迫ってくる音が聞こえてきた。
それを聞いて、愛梨は小さく困ったような笑みを浮かべた。
「おっと、どうやらもう時間切れみたいだね♪」
愛梨はそういうと、乗っていた大玉から飛び降りてそれをステッキで軽くトントンと叩く。
すると大玉の口が開き、中のオパールの輝きを思わせる虹色の不思議な空間をのぞかせた。
「ま、待って! まだ聞きたいことがあるの!」
その中に入ろうとする愛梨を、フランドールは慌てて引きとめようとする。
自分の従者を笑わせたい彼女は、目の前にある可能性に必死でしがみつこうとしているのだ。
「フランちゃん」
そんな彼女に、愛梨は立ち止って振り返る。
そして彼女は、にこやかに笑って口を開いた。
「銀月くんが笑顔になったら、君はどんな顔をするのかな?」
「え?」
「キャハハ☆ それじゃ、まったね~♪」
愛梨は呆けたフランドールにそう言うと、サッと大玉の中に飛び込んだ。
すると大玉自身もその空間に吸い込まれ、跡形もなく消え去った。
その直後、地下室のドアが勢いよく開け放たれた。
「フラン! ちょっと手伝いなさい!」
飛び込んできたのは、かなり慌てた様子のレミリアであった。
よく見ると、彼女の服にはかなり着崩れている。
どうやら、余程激しい運動をしていたであろうことがフランドールにも見て取れた。
「え、どうしたの、そんなに慌てて?」
「お願い、太陽! 私に力を貸して!」
「っ! 来るわよ!」
レミリアがフランドールの問いかけに答える前に、聞き覚えのない少女の声が耳に入ってくる。
それを聞いた瞬間、レミリアは勢いよく入口の方へと向きなおる。
彼女は真紅の槍を出して身構えており、外が戦場になっていることを暗に示していた。
「いっくよ~! サンライトストライク!」
「わあああああああああ!」
「ぐあああああああああ!」
次の瞬間、まばゆい光と共に周囲に衝撃が走り、二つの叫び声が聞こえると同時に部屋の中へと声の主が吹き飛んできた。
吹き飛んできたのは門番である美鈴と、その友人であるギルバートであった。
「え、ええっ!? なに、これ!?」
「くっ、月が太陽の力を使うなんて、キャラがぶれすぎじゃないかしら?」
その非常事態とも取れる状況にフランドールが混乱していると、レミリアが部屋の入口に向かって声をかける。
それと同時に、声をかけられた相手が部屋の中へと入ってきた。
「知ってる? 月は太陽の光を受けて輝くの。だから……私も太陽と一緒に輝ける!」
入ってきたのは、肩まで伸びた青みがかった銀髪の美少女。
彼女は白と赤を基調にしたドレスを身に纏い、頭には太陽の形を模したヘアピンをつけ、手には三日月の飾りのついた長い杖を持っている。
その姿は、魔法少女と言って差し支えのないものであった。
そして彼女は静かに目を閉じると、小さく深呼吸をしてその目を開いた。
「シルバームーン・サンライトハート! 紅魔女帝レミリア! 貴女の悪事、太陽と月の前に懺悔なさい!」
ビシッと杖をつきつけて、彼女はレミリアにそう叫んだ。
その決め台詞を聞いて、レミリアは不敵な笑みを浮かべた。
「ふん、やれるものならやってみなさい!」
レミリアがそう口にした瞬間、激しい戦闘が始まった。
白と紅の光が交錯し、激しい振動や音と共に周囲を明るく照らし出す。
そんな戦場の中を掻い潜って、咲夜がフランドールの元へとやってきた。
「ご無事ですか、妹様」
「あ、咲夜……ねえ、あれ、誰?」
「……銀月です」
「……はい?」
「ですから、あの魔法少女は銀月です」
「うっそ~……」
茫然とした様子のフランドールに、咲夜が答える。
その表情は乾いた笑みであり、銀月がこうなることなど全く予想していなかったことが伺えた。
一方のフランドールも、一見全く別人のようになってしまっている銀月に、訳が分からなくなっているようである。
「えーっと……なんでこうなったの?」
「ちょっと銀月のために実験をしていたら、数名暴走しまして……銀月が発狂したんです」
「これで終わりよ! ミリオンサンズ・ブラスター!」
「きゃあああああああああ!?」
咲夜が説明すると同時に、銀月の背後に現れた無数の光の球から一斉にレーザーが放たれる。
その光は速く正確にレミリアを貫いていき、大爆発を起こしてレミリアを壁まで吹き飛ばしていった。
「太陽と月が寄り添う限り、悪が栄えることはなし! なんてね♪ ぶいっ♪」
レミリアが気絶したのを確認すると、銀月は太陽の様な明るい笑みを浮かべて決めポーズを取った、
それは普段クールにふるまう銀月の性格からは考えられないことであり、明らかに頭のネジが二、三本吹き飛んでいる。
そんな彼の様子に、ボロ雑巾のように地面に転がっている人狼が声をかけた。
「……おい、銀月……なんで俺達はテメエの演技に付き合わされたんだ?」
「ちっちっち……何言ってるの、ギルくん? 私のことはアーシェって呼んでたじゃない」
一体どうしちゃったの、とでも言いたげな表情で銀月はギルバートの問いに答える。
それを聞いて、ギルバートはとても面倒くさそうに頭を抱えて大きなため息をついた。
「あー、そうかい。おい、美鈴。銀月に何があったんだ?」
「わ、私にも詳しいことは……咲夜さん、銀月さん、どうしたんです?」
「私の口から言えることは、銀月を弄ぼうとしたのが悪いとしか」
状況を理解出来ていない二人に、咲夜は端的に事情を話す。
どうやら二人は門の前で話をしていたところに紅魔館内部から大きな音が聞こえてきたために、急いで駆け付けただけの様であった。
「む~、咲夜ちゃん……私の名前、白銀朋美って言うんだけどにゃ~……」
説明をする咲夜の肩に、銀月は後ろから抱きついてそう言いながら顎を乗せる。
その表情は不貞腐れたふくれっ面であり、いかにもそれが本名であるようなそぶりであった。
それを受けて、咲夜は会話を中断して銀月の方に目を向けた。
「あら、ごめんなさいね。今度は間違えないように気をつけるわ、朋美」
「えへへ~、約束だよ?」
咲夜がそう言って頭を撫でると、銀月はとろけた表情でそう口にし、顎を乗せている肩に頬擦りをした。
それはまるでくっついて甘える猫のようであり、見るからに幸せそうな表情であった。
が、初めて見るそのあまりのキャラの崩壊っぷりに主であるフランドールは当然ながらついて行けないようであり、おろおろとした様子で彼を見やる。
「ぎ、銀月?」
「あ、フランちゃんだ~♪ にゃっほ~♪」
「にゃ、にゃっほ~……」
困惑しているフランドールに、銀月は能天気な声でそう返事をした。
それは執事としての教育を受けている彼にあるまじきことであり、更なる混乱を主人にもたらすのであった。
そのあまりにも酷い変貌に、ギルバートは痛む体を起こしながら口を開いた。
「……おい、完全にキャラが崩壊してんじゃねえか……立てるか、美鈴?」
「あ、はい。吹き飛ばす力が強いだけで見た目ほどダメージは無いです。と言うか、本当に銀月さんなんですか?」
「ああ。匂いが完全に銀月だ」
ギルバートは美鈴に手を貸して引き起こしながらそう口にする。
美鈴もやはり目の前の魔法少女が銀月だと言うことが信じられないようであり、自分の怪我よりもそっちの方が気になる様子であった。
「あちゃ~……久々にこんな銀月を見たわね……」
そんな彼らから隠れて、部屋の入口から覗く影が二つあった。
そのうちの一つである宵闇の妖怪は、銀月の様子を見て苦い表情を浮かべている。
その様子を見て、隣に居た紅白の巫女が彼女に声をかける。
「ちょっとルーミア。私の知る限り五本指に入るくらい酷い状況なんだけど?」
「銀月って、あんまり辛いことがあると演技に逃げるのよ。要するに、現実逃避ね」
ルーミアは今の銀月の様子をそう言って説明する。
早い話が、銀月は自らの身に降りかかる不幸を別の演技をして忘れようとしているだけなのだ。
ただし、銀月は『限界を超える程度の能力』のお陰で演技の限界を超え、擬似的な二重人格になってしまうためにこのような事態を引き起こしてしまうのであった。
しかしそれを聞いてなお霊夢には疑問が残っているようで、さらに質問を重ねてくる。
「それで、何でレミリアが狙われたのよ?」
「それこそ日頃の恨みじゃないかしら? だって、銀月に対する欲望はあっちの方が暗いし」
「じゃあ、あんたは何でこそこそ隠れてるのよ?」
「そ、それは……」
霊夢の追及に、ルーミアはしどろもどろになる。
そんな彼女の両肩に、パンっと少し強めに手が置かれた。
「お・ね・え・ちゃ・ん?」
「あ、やば」
耳元で明るい少女の声が聞こえた瞬間、ルーミアの顔からサッと血の気が引いた。
彼女はまるで錆びついたロボットのように、恐る恐る後ろを向く。
「つっかま~えた♪ ちょっと向こうでお話ししよっか?」
するとそこには、すぐ近くにまで迫った銀月の顔があった。
少し幼さを残した可愛らしい顔で造られる笑顔には、どこか蠱惑的な妖しさがあった。
そして、彼はそう言いながらルーミアの腰に手をまわし、彼女が逃げられないように抱え込んだ。
「え、えっと銀月? 抱きついてくれるのは嬉しいけど、お姉ちゃんは早く元の銀月に戻って欲しいな~、なんて……ひゃぅ!?」
青ざめて乾いた笑みを浮かべるルーミアの耳を、銀月は軽く甘噛みする。
ルーミアはそれを受けて、のけぞるように体を跳ねさせた。
「……ダメだよ、お姉ちゃん? お返しは、ちゃんとしないとね?」
「ひぃっ……」
耳元で色気のある声で小さく囁きながら、銀月はルーミアを連れて行こうとする。
普段では全く考えられないその行為に、霊夢は少し慌てた様子で声をかけた。
「ちょ、ちょっと銀月?」
「うふふ~♪ 一緒に来る? 霊夢ちゃん♪」
声をかけてきた霊夢に、銀月はそう返す。
その表情は先ほどルーミアに見せたものとは違い、純粋に遊びに誘うような笑顔であった。
しかし、状況が状況なだけにどう考えてもいやな予感しかしないわけであり。
「あ……え、遠慮しとくわ」
「ちぇっ、残ね~ん♪ じゃ、行こっか、ルーミアお姉ちゃん♪」
「きゃっ!?」
銀月は悪戯っぽく舌を出してそう言うと、ルーミアを抱きあげて歩き出した。
その大胆な行為に、ルーミアは借りてきた猫のように為すがままとなっている。
そして、そのまま全員の視界から消えて行った。
「あいつ、公然とセクハラかます奴じゃないはずなんだがな」
そんな彼の様子を見て、ギルバートがぽつりと呟いた。
普段の銀月であれば、たとえ演技をしていようと人前で今の様に不用意に異性に手を出すことはしないはずなのだ。
それがいくら相手が身内とは言えども堂々とあのような行為に及んだのだから、現在の彼が異常な状態になっているのがよく分かると言うものである。
「自業自得よ。普段公然と猥褻行為を受けてるんだし」
それに対して、霊夢は呆れ顔でそう口にした。
彼女の言うとおり、銀月は普段ルーミアの過剰なスキンシップに悩まされている一人なのである。
普段神社に妖怪が集まることすらあまり快く思っていない霊夢にとって、大事な食事係に多大な迷惑をかけるルーミアがやり返されることは単なる自業自得であり、当然のことなのである。
しかし、そんな彼女の言葉に咲夜が首をかしげた。
「……普段、止めないのかしら?」
「……そういう時の銀月の声、最近聞いてると私も危ないのよ」
咲夜の言葉に、霊夢は罰が悪そうにそう答えた。
実は彼女、ルーミアの蛮行を止めようとするのだが、いじられている銀月の声を聞くと自分も彼を虐めたくなってしまうと言う困った状況に陥っていたのだ。
「当然よ。銀月の声や仕草には、そういった魔力が込められているもの」
そんな彼女の言葉に、階段を降りてきた声が答えを返した。
その声の主である薄紫色の魔女に、咲夜が更なる質問を重ねた。
「つまり、銀月は自分から相手に襲われるようにしていると言うことですか?」
「ええ。もっとも、本人にその自覚は無いでしょうけどね」
パチュリーは淡々と事実を述べる。
つまり、銀月は無意識のうちに自分から襲われるように仕向けていると言うのである。
「でも、何で銀月さんはそんなことを?」
「忘れたのかしら? 今はあんな感じだけど、銀月は数多くの妖怪を喰らってきた翠眼の悪魔よ。見た目も声も、全てが獲物になる妖怪をおびき出すための疑似餌なのよ」
当然の質問をしてきた美鈴に、パチュリーは更なる返答をする。
翠眼の悪魔の被害に遭った犠牲者は、その全てが人喰い妖怪であった。
彼らは銀月の美味そうな見た目と襲いやすそうな仕草を見て、ご馳走にありつこうと接触したところを逆に喰われていたと考えるのは、実に自然な流れであった。
しかしその推論に、霊夢が反論する。
「それが、何で私に効くのよ。私は妖怪じゃないわよ?」
「この前の異変で銀月の力が強くなったと考えるのが妥当でしょうね。レミィから聞いたけど、流石にあれだけのことをして何も起きないはずが無いわ」
狂気を孕んだ太古の月の下、悪魔の力を存分に振るった銀月。
まだかろうじて人間である彼にとって、それが多大な影響を与えたことは想像に難くない。
その一つが、人間に対する効果の発動と言う形で現れているのだ。
「話の途中で悪いが、何で俺は足を蔦で絡め取られてるんだ?」
そんな中、少し焦ったような疑問の声が上がる。
見てみれば、ギルバートの足に赤い蔦がびっしりと纏わりついている。
さらに、その蔦はくるぶしから膝へと少しずつ這い上がっていくところであった。
「当然じゃない。貴方の作り出す力の結晶の研究はまだ済んではいないわ。それに、貴方自身も魔狼と言う稀少な研究材料よ。のこのことやってきて、逃がすわけないじゃない」
その彼の疑問に、パチュリーは涼しい顔でそう答えた。
要するに、ギルバートはパチュリーの私利私欲のために捕らえられているのであった。
そしてパチュリーが軽く指を振ると、ギルバートの足元から投網の様に一気に蔦が広がり、あっという間に簀巻きにしてしまった。
「あ、おい! くそ、実験台になんてなってたまるかぁ!」
「あら、銀月には効かないけど、この手の魔法なら貴方に抜けられるほど弱くは無いわよ。大人しく付いてくることね」
「ちっくしょおおおおおお!」
必死にもがくギルバートを、パチュリーは蔦を操って連行していく。
後には、人狼の悲痛な叫びの残響が木霊すだけだった。
「先程は失礼しました、お嬢様」
しばらくした後、真紅の執事に戻った銀月がそう言って深々と頭を下げる。
人格ごと変化して居ていたとはいえ演技なので、当時の記憶はしっかり残っているようである。
そんな彼に、フランドールは少し困り顔で小さく首を横に振った。
「う、ううん、別に気にしてないよ?」
「そうは言いましても、私の精神の脆弱さからお嬢様にご迷惑をお掛けしたのは事実です」
フランドールの言葉にも、銀月はそう言って頭を下げ続ける。
執事として、主人に迷惑をかけたと言うことは、彼にとって恥ずべきことなのである。
「……迷惑よりも、嬉しかったよ」
「はい?」
そんな彼に、フランドールは俯き、呟くように口を開いた。
その一言に、銀月は呆気にとられた表情で顔を上げる。
「だって……演技だったのかもしれないけど、やっと私の前で笑ってくれたもの」
フランドールはそう言いながら、淋しそうに笑った。
彼女は最初に会った時以来、銀月の笑顔を見ることが出来なかった。
その事実は、彼女にとってとても辛いものであった。
銀月の笑顔を奪ってしまったことに対する、罪悪感と自己嫌悪。
彼女は銀月を見るたびに、それを思い出しては苦しんでいたのであった。
「…………そうですか」
そんな彼女に、銀月は目を閉じてそう口にする。
その表情からは、彼がどのような思いでその言葉を発したのかは読み取れない。
そんな彼に、フランドールは不安げに銀月の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもありません。では、お食事の支度に入らせていただきます」
銀月はそう言うと、踵を返して部屋を出ようとする。
「あ、ちょっと待って」
その彼を、フランドールは少し慌てた様子で呼び止めた。
銀月はそれを聞いて、立ち止って彼女に向きなおる。
「いかがなさいましたか?」
「今日は、銀月の血が良いな」
フランドールは少し緊張した様子で要望を彼に伝える。
それを聞いて、銀月はしばらくその言葉を頭の中で反芻し、小さく会釈した。
「……かしこまりました。それならば、先に使用人達の食事の支度をして参ります」
「うん、待ってるわ」
フランドールの返答を聞くと、銀月は今度こそ部屋を後にする。
そして数時間後、銀月は何も持たずに主の待つ地下室へと戻ってきた。
「お待たせ致しました」
「うん。こっち来て」
フランドールはそう言って、部屋の中にある安楽椅子へと銀月を誘導する。
銀月は彼女に一礼するとその椅子に腰かけ、それに続いてフランドールが向き合うようにして彼の膝にまたがった。
「……珍しいですね。私の血を飲みたいと仰るのは」
「うん……」
銀月の問いかけに、フランドールは力なくそう口にした。
その言葉の中の感情を読み取って、銀月は再び声をかける。
「何かあったのですか?」
銀月の問いかけに、フランドールは答えない。
代わりに、彼女は銀月の背中に手をまわし、胸に顔をうずめるようにしっかりと抱きついた。
そんな彼女に、銀月は不思議そうに首をかしげた。
「お嬢様?」
「しばらく、こうさせて」
「かしこまりました」
短く言葉を交わして、二人は静かに時を過ごす。
フランドールは抱きつく力を緩めることなく、銀月はそれに応えることなくゆっくりと椅子を揺らす。
「銀月」
「如何なさいましたか?」
ふと、胸に顔をうずめたままフランドールが相手の名を口にする。
それに対して、銀月はいつもの平坦な声で返事を返す。
すると、彼の胸元から硬い吐息がひとつ聞こえてきた。
「壊れちゃったものを直すには、どうすればいいの?」
フランドールは顔をあげて、銀月にそう問いかけた。
その瞳は涙に潤んでいる。
彼女の問いかけは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸を探すような、贖罪に縋るものであった。
その言葉を聞いて、銀月は目を伏せた。
「……私にも分かりません。そもそも、それはどんな壊れ方をしたのか。修復不能なのか。直すには何が必要か。それすらも分からないのでは、とても」
「そっか……」
銀月の返答に、フランドールは力なく肩を落とした。
それは答えを得られなかったことに対するものではない。
彼もまた自分との関係に苦しんでいるのだと知り、それが心に深く突き刺さっているのだ。
二人きりの部屋を、重い沈黙が支配する。
「ねえ」
しばらくして、フランドールが意を決した様子で口を開いた。
「はい、お嬢様」
それを受けて、銀月も短く返事をする。
その彼の首に少女の細く華奢な腕が回され、その顔が目の前へとやってくる。
「私頑張るから……待っててね、銀月」
「っ!?」
銀月の意識が飛ぶ前に見たものは、フランドールの優しい、どこか淋しそうな笑みであった。
銀月が目を覚ますと、彼は天蓋つきの大きなベットの上に居た。
傍らには、倒れた彼を心配した同僚が用意した軽食と水差しが置かれている。
「……お嬢様」
銀月は主人の姿を思い出し、小さくそう呟いた。
その瞬間、突如として目の前の空間が裂け、大きな口をあけた。
「お悩みの様ね、銀月?」
空間の隙間から現れたのは、紫色の垂が付いた白いドレスの女性であった。
その良く見知った姿に、彼はベッドから立ち上がってその名前を口にする。
「……紫様」
「お仕事熱心で結構なことね。でも、私にとっての貴方はそうじゃないでしょう?」
いつもより堅苦しく自分の名前を呼ぶ彼に、紫は苦笑いを浮かべてそう口にする。
その一言に、銀月は小さくため息をついて頭のスイッチを切り替えた。
「どうしてここに?」
「どうしてって、貴方のことが気にかかるからに決まってるじゃない。特に、その紅い服を着ている時の貴方はね」
「……」
紫の言葉に、銀月は口を閉ざす。
彼自身も、自分の今の状態が好ましいものではないことは分かっている。
原因が全て自分にあることなど、当に分かっているのだ。
そんな彼に、紫は更に問いかける。
「貴方の心はどこかしら、銀月?」
「……分からないよ」
紫の質問に、銀月はそうとしか答えられなかった。
何故なら、彼の中にはいくつもの自分が居るのだ。逃げてしまいたいという自分と、仲良くしなくてはならないと言う自分、恐怖に怯える自分を責める自分、現状で十分だと言い聞かせる自分。
そのどれが自分の答えなのか、彼には分からないのだ。
そんな彼に、紫は微笑みながらうなずいた。
「そう、それで正解。それでどこにあるか答えを出してきたら嘘吐きって言ってる所よ」
「じゃあ、どこにあるって言うのさ? 本人が分からないのに、紫さんは分かるのかい?」
「普通なら分からないわ。けど、今の貴方なら分かる」
怪訝な表情を浮かべる銀月に、紫は意味ありげな笑みを浮かべてそう答えた。
そんな彼女の様子に、銀月は小さく息を吐き出した。
「……どこに?」
「どこにもないのよ。今の貴方の心なんて」
真剣な表情で自分を見つめる銀月に、紫はそう答える。
その答えを聞いて、銀月の目の色が変わる。
「じゃあ、何で俺はこんなに悩んでるのさ!? 心が無いなら、悩まないはずでしょう!?」
水をたたえたダムが決壊するかのように、銀月から激しい感情が流れ出す。
それは、自分が自分の思い通りにならないことへの苦しさの奔流であった。
「その心が偽りだからよ、銀月」
それに対して、紫は優しい声でそう口にする。
その瞬間、自らへの憤怒に満ちた銀月の顔から、水を掛けられたかのようにその炎が消えた。
「え……?」
「貴方が抱いている感情は、確かに全部本物。でも、それを整理する心は本物ではないわ。偽物を見ていたんじゃ、本物の場所が分からなくなって当然よ」
紫は苦笑いを浮かべながらそう口にする。
それを聞いて、再び銀月は沈黙した。
目を閉じて俯くその姿は、まるで自分の本物の心のありかを必死で探しているようにも見えた。
「偽りでもいいじゃない」
そんな銀月に、紫は優しい声でそう口にした。
その言葉に、銀月は困惑した様子で顔をあげた。
「は?」
「心を偽ることは、そんなに悪いことかしら? もし本当に誰も心を偽らなかったら、世の中どこも上手く回らないわよ?」
「それは、そうだけど……」
「なら、いっそのこと演じきって見せなさい。どうせ偽るのなら、自分の思い描く理想の自分をね。貴方は、千両役者になりたいのでしょう?」
言葉を詰まらせる銀月に、紫はそう言って彼の肩を叩く。
その言葉に、銀月はハッとした表情を浮かべ、拳を握り締めた。
「……そうだ。俺は役者なんだ。その役者が、主人の望む自分すら演じられなくてどうする」
銀月は目を閉じ、力強くそう言った。
それは、強い決意の籠ったものであった。
その言葉を聞いて、紫はいつもの胡散くさい笑みを浮かべた。
「ふふっ……それじゃあ、頑張ってね」
紫はそう言うと、スキマを開いてその中に入ろうとする。
しかし、その途中で何かを思い出したかのように銀月の方へと向きなおった。
「あ、そうそう。私の前では、その仮面は外しなさい。私が気にしているのは、何も役を演じていない真っ白な銀月なのだから」
そう口にした紫の表情は、まるで我が子を見守る母親の様な表情であった。
そして、彼女は眼を閉じたままの銀月に背を向けると、今度こそスキマの中へと消えて行った。
「……よし」
しばらくして、銀月は力強くドアを開け、部屋の外へと出て行く。
その姿は、完全で瀟洒な、凛とした執事副長のものであった。
大変お待たせ致しました。
ようやく出ました最新話です。
今回は銀月の紅魔館での話でした。
紅魔館の問題の中で、彼のことはかなり大きなウェイトを占めています。
その中で、今回は銀月とフランちゃんにそれぞれ変化が起きたと言う話です。
……その陰で、一人の人狼が犠牲になったのは気にしてはいけない。
それでは、ご意見ご感想待ちしております。