魔の狼、我に返る
「紅魔館、か……」
紅魔館への道のりの途中、ギルバートは立ち止まってそうつぶやいた。
頭に浮かぶのは、紅魔館で働いているはずの黒髪の執事。いつも白装束で立ちはだかる、最大の好敵手。
その姿を思い浮かべた瞬間、彼の足は止まったのだ。
「…………」
彼は無言で立ち尽くす。
紅魔館に行くと決めたものの、今の彼には銀月に合わせる面が見つからなかったのだ。
何故ならいつも対等でなければならないはずの彼には一方的に負け、それを挽回すべく特訓を重ねたというのに結果は目も当てられないほどに散々なものであったのだ。
彼は、そんな自分の姿を好敵手に見せることなど、恥ずかしくてとても出来なかったのだ。
「……くそっ」
ギルバートはそう吐き捨てると、踵を返して別の方角へと飛んでいく。
彼が求めているのは対戦相手では無かった。ただ、一人で考える時間が必要だったのだ。
そんな彼が向かった先は、迷いの竹林であった。
目立った知り合いの居ないその場所なら、誰にも会うことは無いだろうと踏んでいたのだ。
「…………」
重い足取りで彷徨い、誰も競う似ないところで腰を下ろし、目を閉じ、そっと竹に寄りかかる。
そよ風によってわずかに揺れる竹の葉のざわめきを聞きながら、ギルバートは己に問いかけ始めた。
どうして相手に勝てないのか。自分の何が拙いのか。そして、自分のしていることが本当に正しいのか。
彼はその一つ一つを確認していく。しかし、何一つ分かることは無かった。
今の彼は、出口の見えない迷路の中を彷徨っているようであった。
「はて、何かお困りの様じゃのう?」
そんな彼に、年老いた男性の声が聞こえてきた。
その声にギルバートが顔を上げると、そこには緑の羽織袴を着て、腰に二本の刀を差した老人が立っていた。
ギルバートは、その老人に見覚えがあった。
「あんたは、バーンズと戦ってた……」
「左様。儂は魂魄妖忌という者じゃ。何やらこんな辺鄙なところで若者が考え込んで居るのが気になっての。この老骨で良ければ、少しは話が聞けるかもしれん」
妖忌はギルバートの隣に立ち、静かに彼が口を開くのを待つ。
ギルバートはしばらくの間、黙って考え込む。
目の前に居るのは、精々顔とその強さを知っている程度の老人である。こうして一対一で話したこと等、全くない相手である。
しかし、だからこそ彼には黙っている理由も、意地を張る理由もなかった。
「……俺は……」
ギルバートは今までの出来事を正直に話した。
自分の力不足に苦しんでいること、努力をしても成果が出ないこと、その姿を見る周囲の眼が冷ややかであること、そして、自分が正しいのか分からなくなってしまったこと。
その全てを聞いて、妖忌は静かに息をついた。
「……なるほどのう。何もかもが上手くいかず、自分が正しいのかすらも分からなくなったと」
「……教えてくれ。俺はどうすれば良い?」
縋るような瞳で、ギルバートは目の前の老人にそう問いかける。
すると妖忌は、少し困った表情で小さくため息をついた。
「ふむ……済まんが、儂に出来ることはもうほとんど残っとらんじゃろうな」
「どう言う意味だ?」
「儂はお前さんのことをほとんど知らん。だからお前さんがこうして悩んでいると言うことを知り合いに話す程度のことしか出来んし、儂がお前さんの悩みを解決すること等出来ん」
「……そうか」
妖忌の言葉に、ギルバートはそう言って溜め息をつく。
ほぼ見ず知らずの他人の様な相手、正しい答えなど最初から期待していなかったのだ。彼はそう自分に思い込ませようとする。
「じゃが、お前さんが何をすべきかは分かる」
しかし、そんな彼に更に言葉が投げかけられる。
それを聞いて、ギルバートは再び妖忌にその眼を向けた。
「どうすれば良いんだ?」
「お前さんが自分の進む道が分からなくなったのは、周りから色々言われたせいなんじゃろう? 自分自身が正しいのか分からないのならば、いっそ一旦立ち止まって他人の言うとおりにしてみるのも手じゃ。案外、人は自分のことを見ているもの。もしかしたら、今のお前さんに必要なことを教えてくれるやもしれんぞ?」
妖忌は自分に目を向ける少年の目を見ながら、穏やかな口調でそう口にした。
「……分かった。ありがとな」
その言葉を、ギルバートは素直に飲み込むことが出来た。
彼は妖忌に礼を言うと、立ち上がって去っていく。その足取りは重かったが、来た時よりは軽かった。
その彼を見送りながら、妖忌は小さくため息をついた。
「……やれやれ。バーンズめ、一番肝心な部分を鍛えておらなんだか。いや、あえて手を加えておらんというべきじゃな。あの爺が分からんはずが無かろう」
妖忌はそう言うと、踵を返して竹林の奥へと去っていった。
ギルバートは、ゆっくりと目的地に向かって空を飛ぶ。
その行く先に見えるのは、全体が真っ赤に塗られている大きな洋館。
彼は妖忌の言葉に従い、紅魔館に行くように促したアリスの言葉を聞いてみることにしたのだ。
しかし、その足取りは軽いものとはいえない。自分の意思に逆らうその行為に、頭では分かっていても体が勝手に抵抗しているのだ。
それでも、彼は逃げ出したくなる気持ちを抑えて紅魔館へとやってきたのであった。
「ああ、待ってましたよ、ギルバートさん」
紅魔館に着いたギルバートを待っていたのは、にこやかな笑みを浮かべた赤髪の門番であった。
その口から出た言葉を聞いて、ギルバートは苦い表情を浮かべた。
「……美鈴」
「アリスさんから大体の話を聞かせてもらいました。最近随分荒れてるみたいですね」
「……くそっ、どいつもこいつも余計なことしやがって」
美鈴の言葉に、ギルバートはそう言って毒づく。
何をやっても自分の思い通りにならないこの現状のせいで、全ての出来事に腹が立つようである。
そんな彼の様子を見て、美鈴の表情から笑みが消えた。
「どうして荒れているかは知りませんが……それは拳に聞いてみるとしましょう。今の貴方には、それが一番早そうです」
美鈴はそう言うと身体を半身にし、きわめて自然な体勢で構えを取った。
話が出来るのであれば話をするつもりで居たのだが、今のギルバートにそうする心の余裕はないと踏んだのだ。
それを見て、ギルバートは赤い丸薬を取り出して飲み込んだ。
「上等だ……今度こそ、勝つ!」
ギルバートは群青の狼に変身すると、一直線に美鈴に襲い掛かっていく。
それに対して美鈴は後ろに軽く受け流すが、ギルバートは即座に反転して再び飛び掛っていった。
「おおおおおおおおおお!」
ギルバートは一気に畳み掛けるべく次々に猛攻撃を仕掛けていく。
美鈴に躱されながらも、一心不乱に叩きつけるように両方の爪を振るう。
その降りしきる刃の雨の中、美鈴は冷静に捌きながら不意にギルバートの手首を掴んだ。
「ぐっ……」
「……荒いですね。ギルバートさん、一体何が貴方をそんな風にしたんですか?」
ギルバートの眼を覗き込みながら、美鈴はそう口にした。
彼女の眼は鋭い目つきとは裏腹にとても穏やかな光を放っており、冷静な言葉と共にそれを相手に向ける。
その瞳に自分の心を見透かされたように感じて、ギルバートは彼女の手を振り払って大きく後ろへと飛んだ。
「このぉ!」
ギルバートはいったん引くと即座に構えなおし、再び一直線に美鈴に突っ込んでいく。
小細工も何も無い、ただぶつかってくるだけの突進。しかしそれ故に、その一撃は十全の威力を持って相手にぶつかるものであった。
「ふっ!」
しかしそれを今度は、美鈴は避けることなく真正面から受け止めた。
体重を前にかけ、後ろに滑り衝撃を減らしながら相手を押しとどめる。
そして彼女はほぼダメージを受けることなく目の前の狼の突進を受け止め、相手の余力をそのまま利用して投げ飛ばした。
ギルバートは何とか空中で体勢を立て直し、受身を取った。
「ぐぅっ……」
「本当にらしくないですね。いつものギルバートさんなら、もっと冷静に機会をうかがい、適切な時に攻めてくるはずです。一体どうしたんですか?」
普段のギルバートとの違いを口にしながら、美鈴は相手の反応を待つ。
今のギルバートは異常なまでに力任せな攻撃を繰り返している。その行動からは、ある種の焦りや執着のようなものが見て取れたのだ。
その言葉を聞いて、ギルバートは数回大きく深呼吸をした後、首を大きく横に振った。
「……迷うな。俺は、まだ強くならなきゃいけないんだ!」
ギルバートはそう言うと、金色に光る珠を取り出して飲み込んだ。
群青の毛並みは見る見るうちに黄金に輝きだし、白刃のような爪はサファイアのような青色に変化していく。
そして、その瞳からは理性の光が消え、代わりに爛々と輝く青白い狂気の光があふれ始めた。
その姿を見て、美鈴はそっと瞳を閉じた。
「……ギルバートさん。それが、貴方を狂わせる原因ですか」
「フーッ……フーッ……」
美鈴は手を強く握り締め、静かにつぶやくようにそう口にする。
彼女の目の前にあるのは、力を求めそれに溺れた者の末路。
それが自分の友人の姿をしていることが、彼女にはとても我慢できなかった。
「さあ、かかってきなさい。貴方の目、覚まさせてあげます!」
美鈴の構えが変わる。
開かれた瞳は凪いだ海のような穏やかなものから炎のような激しさの光を放つものに変わり、今まで受けることを考えて遊ばせていた体がいつでも前に出られるように態勢を整える。
それは、明らかに攻勢に出る構えであった。
「オオオオオオオオオオオオオ!」
そんな彼女の動きを知ってか知らずか、ギルバートはあふれる力を思う存分に振るうべく飛び出していく。
先程の突進よりも遥かに素早いそれは、彗星のように黄金の尾を引きながら衝撃波を作り出していく。
「はあああぁ!」
その黄金の彗星に、美鈴は真正面から立ち向かっていく。
先程まだ余力を残した状態での突進を受けて大きく後ずさっていた彼女である。その行動は一見するとかなり無謀なものに見える。
しかし、彼女の眼はそうは言っていない。その眼には、絶対的な自信を感じさせる光が湛えられていた。
一瞬の交錯。
美鈴とギルバートは音も無くすれ違い、お互いの動きが止まる。
「……それが、貴方の望んだ力ですか? ギルバートさん」
「がはっ……」
そして美鈴の呟きと共に、ギルバートは静かに崩れ落ちた。
静かに残心を取る美鈴の身体には傷一つ無く、ギルバートの攻撃が掠ることもしなかったことを示している。
そんな彼女が振り返ると、ギルバートはまだ地面に倒れ伏していた。
「立ちなさい! 自分を狂わせてまで手にしたかったものは、その程度なんですか!?」
恫喝するような叫びが辺りに響き渡る。
ギルバートがその力に手を掛けるのに、相当な覚悟を持って望んだことは美鈴も感じ取っていた。
しかし、そうまでして手にした力に彼は溺れ、己を見失ってしまっている。
彼女の言葉は、それに対して発奮させるための言葉であった。
「グ、オオオオオ……」
その言葉を聞いたせいか、ギルバートはよろよろと立ち上がる。
その目に湛えられた光は獰猛さを増し、今の状況を否定するかのように輝いていた。
そんな彼に向かって、美鈴は静かに、一瞬で間合いを詰めていった。
「オオオオオオ!!」
自分の間合いに入った彼女に対して、ギルバートは自分の本能の赴くままにその右腕を振るった。
その腕は空気を切り裂き宝石のように青く光る三筋の光を描く。それは例えるのであれば、暴風を纏った稲光のように素早く、激しいものであった。
「……ふっ!」
それに対して、美鈴はひるむことなく前へと踏み出した。
その動きはとても柔らかく、風を受けてそよぐ柳のようにギルバートの攻撃をすり抜けていった。
暴風と化した黄金の狼の横を、紅いそよ風がふわりと駆け抜けていく。
それと同時に、ギルバートは自分の攻撃した勢いそのままに地面に倒れ、土煙を上げながら激しく転がった。
「があああああっ!」
自らを襲う痛みに、ギルバートは悶え苦しむ。
美鈴はすれ違い様に攻撃を加え、彼の膝の関節を外していたのであった。
そんな彼に、美鈴は改めて目を向ける。
「……本当に、逃げるなんてらしくもないですね。我を忘れることで、解決することなんて何もないのに」
「ぐっ、ぐぅぅぅ……」
歯を食いしばって痛みを耐え忍ぶギルバートに、美鈴はそう口にした。
彼女の眼には、我を忘れて暴れる彼の姿がまるで今の状況から逃げているようにしか見えなかったのだ。
「今のあなたは、誰にも勝てません。それどころか、勝負にすらなりません。今の貴方は、まるで溺れてもがく子供みたいなものです」
人狼の頭の上から、非情な言葉が降りてくる。
その言葉は、傷ついた少年の心を折るのに十分であった。
「ちくしょう……何でだよ……何で、勝てないんだよ……こうまでやって、何で……」
元の少年の姿に戻り、ギルバートは震えた声でそう呟いた。
その手は固く握り締められ、乾いた地面に一つ二つと涙のしずくを落としている。
彼の心は完全に砕けており、もはや戦うことなど出来ない様子であった。
そんな彼に、美鈴は続けて声をかける。
「ギルバートさん、それは貴方があまりに弱すぎるからです。いえ、弱くなってしまったというべきでしょうか」
「俺が……弱くなった?」
美鈴の言葉に、ギルバートは顔を上げることなくそう問い返す。
目の前の友人に涙でぬれた自分の顔を見せることなど、とても出来ないのだ。
その彼に、美鈴は構わず話を続ける。
「圧倒的な力があれば、どんなに技が優れていてもいずれは覆せなくなる。ええ、確かにその通りです。ですが今の貴方では、いくら力を得ようとも強くはなれません」
「……どういうことだ」
「心技体、と言う言葉が示すように、何事も一番最初に来るのは心なんです。どんなに優れた力と技を持っていても、心が乱れれば無意味です。今のギルバートさんは、その心が完全に駄目になってます」
「……心」
美鈴の言葉に、ギルバートは自分を再び省みようとする。
しかし、これまで投げかけられた言葉や負け続けた悔しさが交じり合い、冷静な思考が出来なかった。
すると、彼は目の前に相手がしゃがみこんでくるのを感じ取った。
「ギルバートさん。何があったのか、私に話してくれますか?」
「……なに?」
「貴方が仲間を守るために強くなろうとして努力していることは分かっています。でも、どうしてこんな危険を冒してまで力に執着しているのかが分からないんです。どうして、貴方は我を忘れるような恐ろしい力に手を出したのですか? 仲間を守るほかに、もっと大事な理由があるんじゃないですか?」
顔を上げたギルバートの眼を見ながら、美鈴はそう口にした。
そこに先程までの冷たさはなかった。その口から出てきたのは、純粋に彼を心配する優しい言葉であった。
「……それは…………」
しかし、ギルバートはそれに答えることが出来ない。
美鈴が聞きたいことは先程妖忌に話したことよりも、もっと踏み込んだものである。
それを言うことがあまりに惨めで情けなく感じられて、彼の意地やプライドが許さないのだ。
「……っ」
「無理はしないでください。あまり溜め込むと、銀月さんみたいになっちゃいますよ?」
そんな彼を、美鈴はそっと抱き寄せて耳元で囁いた。
それを聞いて、ギルバートは黙って考える。脳裏に浮かぶのは、自分の闇を一人で抱え込んでその闇の飲まれかけた友人の姿。
その彼が堕ちかけた深い闇が自分の目の前にあることを知らされて、ギルバートは静かに口を開いた。
「……怖いんだよ」
「怖い、ですか?」
「……今の俺じゃ、暴走した銀月には逆立ちしたって勝てない。けど、勝てるようにならないと……あいつは、きっといつか二度と帰ってこなくなる。だから、俺は強くならないと……」
ギルバートは自らの心境をそう話した。
そこには銀月という自分と最も近い仲間の一人を失ってしまうかもしれないという、その不確かではあるが大きな不安が彼の中にあった。
彼はその仲間をなんとしても引き止め、守るために更なる力を欲したのであった。
しかし次の瞬間、その彼の表情が苦悶の表情に染まる。
「だが、俺はこの間、この爪を魔理沙やアリスに向けた。親父の補助があってあの様だ。だから親父の補助がなくてもこの力を使えるようにしたくて、戦っても平気な奴と戦った……その結果がこれだ! 俺は誰にも勝てない! 仲間は傷つける! 俺は一体どうすりゃいいんだよ!」
震えた声での告白は、泣き叫ぶような問いかけへと変わる。
身につけた力はまるで役に立たず、それどころか仲間を守るために欲した力で、その守るべき仲間を傷つけるところであった。しかし、それでも彼はまだ強くならなければならないのだ。
ギルバートには、もう自分の何が間違っていて、どうすれば良いのかなど分からなくなっていたのであった。
「……そういうことですか……」
それを聞いて、美鈴は小さくそう呟いた。
彼女が思い出すのは、レミリアや咲夜から聞かされた暴走した銀月の話。
その姿を目の前の少年が見てなにを思ったかは、彼女にとって想像に難くなかった。
「今のギルバートさんは、すごく焦っています。たぶん、暴走した銀月さんを見て、その力に圧倒されたんでしょう。でも、だからと言って焦ってはいけません。第一、自分の力を恐れているようでは、強くなれるはずがないのですから」
「だから、どうしろって言うんだよ! 俺があいつに勝っていたのは力だ! こいつまで負けたら、俺はあいつに何も勝てなくなるんだぞ!?」
美鈴の言葉に、ギルバートは喚き散らすようにそう言い返した。
そこにあったのは、日頃から抱いていた、自分の好敵手に対する劣等感。普段抑圧されていたそれが、精神に入ったヒビから零れだしたのだ。
そして、それこそが彼をここまで追い詰めた原因であると、美鈴は確信した。
「ギルバートさん。それがいけないんです」
「なに……?」
「それが貴方の心の弱さ。貴方は相手に負けている部分があると、それを放棄してしまっているんです。本当は自分の方が勝っているかもしれないのに、勝手に勝てないと思い込んでしまう。だから、本当に勝てなくなってしまうんですよ」
「…………」
ギルバートは、美鈴の言葉を黙って聞き入れる。
しかし、彼にはその実感がなかった。何故なら、彼は普段相手より強いところで勝負するように心がけている。だからこそ、今回も銀月に勝つために力を磨いたのだ。
ところが、美鈴はそれを逃げだと言っているのだ。自分の方が勝っている部分で戦うことを常識としている彼にとって、それは理解しづらいものであったのだ。
そんな彼の様子に、美鈴は少し考えてから再び口を開いた。
「『俺は英雄より強い』。これは、貴方が萃香さんの拳を受け止めたときに言った言葉だって言います。正直、びっくりしましたよ。明らかに貴方よりも力の強い萃香さんのあの重たい攻撃を完全に受け止めきったって、萃香さん本人が言うんですから。あいつは絶対に強くなるって、べた褒めでした。銀月さんよりもずっと強い萃香さんに太鼓判をもらってるのに、何で銀月さんに勝てないと思うんですか?」
「あ……」
美鈴の言葉を聞いて、ギルバートは目の覚めるような感覚を覚えた。
彼は自分よりも遥かに力の強い鬼の四天王の攻撃を受け止めた時のことを思い出す。
あの時、自分はその攻撃に打ち負けるなどとは欠片も思っていなかった。力の差は歴然であったはずなのに、「人間ですら勝てるのだから人狼である自分が負けるはずがない」と、そう本気で思っていたのだ。
それを思い出した彼に、美鈴は抱きしめた手で彼の背中を優しく擦った。
「貴方は技量も速度も決して低くはありません。自分は銀月さんよりも強い、そう思っていれば必ず銀月さんにも勝てますよ。貴方が欲しがっている力も、自然と手に入っていくはずです。だって今使えるってことは、ギルバートさんは最初からそういう力を持ってたってことなんですから」
「けど、銀月はいつ暴走するか……」
「それこそ心配する必要はありませんね。貴方が劣等感すら覚えるあの人が、そんなにあっさり暴走するほど弱いと思いますか? それに、銀月さんは我を忘れていたんじゃなくて絶望して自暴自棄になって暴走していたって言う話です。貴方が本当にするべきことは力をつけることじゃない。銀月さんが自分自身に絶望しないように守ってあげることだと思います。ほら、焦ることなんてないでしょう?」
なおも不安を口にするギルバートに、美鈴はそう言い聞かせる。
その言葉は自分の仲間への大きな信頼の言葉であり、目の前の少年の成すべきことを指し示すものであった。
それを聞いて、ギルバートは憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべた。
「ふっ……サンキュ、美鈴。何だかすごくスッキリしたよ」
ギルバートはそう言いながら、美鈴の手の中から立ち上がる。
その青い瞳に先程までの迷いや苦悩はなくなっている。どうやら、美鈴は彼の問題を解決することが出来たようであった。
「……話は終わったかい?」
その瞬間、涼やかな少年の声が門の後ろから聞こえてきた。
その方向に眼を向けると、そこには鮮血の様に赤い執事服に身を包んだ黒髪の少年が立っていた。
そんな彼に、ギルバートは笑みを浮かべて手を上げた。
「よお、銀月。今ちょうど会いたかったところだぜ」
「はぁ……普段寝ているくせに、ギルバートの前じゃそんな感じなんだな、美鈴さん?」
ギルバートの言葉に軽く手を上げて返しながら、銀月は若干呆れ顔で美鈴を見やる。
その彼の言葉を聞いて、美鈴は少し慌てた様子で口を開いた。
「し、失礼な! 私だっていつも寝ているわけじゃ……」
「この一週間で、俺はその額に十五枚のタロットを刺したぞ? 咲夜さんも確か二十本ほどナイフを投げてたし」
「そ、それは……」
銀月の言葉を聞いて、美鈴は居心地が悪そうに縮こまった。
実際この平和ボケした門番は、友人の人狼の問題がなければ暢気に昼寝をしていたであろうことが明白なのであった。
そんな彼女の様子に、銀月は大きなため息と共に首を横に振った。
「まあいいや。今大事なのはこっちだ。目は覚めたかい、ギルバート?」
「ああ。ったく、俺がお前に負けているなんて飛んだ笑い話だったぜ。俺がお前に、負けるはずがないんだからな」
ギルバートはそう言いながら苦笑いを浮かべる。
そんな彼に、銀月も不敵に笑い返した。
「負けっぱなしだったくせによく言うよ。それで、今からそれを証明してみせるのかい?」
「へえ、良いのか? 今仕事中じゃないのか?」
「丁度休憩時間なんでね。時間ならあるのさ。さて、どうやらやる気みたいだしさっさと始めようか。君は、俺より強いんだろう?」
銀月はギルバートを挑発するようにそう口にし、収納札から鋼の槍を取り出した。
その様子からは戦いへの意欲が見て取れる。これまで不振に喘いでいた自分の好敵手がどう変わったのか、楽しみでしょうがないのだ。
「ああ、さっさと終わらせてやるよ」
そんな彼を前にして、ギルバートはそう言って眼を閉じ、赤い丸薬を呑む。
そして小さく深呼吸をすると、彼は小さな声で呟いた。
「……俺は英雄より強い……俺は銀月よりも、強い!」
その言葉は、自分の心に掛ける魔法であった。
心に残る不安を押し流すための自己暗示の言葉。自己催眠の魔力を含んだそれを口にすると、ギルバートは眼を開いた。
その眼を見て、銀月は笑みを浮かべる。
「……行くぞ!」
銀月はそう言うと、真っ直ぐにギルバートに向かって突き進み始めた。
一見、何の小細工も用いないただの最速の一手に見える攻撃。しかしその手首は柔らかく自由自在に動き、相手の受けづらいところを正確に貫くものであった。
その攻撃は月影から教わったものであり、ここ最近のギルバートを大いに悩ませてきた攻撃であった。
(絶対に、当たらねえ!)
まるで生きている蛇のように動き、敵の弱点に狙いを定めつつ飛んでくる槍。
ギルバートはその攻撃をしっかり見据えながら、自分の心に更に暗示を掛けながら迎え撃つ。
「……見えた!」
「うぐっ!?」
次の瞬間、群青の狼は鋼の蛇をすり抜け、真紅の執事は地面に倒れていた。
それはほんの一瞬、紙一重の攻防であった。銀月の槍はギルバートの右肩を掠めるだけにとどまり、ギルバートの手は銀月の腹に突き刺さっていたのだ。
「……何だ……俺、勝てるじゃねえかよ……」
ギルバートは不思議な感覚を覚えていた。
自らの心を強く持った瞬間、今まで見えていなかった銀月の技がまるで時間の流れが遅くなったかの様に少し遅くなって見えたような気がしたのだ。
もちろん、それはただの錯覚に過ぎないものである。だが、それは確かに彼に勝利の風を呼び込むものであった。
「……おお……?」
一方で、銀月も呆けた表情で仰向けに倒れていた。
当たると確信していた攻撃。それを、ギルバートは自分が思っているよりも素早く強く自分に踏み込むことで躱してきたのだ。
彼は、自らの対戦相手が自分の技に対する恐れが薄らいでいるのを感じ、笑みを浮かべた。
「くくっ、まだまだ。次行くぞ!」
銀月は素早く立ち上がると、大量の札を周囲にばら撒いた。
札の群れは敵を攻撃する蜂の群れのようにギルバートを飲み込もうと殺到し、彼の退路を断つように囲みこむ。
「喰らうかよ!」
それに対して、ギルバートは大きく手を振り上げて地面に振り下ろした。
その瞬間、轟音と共に黄金の竜巻が彼を中心に空に向かって伸びていき、自分の周りを飛び交う札を駆逐していった。
しかしその目の前に突然青い札が現れ、中から銀月が飛び出してきた。
「そらっ!」
銀月は銀色に光る札を手に、勢い良くギルバートの前に飛び出した。
あえて目の前から飛び出したのは耐久力の高く自分の手を知っている彼への奇襲は効果が薄いと考え、驚かせてから一気に畳み込むためであった。
「……へっ、止まって見えるぜ、銀月!」
「っ!?」
そんな彼を見て、ギルバートは笑みを浮かべた。
目の前に現れた青い札を見た瞬間に自分から踏み込み、相手の腕を潜り抜けて首を掴んで地面に引き倒したのだ。
「ハッ、チェックメイトだ、銀月」
抑え込んだ銀月に、ギルバートはそう言って笑う。
その眼にはもう迷いや焦りは感じられない。それどころか、以前よりもずっと力強く鮮やかな光が燈っていた。
その瞳を見て、銀月は嬉しそうに微笑んだ。
「……ふふっ、そうだよ。こうでなくちゃ君らしくない。これだからこそ、俺にも張り合いと言うものが持てるってもんさ」
その言葉からは、心の底からの安堵が感じられた。
彼は親友の異変を誰よりも早く感じ取り、ずっとそれに気を揉んでいたのだ。そして今、その心配は親友の心の霧が晴れると同時に消えていったのであった。
その表情を見て、ギルバートは不敵に笑った。
「言うじゃねえか。もう、お前には負けねえよ」
「ははっ……今度は俺が追いかける番か。待ってろよ、すぐに追いついてやる」
「追いつけるものなら追いついてみやがれ。追いつけないほどに突き放してやるよ」
二人はそう言って笑いあう。そこには、好敵手である前に親友であることがはっきりと見て取れるのであった。
そんな二人に、横から見ていた人物が話しかけた。
「うん、お互いにすっきりした様で何よりです。ここ最近、銀月さんも何だか元気なかったですしね」
「……え?」
「咲夜さんも言ってましたよ? ここ最近話しかけても気づいてくれないことが多くなったって。アリスさんに話をしたのだって、いったぁ!?」
次の瞬間、美鈴の額には『愚者』のタロットが突き刺さっていた。
そのカードの主である銀月は、薄ら笑いを浮かべながら美鈴に近づいた。
「美鈴さん? それ、内緒だって言いましたよね?」
「あっ!? そ、その……」
「イ・イ・マ・シ・タ・ヨ・ネ?」
「は、はいぃぃぃぃぃ!」
慌てる美鈴に銀月は笑顔でひたひたと近づいていく。
その口は三日月のように不気味に釣りあがっており、黒い瞳はわずかに翠っぽい光を放っている。
つまり、彼は大変ご立腹であった。
そんな彼に、美鈴は壁際まで追い詰められるのであった。
「覚悟は、良いですね?」
「ふ、ふぇ?」
銀月は青ざめた表情の美鈴の肩に手を置くと、その手に青い札を取り出した。
そして次の瞬間、彼は目の前の愚者を道連れに消え去っていた。
「……帰るか」
取り残されたギルバートは、若干呆れ顔でその場を後にするのであった。
なお、その後紅魔館の門番は翌日の朝までその任務に復帰できなくなったのは余談である。
「…………」
ギルバートは自宅の城の廊下を歩きながら、これまでの自分を思い返した。
自分は今まで必死に力を追い求めてきた。それは好敵手よりも優れている部分を延ばすことで、相手に勝とうとしていたからであった。
しかしよく考えてみれば、その好敵手である銀月はそうはしていなかった。彼は相手より優れている技を磨きながら、自分が勝てない力も伸ばそうと努力してきたのだ。
自分の得意分野をひたすらに伸ばそうとした自分と、自分の苦手な部分すらも相手に勝とうとした銀月。
それは言い換えれば、相手の得意分野から逃げている者と立ち向かう者との違いでもあった。
彼には、その差が心の強さとなって現れたように思えてきたのだ。
故に、ギルバートはとある場所に向かい、そのドアを叩いた。
「お入りくださいませ」
中から聞こえてきたのは、自分が普段から世話になっている老執事の声。
その声を聞くと、ギルバートはいつもと違う、若干緊張した面持ちでその中へと入った。
部屋の中はさっぱりとしていて、白を基調とした壁や床は綺麗に磨かれている。
濃紫の服を身に纏った老執事はその片隅にある古びた鎧の前に立っており、手入れをしていたのか傍らには愛用の剣が置かれていた。
「バーンズ、俺に剣を教えてくれ」
その口から出てきたのは、彼なりに考えて出した答えであった。
彼にとって、人間とは人狼よりはるかに弱く、昔ほどではないが嫌いなものである。その人間が編み出した剣術というものは、牙と爪を持つ彼にとって覚えるに値しないものであった。
だからこそ、彼はその技を極めようと思ったのだ。
彼は自分が大嫌いな人間が作り出した無意味な剣術を覚えることで、自分の心を鍛えようと考えたのだ。
そんな彼に、バーンズはキョトンとした表情で小首をかしげた。
「はて、人間の技は覚えないのではございませんでしたかな?」
「頼む。俺が奴を超えるために、奴を止めるためにどうしても要るんだ」
ギルバートはそう言いながら、バーンズの眼を直視する。
その眼には並々ならぬ決意があふれており、歴戦の猛者である騎士団長を唸らせるのに十分な力を持っていた。
「……良い眼ですな。決して自分のためだけではなく、大切なものを守るために強くなろうとするものの眼です。かしこまりました。このバーンズ、元騎士団長の名に懸けて貴方様を一流の騎士にして差し上げましょう」
「宜しく頼むぜ、団長」
バーンズの言葉に、ギルバートはそう言って答えるのであった。
その日の夕方、バーンズは事の報告を主に行うべく書斎に居た。
アルバートは里の住民の意見書に目を通しており、その返答を万年筆で書き上げているところであった。
「旦那様。これから私めがギルバート様に剣技を教えることになりました」
バーンズは端的に一つの結果をアルバートに告げる。
それを聞いた瞬間、アルバートは穏やかな笑みと共に筆をおいた。
「ふっ……変わったな、ギル」
「はっ?」
「正直、あいつがあの特訓で制御できるようになるとは思っていなかったし、その通りだった」
「どういうことでございましょう?」
アルバートの言葉に、バーンズは澄ました笑みを浮かべながらそう問い返す。
それを聞いて、アルバートも愉快そうに笑い返した。
「ふふっ、分かっているくせによく言う。人狼とは、己が精神で己が身を制するもの。力を得るためには、精神を鍛えるのが一番早いのだ。それを教えたのはバーンズ、お前なのだぞ?」
人狼とは元来、影響を受けやすい人間が月から送られる力を取り込んで変化し、力にまとわり付いた狂気によって狂うからこそ恐れられた魔物である。
つまり外からの力を吸収できる素質さえあれば、外の力だけで夜の王である吸血鬼にすら対抗できるだけの力を得る事が出来るのである。
しかしその反面、力と狂気が直結している人狼はその力の制御に強靭な精神を必要とするのであった。
現に、先の異変では太古の月の力だけでギルバートは黄金の狼になることは出来たが、精神が追いつかずに狂ってしまったのだ。
彼に必要だったのは力を使いこなす特訓ではなかった。彼に本当に必要だったのは、力の狂気に負けない精神を作ることであったのだ。
それを口にするアルバートに、バーンズは昔を思い出しながら笑った。
「ほっほっほ。それにしても、旦那様も相当な荒療治をなさる」
「そうでもせんと、あの人間嫌いはお前に弟子入りせんだろう。武術や精神修行というのは、力なき故に他を求めた人間の専売特許のようなものだからな」
「しかし、旦那様が女性に頼る手段を用いるとは思いませんでした。旦那様や私めが直接忠告すれば宜しかったのでは?」
「男には、男にしか分からないことがある。だからこそ、口に出来ないことや聞けないこともある。相手が女だからこそ、打ち明けられることや理解してくれることもあるものだ」
「では、魔理沙様やアリス様に頼めば良かったのではないでしょうか?」
「それは出来まい。あの二人はギルに近すぎる上に、その関係は対等だ。それではギルは意地を張って話そうとはしまいよ。もっとも、あの二人のうちのどちらかが私とジニほど近ければ、話は違うのだがね」
「不思議なものですな、男女の関係と言うものは」
「全くだ」
二人はそう言って頷きあう。
二人ともそれなりに長い時を生きているが、それでもまだまだ分からないことだらけなのだ。
しかし、それは不快なものではない。二人はその分からないものを楽しんでいるようにも見えた。
「ところで、ちょっといい、アル?」
「む、ジニか? 一体どうし……っ!?」
入り口から聞こえた声に眼を向けた瞬間、アルバートは凍りついた。
そこには、普段見慣れた薄紫色のアラビアンドレスを身に纏った褐色の肌の女性が立っていた。
しかしその周囲には大量の水晶の欠片が浮かんでおり、腰につけた黄金のランプからは紫色の煙が立ち上っていた。
その翡翠の瞳には静かな怒気が込められている。どうやら、何か気に食わないどころでは済まない事があったようである。
「ギルの一大事に、どうして私に相談してくれなかったの?」
「い、いや、それはだな……」
「私だって母親よ? 先に私に相談してくれても良かったんじゃないの?」
冷や汗を流すアルバートに、ジニはつかつかと詰め寄っていく。
腰のランプから出ている紫色の煙は空中で透明な水晶に変わり、その尖った部分をアルバートに向ける。
自分の子供が悩んでいることを知ってはいたのだが、自分の夫が自分に内緒で何かをしていたのが気に入らないようであった。
「お、お前が知ったらたぶん泣くと思ってだな……」
「泣くわけないでしょう! 自分の子供の一大事に、親が泣いていられますか!」
「む、むう……」
ジニの一喝に、アルバートは思いっきり気圧された。
自分が想像していたよりも、ずっと強い妻の姿がそこにはあったのだ。
「えいっ!」
「っ!?」
ジニが気合を一つ入れると、アルバートは突然現れた水晶の塊の中に座っていた机ごと閉じ込められてしまった。
そこには、逃げ出す隙など全くなかった。
「今度からは私にもちゃんと相談してね、アル。といっても、今は聞こえてないわね」
ジニはそう言うと、何事もなかったかのように部屋から立ち去っていった。
後には水晶に閉じ込められた領主と、その夫婦喧嘩を黙って見ていた老執事が残された。
「母は強し……あのジニ様も強くなられたものですな。いやはや全く、人の心は難しい」
バーンズはそう言うと、銀月からもらった収納札からのみと金槌を取り出した。
どうやらこの状態から主を救出するのも彼の仕事のようであった。
結局、アルバートが救出されたのは真夜中になってからであった。
やっと出来たよ……皆様、大変お待たせいたしました。
という訳で、ギルバートの苦悩はこれにて解決と相成りました。
どんなに強い人でも、メンタルが崩れれば弱いもの。今回の彼の問題は、まさにそこにあったわけです。
その原因の究明と解決を、美鈴にやってもらいました。魔法の言葉「そんなことしてると銀月みたいになりますよ?」
うちの美鈴はやるときゃやるのです。
そして最大の変化が、ギルバートが騎士道に入りました。
つまり、これからは人間形態でも銀月と平等に戦える手段を持つということになります。
さて、新しい世界へ踏み出した彼がどう変わっていくのやら。
では、ご意見ご感想お待ちしております。