銀の槍、偽りを払う
どこにあるのかをほとんどの者が知らないマヨヒガの玄関先。
そこには、青い垂の導師服を着た美しい黄金の九尾を持つ女性が立っていた。彼女は太陽のまぶしさに眼を細めながら、どこかそわそわした様子で上空を眺めていた。
すると、太陽を背にして銀色に輝く髪の青年が、少し急ぎ気味にやってきた。それを見て、待ち人の来訪に女性は華のような笑顔を浮かべた。
「……来たぞ、藍」
「待っていたよ。さあ、上がってくれ」
二人はそう言いあうと、並んで家の中へと入り目的地である中庭へと向かう。今日は戦闘訓練の日であり、将志はその教導に来ているのであった。
しばらく歩くと、将志は人気がないことに気が付いて藍に声をかけた。
「……他には誰も居ないのか?」
「紫様は銀月の様子見、橙はお前と入れ替わりで銀の霊峰へ遊びに行っているよ。つまり、私とお前の二人っきりと言うわけだ」
「……そうか。ならば、特に周囲の迷惑を気にする必要はないな」
「そう、色々とな」
将志の一言に、藍は意味ありげな妖しい笑みを浮かべてそう口にした。
そう言って流し目でこちらを見てくる藍に、将志は少し苦い表情を浮かべた。
「……その発言から、何か不穏な気配を感じるのは気のせいか?」
「ふふっ、私としてはそういう意味で取っても良いのだがな?」
ジト眼をくれる将志に、藍はそう言って身を寄せて尻尾を将志の腰に回す。
そんな藍に、将志は頭を抱えてため息をついた。
「……勘弁してくれ。とにかく、今日の訓練を始めるぞ」
「ああ。お手柔らかに頼むよ、将志」
将志の言葉に特に残念がる様子も見せず、藍は彼にくっついたまま中庭へと向かうのであった。
「……今日はここまでだ」
訓練が終わり、将志はそう言って槍を収める。彼は息を荒げる様子もなく、また着衣の乱れもそう大きなものではなかった。
その一方で、その相手をしていた藍は縁側に座り込み、大きく深呼吸をして息を整えていた。その着衣はやや乱れており、激しい動きを繰り返したであろうことが見て取れた。
どうやら、二人の力量の差はまだまだ大きいようである。
「ふう……相変わらず一撃も当たらないな」
「……お前もなかなかに強いが、俺を倒すにはまだまだだ。まあ、将来的に俺に勝てる可能性はあるとだけ言っておこう」
「布団の上や風呂場では勝てるのだがな……」
藍はポツリと、将志に向かってそう言い放つ。
それを聞いた瞬間、将志はがっくりと肩を落として顔を手で覆った。
「……お前はいきなり何を言い出すのだ……」
「なに、女の裸を見ただけでのぼせ上がるお前を思い出しただけだ」
「……勘弁してくれ……正直、そういうのはどうにも苦手だ」
「だが、はっきり言ってお前にはそういう欲が無さ過ぎる。元々が槍の付喪神だということを加味しても、お前には食欲と睡眠欲はあるし、体の機能も普通の生物と変わらない。だというのに、性欲だけがすっぽりと抜け落ちている。千年も付き合ってきてこれなのだから、正直私の女としての自尊心はズタズタだ。少しくらいは反応があったって良いだろうに」
顔を真っ赤にして頭を抱える将志に、藍はそう言って不満げな表情を浮かべる。
将志は槍を本体とした付喪神ではあるが、籠もった思念から作られた魂が人間と同等のものなので、他の生物と同じような生理現象が起きるのだ。それは、守るべき相手のためのもの。槍に込められた強烈な主人への思慕は、相手を抱きしめられる柔らかさと暖かみを将志に与えたのであった。
しかし、生物としての身体を与えられているにもかかわらず、まるで悟りを開いたかのように将志は性欲を見せないのだ。
千年以上アタックし続けている藍にしてみれば、女性として見られていないと感じても仕方が無いことなのである。
その心情を聞いて、将志は苦々しい表情を浮かべた。
「……それに関しては、俺は何も申し開きは出来んな……」
「思うのだが、よく考えてみたら私はお前に女として見られた覚えがあまり無いな」
「……そんなことは無いと思うのだが……」
「無いともさ。何故なら、将志にとって私は守るべき相手でしかないのだからな。穿った言い方をすれば、半分子ども扱いされているようなものだ。女はただ守られるだけの生物じゃないんだぞ?」
藍は更に将志に不満をぶつける。
将志は藍と一緒に居るときは、さりげなく彼女を守るように行動している。例えば、人波の中を通るときはさりげなく前に立って人避けの役割を果たしたり、曲がり角に誰かいないかなどをしっかり確認しながら歩いているのだ。
しかし、彼にはそれしか出来ていないのだ。彼のしている守る行為は、相手が別段誰であろうと変わる事はない。藍が求めているのは、例え恋人ではないとしても恋人のような触れあいや、女として愛されている幸福なのである。それを将志が与えられているとは、到底いえないのであった。
それを聞いて、将志は困り顔で藍の方を見た。
「……では、俺はどうすれば良かったのだ?」
「色々あるが、まずは私のことをもっとよく知ってほしい。そして、もっとお前のことを教えて欲しい」
藍は真剣な表情で、将志の黒耀の瞳を覗き込んだ。
しかし、当の本人はその発言の意味をよく理解できなかったようで、キョトンとした表情を浮かべた。
「……はて、藍は俺に常日頃自分のことを話していると思うぞ?」
「はぁ……将志、女はそんなに単純なものじゃないぞ? 女が口に出していることなんて、ほんの一部でしかない。話していない部分もあるし、本人も気付いていないことだってあるかもしれない。お前がまだ知らない私のこと、沢山あるんだぞ? その逆だってそうだ。何だかんだ言っても、男も結構隠し事は多い。男は見栄を張ったり面子を保つために隠し事をするんだ。むしろ事によっては女よりも多いかもしれないな」
「……俺はお前にそこまで隠し事をしているつもりはないのだが」
「だとしても、お前は隠すつもりはなくても私に話していないことが結構あるだろう。例えば、私はお前の趣味嗜好をほとんど知らない。お前はいつも私の行動にあわせて自分の行動を調節するばかりだ。お前は私の従者じゃない。私が望んでいるのは、対等の個人としての扱いと、素直な気持ちのぶつかりあいだ。お前は、無意識のうちに私を個人ではなく主人のような護衛対象に摩り替えているよ」
がっくりと肩を落として、藍は将志に自分が感じている将志の言動について語った。
将志は昔護衛の仕事をしていたときの癖で、相手の趣味嗜好に合わせて行動することが多い。つまり、それは相手に自分をさらけ出すことをしないと言うことでもある。人間に混じって仕事をしていた将志は、妖怪であることがばれないように自分を抑えて行動していたのだ。その癖が、今になってこのような悪影響を生み出したのであった。
その藍の指摘を聞いて、将志は納得して頷いた。
「……なるほど。つまり、もっとお前のことを見て、自分をさらけ出せと言っているのだな」
「そういうことだ。もしかしたら、お前が恋をするような切欠になるものが見つけられるかもしれないぞ?」
「……そうか」
将志はそう言うと、静かに考え込んだ。
彼の頭の中に浮かんだのは、自分の主のこと。自分は主のことを一人の個人として見れているだろうか、主に自分のことをどれだけ教えられていたか等を思い返す。
「……おい、将志。今、自分の主のことを考えただろう」
すると、藍がむっとした表情でそう言いながら、将志の顔を下から覗き込んだ。
それに気が付いて、将志は意識を彼女に戻した。
「……む?」
「む? じゃない。目の前に私がいるのに、他の女のことを考えるな。二人きりのときくらい、私のことを考えて欲しいな」
藍は将志の顔を掴み、しっかりと自分の方を向けて相手の目を覗き込む。その行為には、将志の主に対する嫉妬心がありありと表れていた。
「……すまん、迂闊だった。六花からもきつく言われていることだったが、失念していた」
藍の言葉を聞いて、将志はそう言いながら藍の目を見つめ返した。それは将志なりに相手のことを考えようとしての行為であった。
しかし、その一言を聞いて藍は脱力してかくっと肩を落とした。
「……なあ、将志。六花は実の兄をいったいどうしたいんだ? 間接的に刺殺したいのか?」
「……分からん。だが、女性を傷つけないような行動を教えられてはきたぞ?」
「私の目には、小説に出てくるような女誑しを作り上げたようにしか見えないけどな。今にして思えば、お前からの言葉は実に口説き文句が多い」
「……それはお前に口説かれる要素が多いのだろう。それだけ、お前が良い女だということだ。それとも、嫌だったか?」
将志は平然と相手を見ながら、自分の思ったことを素直に口にした。
その一言を聞いて、藍は少し呆然とした顔で将志のことを見る。そして頬を仄かに赤く染めて俯き、そっと将志に身を寄せた。
「……それが既に口説き文句だからな。特にお前の場合無理なく口に出来るから、それが本心だってすぐに分かる。だからなおのこと心に刺さるんだ。おまけに何の気もない不意打ちできたりするから、油断していると痛い目を見てしまう」
「……くっくっく、意識しているつもりもないが、藍のそういう表情が見られるのならそれも悪くないな」
「……馬鹿」
藍は少しふて腐れた表情で、将志と眼を合わせずにそう口にした。普段手玉にとっている相手にされた反撃が少し悔しいのだ。
そんな藍を見て、将志は楽しそうに笑う。将志も将志で、普段余裕のある笑みを崩さない藍の珍しい表情が見られて面白いのだ。
しばしの間、二人は身を寄せ合ったまま黙って過ごす。藍は将志に寄りかかるようにしており、将志はそれを受け止める形である。
その穏やかな静寂の後、藍がぽつりと口を開いた。
「将志……私はな、最近一つ思うことがあるんだ」
「……何だ?」
「お前の主に、愛梨に、静葉……私達はお前を巡って四つ巴の争いをしているな」
「……俺としてはどうしてそうなったのか甚だ疑問なのだが……確かにそうなっているな」
話の内容とは裏腹に、藍はとても穏やかな、まどろんでいるかのような声で将志にそう話す。
それを聞いて、将志は少し苦い表情でそう口にした。どうやら、本当にどうして自分を巡って取り合いになっているのか分からないようである。
そんな将志に、藍は少しジトッとした視線を送る。
「……自覚はあるのか」
「……無い訳がないだろう……揃いも揃って俺に口付けをしてくるのだから、どう贔屓目に見ても大きな好意を持たれているのは分かる」
「まあ、それもそうだな。それで、その争いの中で思うことがあってな……この勝負、もはや順位などどうでも良いと」
ため息混じりに口にされた将志の言葉を聞いて、藍は納得して頷きながらそう口にする。その言葉は、とても楽しそうな、晴れやかなものであった。
それを聞いて、将志は意外なものを見たといった表情で藍を見やった。
「……お前らしくないな、藍。愛梨にあれだけ対抗心を燃やしておきながら、どうしてそんなことを言う?」
「もちろん、こんなことを言ったからといって身を引くわけではない。だがその順位がどうであれ、私はお前を愛して、愛されてさえいれば良いんだ」
藍はそう言う言いながら、将志の背中にそっと手を回し、優しく抱きしめた。
それに対して、将志は藍の肩に軽く手を置き、真剣な表情で彼女の眼を見つめだした。
「……藍。本当にどうしたのだ?」
「……すまない。ここ最近、お前は銀月に係りっぱなしだっただろう? そのせいか、一人でお前のことを考える時間が増えてしまってな……少し、淋しくなってしまったみたいだ」
藍は少し震えた声でそう言うと、将志を抱く腕に力を込めた。
近頃の将志は、息子である銀月を過剰なまでに気を掛けていた。それは誰の目から見ても異常であり、将志自身も主本人を差し置いて相談するほど気に掛けていたのだ。
自らがもっとも敬愛する主ですらこの有様なのだから、彼女よりも遠い位置にいる藍のことなどほとんど考えられていない。藍はそれを淋しく思いながらも、目まぐるしい日々を過ごしている将志を思って口にしなかったのだ。
しかし、それは彼女を自分でも驚くほどに苛んでいたようであった。
「……主にも言われたよ。銀月を気にかけすぎるとな。そのせいで、どうやら周囲のことがないがしろになってしまっていたらしい」
「全くだ。これは一つ埋め合わせをしてもらわないとな」
「……では、お前は俺に何を望む? もしくは、俺をどうしたい?」
「叶うのならば、ほんの一度で良い。お前からの、唇への口付けが欲しい」
藍は将志の眼を見つめ返して、そう口にした。その視線は熱っぽく、切なげな表情を浮かべている。
その一方で、将志は眼を閉じて小さくため息をついた。
「……俺からの口付け、か……」
「お前のことだ、どうせ一番愛する人にしか口付けをしてはいけないと思っているのだろう。ああ、それならそれが一番だ。それにその方が一途なお前らしくて良い。だが、それは私だって同じなんだ。その返事がないというのは、とても切ないんだ」
「……だが、その返事になるような感情など、俺には分からんぞ?」
藍の言葉に、将志はそう言って答える。
主人への忠誠に見られるように、将志はとても真面目で一途な性格である。それ故に、彼は与えられる愛情に精一杯こたえたいのだが、残念ながら彼はそれに値する感情が分からない。更に恋愛感情は一人に持つものだと思っているその思考が、恋人への愛情表現であると思っている唇へのキスを躊躇わせているのだ。
そんな彼の心情を察して、藍は小さく笑みを浮かべた。
「ふふっ……こう言っては何だが、お前の感性は実に乙女らしいな」
「……いきなり何を言い出すんだ、お前は」
「心を籠めた口付け、確かにそれが最高だ。だが、よく考えてみろ。そもそも口付け自体が相手への好意を示す動作だろう? お前がいつもするような頬や額にするのと唇にするのとで、何の違いがある?」
「……それは、そうだが……では、何故唇を指定してきた?」
「それはあれだ、唇にしてくれないとこちらから返事ができないからな。本当は、私がお前に口づけをするときも返事が欲しいんだぞ?」
「……そうか……」
藍の言葉を無理やり納得し、将志は一つ深呼吸をすると正面から彼女の肩を掴み、ゆっくりと彼女に顔を近づけていく。
段々と近づきあうお互いの唇。相手の吐息が唇に掛かり、甘くじれったい刺激を脳に伝える。
「…………」
「…………」
期待に胸が高鳴り息が少し荒くなっている藍と、緊張で鼓動が早くなり呼吸が乱れる将志。
お互いに乱れている呼吸は、藍に更なる高揚を、将志には更なる緊張をもたらしていた。
そして、二人の距離がゼロになった。
「……すまん、やっぱり出来ん……」
将志は申しわけなさそうにそう口にした。彼が口付けたのは口の脇。普段彼が愛情表現を求められたときの、精一杯の譲歩案であった。
どうやら、唇への口付けは彼にとってはそれほど特別なものの様である。
その反応に、藍は苦笑いと共に、残念そうにため息をついた。
「やれやれ……まあ、お前の性格から考えればこの結果は見えていたな」
「……だが、俺の不始末で苦しい思いをさせるのは不本意だ。何か代わりに出来ることはないか?」
普段より少し早口で、将志は藍にそう告げる。お詫びとして要望を聞いたのにそれを達成できず、申し訳なさを感じると共に焦りを覚えているのだ。
「ふふっ、お前は本当に損な性格をしているな。私には、この苦しさだって楽しいのに」
そんな彼の様子を見て、藍は柔らかな微笑みを浮かべた。その様子はとても楽しそうで、心の底から幸せそうであった。
将志はそれを見て、眼を伏せてため息をついた。
「……やはり、恋心は分からんな……」
「お前も恋をしてみれば分かるさ。それじゃあ、埋め合わせに少し逢引と行こうじゃないか」
「……それで済むのならおやすい御用だ」
二人はそう言いあうと、ゆっくりと空を飛んで人里へと向かう。
そして人里に着くと、早速将志が藍に声をかけた。
「……ところで藍。人里に出て来たは良いが、これからどうする?」
「特に何も考えてないな。まあ、見回りがてら散歩する程度で良いさ」
将志の質問に、藍は微笑みながらそう答えた。
それに対して、将志は困った表情を浮かべる。
「……本当にそれで良いのか?」
「いいともさ。今はそれだけで十分だ」
困り顔の将志に、藍は改めてそう言いつける。
将志は何か考え込んでいたが、しばらくすると諦めて首を横に振った。
「……そうか……何かあったら言ってくれ」
「ああ、そうさせてもらうよ」
二人はそれからしばらく人里の中を歩いて回った。
将志は途中で休憩場所を探したり、藍の様子に気を配ったりしていたが、当の彼女はそれを全く気にすることなく、楽しそうに散歩を楽しむのであった。
そして一刻の後、二人はマヨヒガへと戻ってきたのであった。
「……結局、本当にただ散歩しただけだったのだが……本当にこれでよかったのか?」
将志はどことなく不安げに、藍にそう尋ねた。元はと言えば自分が藍を放っておいた事が原因なので何とか挽回しようと画策していたのだが、その全てが空振りに終わってかなり焦っているのであった。
そんな彼に、藍はとても満足そうな表情で頷いた。
「ああ。私の目的は十分に達成されたからな」
「……目的?」
「何もさせてもらえなくて困り顔をしているお前が見れたからな」
怪訝な表情を浮かべる将志に、藍はにこやかに笑いながらそう口にした。要するに、藍は自分のために色々尽くそうとする将志をからかって遊んでいたのであった。
それを知って、将志は頭を抱えてため息をついた。
「……それが目的か……」
「さて、今度はこっちが色々する番だな」
藍はおもむろにそう言うと将志の右腕に抱きつき、尻尾を将志の腰に巻きつけてくっつくと、尻尾の先を将志の小豆色の胴着の懐へと滑り込ませた。
自分の素肌に触れる滑らかな毛並みの感触に、将志は小さく身じろぎした。
「……待て、何をするつもりだ」
「実はな、私もかなり我慢していたんだ。最初から何もさせないつもりだったとはいえ、お前からの行動はどれもこれも積極性が足りない。少しは強引なところがあっても良いと思うぞ、お前は」
藍はじれったさをにじませた切ない声で、将志の胴着の中に手を入れる。将志とのふれあいを求めている彼女は、もはや服の上から触るだけでは物足りない様子であった。
そんな彼女の様子に、将志は小さくため息をついた。
「……そうか……」
「むっ……?」
将志は突如として藍の顎を指で持ち上げ、口角同士が触れ合うような位置に口づけをした。
その将志らしからぬ少し強引な行為を受けて、藍は面食らった表情を浮かべて将志の顔を見やる。その表情を見て、将志はしたり顔で笑った。
「……くくっ……そう言えば、お前にこれをするのは初めてだったな?」
「……ああ。不意打ちとはやってくれるじゃないか、将志。ああくそ、頬が緩んでしょうがない」
緩む頬を押さえながら、藍は嬉しそうに、それでいて少し悔しそうにそう口にした。
それを見て、将志はその想定外の喜びように首を傾げた。
「……普段あれだけ喰らいついてくるというのに、随分な喜びようだな?」
「馬鹿。頬とはいえ、お前からの口付けというのが嬉しいんだよ。それはそうと、一つ良いか?」
「……何だ?」
「『お前に』ってことは、他の連中には今までしていたということか?」
「……そうだが……」
「ほほう? で、誰としたというんだ? ん?」
将志の返答を聞いて、藍の眼が妖しく輝き、声色が変わる。
それを聞いて、将志は初めて自分が何か拙いことを仕出かしたことに気が付き、眼が泳ぎ始めた。
「……あー……それはだな……」
「ほう、お前の主と静葉、それに天魔だと? しかも、天魔との行為が一番多いんだな? なるほど、これは少しお話をしなければいけないな?」
「……友愛の意味だったのだが……」
「お前がそう思うのならばそうなのだろうな。お前の中ではな。だが、私にはお前がただの女誑しにしか見えないな」
藍はそう言いながら、将志の頬をチロチロと舐める。藍は妖術で見た将志の心の中に思い浮かんだ情景で、実は椿が一番将志からの口付けを受け取っていたことを知ったのだ。
実際のところ、将志が椿に対して口付けをしていたのはそれが一番効果的な仕返しであるからなのであって、藍が考えるような理由は全くないのだが、当然ながらそんなことを藍は知る由もない。
藍は目の前の不逞の輩をどうしてくれようかと考えながら、将志の服に手を掛ける。
「……そうか……ならばだ」
「っ!?」
将志はおもむろに藍の肩に手を掛けると、素早くその足を払ってそっと床に寝かせ、その上に覆いかぶさった。
普段は大人しい将志に押し倒されるというその想定外の状況に、藍の思考は完全に停止した。
その様子を見て、将志は興味深げな表情で微笑んだ。
「……なるほどな。お前も天魔と一緒か」
「な、何だ?」
「……なに、相手より優勢に立ったところにカウンターを加えると、反応が面白いと言うことだ」
「将志、お前どこでこんなこと覚えた?」
「……六花からだが? 積極的な相手は、急な反撃で驚かせると良いと言われたのでな」
驚き戸惑う藍の質問に、将志は楽しそうに答える。実は、将志はいつも藍にやられっぱなしなのを密かに気にしていたのだ。そこで、六花の助言を受けるに至ったのだ。
それに対して、藍の表情は呆気に取られたものから少し紅潮した嬉しそうなものへじわじわと変わっていった。
「ふふっ……確かに、良い一撃だったよ。それに積極的な将志は凄く新鮮だ。冷めたつもりなど全くないが、今日はいつもより熱が入りそうだ」
「……む……っ!?」
藍は横に転がって将志と上下関係を入れ替えると、やや強引に相手の唇を奪った。
唇を甘く噛み、舌を絡め、お互いの唾液を交換する。それは淋しかった心を満たそうとするような、ひたすらに相手を求めるような熱い口付けであった。
藍はしばらくして息が続かなくなるまでし続け、蕩けた表情で艶っぽい吐息を吐き出した。
「……はぁ……久々だな、こうして甘えるのは」
「……確かに。お互いに多忙な日々を送っているからな」
「お前は良いよ。私のほかにも、心の拠り所となる相手が何人か居るからな。だが、私にはお前しか居ないんだ。紫様もいるのだが、お前の代わりにはなれないよ」
藍は甘い声でそう言いながら、力を抜いて将志にしなだれかかる。
そんな彼女に、将志は小さく苦笑いを浮かべた。
「……そうか。ならば、今のうちに甘えておくが良い。お前の気持ちに応えてやる事はまだ出来んが、それくらいのことは出来る」
「……意地の悪いことを言うな、お前は……本当に酷い男だ」
「……藍?」
「私もな、早く答えが欲しいんだ。お前を想い続けて千年、そのままの私を受け止めてくれたお前の傍に居られたのは嬉しいことだ。だが、お前の心に触れられたと感じたことは一度も無いんだ。将志……私はいつまで待てば良いんだ?」
胸元から聞こえてくる拗ねた声に、将志は顔を上げて覗き込む。するとそこには、切なげな表情を浮かべた藍の顔があった。
彼女は自分の心を伝えることに努力をしてきた。しかし、その受け取り手は受け取る一方で、将志のほうから色々言ってくることはほとんどなかったのだ。
何故なら、将志には他にもう強力な支えがあるから。実務的な面では愛梨が、精神的な面では永琳という二つの大きな柱が彼を支えているのだ。その二人に頼れるために、将志は藍の前では常に余裕のある状態で彼女のために行動することができるのだ。
それは彼女に自分の弱い部分や本心を隠すことになり、藍が知りたがっている部分をさらけ出すことがないということなのであった。
そして何よりも、将志から自分の気持ちに対する明確な返答が一切ないのだ。それらのことが、藍をことさらに焦らせていた。
そんな彼女に、将志は首をゆっくりと横に振った。
「……それは、俺にも分からない。何故なら、俺も俺自身の心が分からないからだ」
「またその話か……いつも思うんだが、それは一体どういうことだ? いい加減はぐらかさないで教えてくれないか?」
藍は少しいらだった様子で将志にそう問いかける。
彼女は以前より将志から自分の心がよく分からないとは聞かされていた。しかし藍が問い詰めるたびに、将志は口ごもってしまって何も言わなくなってしまうのだ。
彼女の問いかけに、またしても将志の顔が曇る。その表情は、何かを恐れているようにも見えた。
しかし、将志は大きく深呼吸をすると、緊張した様子で口を開いた。
「……お前とももう長い付き合いだから言おう。知ってのとおり、俺は長い間本当の心を失っていた」
「ああ、それは知っている。だから、自分の気持ちが分からないのか?」
「……分からないのではない。怖いのだ」
「怖い? どういうことだ?」
将志の言葉に、藍はそう言って怪訝な表情を浮かべる。
そんな彼女を様子の見て、将志は再び大きく深呼吸をし、覚悟を決めた表情で口を開いた。
「……藍。今だから正直に、嫌われることを承知で真実を話そう。俺は、お前にとある打算をもって接触したのだ」
「……打算だって?」
不安げな将志の言葉を聞いて、藍はの表情が曇る。
自分が今まで知らなかった事実、それが将志の口から出てくることに彼女も不安を感じるのだった。
そんな彼女に対して、将志は重い口を開いた。
「……白面金毛九尾の狐ほどの者を味方につけることが出来れば、主を守る手段が増え、より確実に守り通せるという打算があったのだ」
「ほう。主のことしか頭に無かったお前らしい動機だな。それで?」
藍は身構えた様子で、将志の次の言葉を待つ。
しかし、それに対する将志の反応は呆気に取られたものであった。
「……それだけか?」
「ん?」
「……もっと色々恨み節を言われると思っていたのだが……」
キョトンとした様子の藍に、将志はおずおずとそう口にする。
彼にとって、藍に接触をした動機は非常に不誠実なものであり、重大な裏切り行為であった。それ故に、彼はこのことを話すために絶交される覚悟をしなければならなかったのだ。
しかしその一言を聞いて、藍はがくっと肩を落として大きくため息をついた。
「はぁ……他の不純な動機だったら色々言うこともあるが、お前が主のことばかり考えているのは今更だろう。それに、今はそうじゃないんだろう? でないと、こういった告白など出来はすまい」
「……まあ、そうだが……」
「なら、それで良いじゃないか。それで、お前は何が怖いんだ?」
「……ああ……俺は『あらゆるものを貫く程度の能力』で、ただ主を守るだけの贋物の心を作り上げてしまっていた。俺は、この心が本物なのか、また贋物の心なのではないか、主を守るために藍を踏み台にしていないか。それが怖いのだ」
将志は自分の今の心の状態を、簡単にまとめて口にした。それは彼自身も気付いていないが、永琳にしか相談していないことであった。
それを聞いて、藍はとても不思議そうな表情で将志を見やった。
「……ふむ、そういうことか……お前、何で自分の心に自信が持てないんだ?」
「……その理由はもう話しただろう?」
「では、お前のその恐怖を感じる心は贋物なのか? お前はそれには素直に従っているのに、何故他の部分に自信が持てないんだ?」
藍は自分が感じた疑問を、ストレートに将志にぶつけた。
その言葉を聞いて、将志は眼を見開いて口ごもった。彼はそんなことなど考えもしていなかったのだ。
「……それは……」
「まあ、それを責めるのは酷か。私はお前じゃないから、自分の心に実感が持てないという感覚が分からない。だが、心とはそうやって考えるものか?」
「……っ!」
藍の言葉に、将志は強い衝撃を受けた。その言葉は、かつて自分が変わる切欠となった、輝夜の言葉によく似ていたのだ。
そんな彼に、藍は更に言葉を重ねる。
「考えるというのは、理性的な行為だ。そして、理性と感情とは相反するものだ。感情なんていうものは、そのときにそう感じた、それが全てなんだ。だからこれも言い切ってしまおう。贋物の心など存在しない」
「……待て。俺は確かに自分の能力で……」
「贋物の心を作り出したと言いたいのだろう? それは違う。お前の言う贋物の心も、確かにお前の本心だ。もっとも、それは己の感情を能力で殺した仮面のような、悲しいほどに一途なものだったがな」
藍はあえて冷徹に、将志がもっとも認めたくないであろう事実を突きつけた。
その言葉を聞いて、将志は愕然とした。
「……あの心が、俺の本心だと……?」
「そうだ。仮にその心が贋物だとして、お前が主を守ろうとしたことまで贋物だったのか? そもそも、その贋物の心とやらを作り出したのは何だ?」
藍は真っ直ぐに将志を見つめながら、少し責めるようにそう口にした。彼が自分の感情を殺してまで主を守ろうとしていた事実、それを贋物だと本人が言っていることが我慢ならなかったのだ。
その言葉を聞いて、将志は眼を閉じて過去を思い返した。呼び起こされるのは、はるか昔の月夜。朽ち果てた発射台で空に輝く月に誓った誓い。それこそがあの仮面の心を生み出した。
だが、そこには確かに己の心があった。本来の感情を殺し、誓いと使命感という仮面にとらわれていた心であったが、主を守るというその貫き通した意思だけは、間違いなく本物であった。
それに気が付くと、将志は感慨深げに頷いた。
「……そうか……あの心を作り出したのは、他でもない俺だったのだな……」
「だろう? お前の心に偽りの部分などない。心は変わりこそすれ、贋物に成り代わることはないんだ。だからお前はもっと自分の心に自信を持て。自分が確かに感じたもの、それがお前の心の動きなんだからな」
「……だが、藍。一つ良いか?」
「ん? 何だ?」
「……肝心の恋心と言うのが、俺には全くわからんのだが」
将志は渋い表情でそう口にする。
それに対して、藍は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それはまあ、おいおい探していけば良いさ。それを誰に抱くかは知らないが、それからが私達の勝負なのかもしれないからな」
「……しかし、主でもしなかった心の講釈を、お前から聞くとは思わなかったな」
将志は藍に対して、そう言って嬉しそうに笑う。全く違う視点からの意見を聞くことが出来て、何か新しい切欠が掴めそうなのだ。
「ふふっ、私は考えの一つをお前に話しただけに過ぎないさ。ただ、お前は少々難しく考えすぎる。真面目なのは良いことだが、それでは疲れてしまうぞ?」
「……善処しよう」
そんな彼の言葉に、藍もそう言って笑顔を浮かべる。
彼が最も頼りにしているであろう主が手を出せなかった部分に手を伸ばせたのが嬉しかったのだ。
彼の返事を受け取ると、藍は立ち上がって将志の手を引いて立ち上がらせた。
「さて、話の区切りもついたところで、思う存分甘えさせてもらうぞ。じゃあ、私の部屋へ行こうか」
藍は将志の手を引きながら、やや急ぎ足で自室へと向かう。
するとそこには、準備万端といった状態でセミダブルの布団が敷かれていた。
その様子を見て、将志はやや引きつった表情で顔を手で覆った。
「……そういえば、どうしてお前の部屋に行くといつも布団が敷いてあるのだ? 万年床などをお前がするとは思えないのだが」
「ああ、それはお前が来ると分かっている時点で敷いてあるんだ」
「……それはまた何故だ?」
「こうしておけば、思う存分甘えて足腰が立たなくなっても問題はないだろう?」
藍はそう言いながら将志の腕に抱きつき、布団の上へと引っ張っていく。どうやら逃がすつもりは毛頭ないようである。
そんな彼女に、将志は小さく息を呑んだ。
「……つまり、毎度毎度足腰が立たなくなるほど甘えるつもりなのか」
「当然だろう。恋してる相手との口付けは息も止まるほど、触れあいは脳髄が痺れるほどに甘いんだ。そんなものを繰り返していたら、足腰も立たなくなるさ」
「……その感覚が分からんな……」
「お前はいつも平常心だからな。だが、一念岩をも徹すという言葉もあることだ。お前の岩のような理性も、攻め続ければ壊せるかもしれないな」
藍はそう言いながら将志の手を引いて布団の上に座らせ、自分もその上に座る。
その明らかに自分が苦手な方向に行きそうな状態に、将志の表情がいたたまれないものになっていく。
「……成程、それでいつも……その、なんだ……少々過激なことまでしてきている訳だな」
「まあ、そういうことだ。もっとも、お前がちっとも靡いてくれないせいで、少し自信がなくなりそうだがな」
「……そ、そうか……では、お前の一念を少しでも無駄にしないように努力するとしよう」
将志は少し上ずった声でそう口にした。
すると、藍はため息と共に首を横に振った。
「やれやれ……」
「……む? 何かおかしなことを言ったか?」
「さっきも言ったが、努力をしたりするのは違うことだぞ? 心ばかりは自分で努力してもどうにもならないものだからな。それに私に恋をしようと努力されるのは、正直むなしいものだぞ?」
「……いや、そうではない」
「ほう? じゃあ、どういうことだ?」
「……途中でのぼせ上がってしまわないように、と言うことだ」
将志はいっぱいいっぱいの表情で、思わずそう口走った。今まで藍に申し訳なく思っていた部分もあり、また今回彼女に少しばかり恩が出来たために何とか返そうとしたのだ。
その言葉を聞いて藍は俯き、肩が震えだした。
「くっ……」
「……今度は何だと言うのだ」
「くくくっ……はぁ……お前は本当に真面目だな。だがまあ、確かに女の裸を見てのぼせ上がるようでは男として問題だし、お前が先にへたってしまってはつまらないな」
「……ほっとけ……っ!?」
笑いをこらえる藍に、ふて腐れた表情でそう口にする将志。
しかし次の瞬間、彼は彼女に勢いよく押し倒された。将志はとっさに気を失わないように受身を取るが、体勢を崩して結果的に完全に藍に主導権を握られる形になってしまった。
「いいや、放っておかない。と言うより、今の会話が私に火を点けたって分かってないだろう?」
「……どういうことだ?」
「私と触れ合ってのぼせないように努力する……そんな言葉、誘っているのと変わらないぞ?」
爛々と光る瞳で、息を荒げながら藍はそう口にする。その様子はかなりの興奮状態にあり、今にも暴れだしそうな様子であった。
そんな彼女の様子に、将志は一つ深呼吸をして、赤を通り越して若干青くなりながら口を開いた。
「……ふと思ったのだが、俺は何か見当違いのことを口にしていないか? 恋愛感情とは、特に過剰な触れ合いがなくとも……っ」
藍は将志の言葉を奪い去るように唇を吸い、思考を押し流すかのように自分の唾液を将志の口の中に流し込む。その行為は今この場では自分のものだと言う感覚を藍にもたらし、彼女の心は熱くこみ上げるもので満たされていった。
彼女はその行為を何度も何度も繰り返し、将志が反論を諦めるまで続けたのであった。
「ん……はっ、ちゅむ……はぁ……恋愛感情が分からない奴に、そんな講釈をされても説得力がないな。恋した相手とはずっと話していたいし、触れ合っていたいし、更に言えば一つになってしまいたい。少なくとも、これが私の恋愛感情だ。それとも、嫌なのか?」
熱のこもった吐息と愛しさに潤んだ瞳で藍はそう問いかける。それは問いかけとは言うものの、嫌とでも言おうものならば二度とそう言えない様にさせてしまおうという意思が見え隠れするものであった。
そんな彼女に気おされて、ただでさえ自分の苦手な状況に置かれていた将志はしどろもどろに返答をした。
「……いや、そういうわけではないのだが……」
「じゃあ、どういうことだ?」
「……正直、情けない話だが……少し怖いのだ。触れ合うこと自体はそこまででもないのだが、藍の場合はその……ともすれば裸同然の状態にもなるだろう?」
「それは単に恥ずかしいだけじゃないのか?」
「……それもあるが……本当に怖いのは、そこまで出来るお前の好意なのだ。俺はお前にその好意を返すことがまだ出来ずにいるが、それでもお前の俺に対する好意は尽きていない。お前はきっと、これからも俺に無償の愛をくれるだろう。だが、俺はそれを受け取ることしか出来ない。それが俺にはつらいし、怖いのだ」
将志は必死に言葉を並べ立てて、何とか藍を宥めようとする。
しかし、その言葉を聞いて藍は微笑ましいものを見るようにニヤニヤと笑った。
「……ははぁ……」
「……な、なんだ?」
「上手く言葉を並べて誤魔化そうとしても無駄だ。お前、本当はただ恥ずかしいだけだろう?」
藍はそう言いながら将志の服の中に手を入れ、指先で胸をつついた。
それを受けて将志は一瞬静止し、大きく深呼吸をした。しかし動揺が隠しきれておらず、額には薄く冷や汗が浮かんでいた。
「……ど、どうしてそんなことが……」
「ふふふ……私の愛情が怖いのなら、絶対にのぼせ上がったりはしないさ。だってそうだろう? のぼせ上がるってことは、他の事なんて考えられないほど相手のことを意識しているってことだ。もちろん、性的な意味でな」
「……な、何を馬鹿な……」
「ああ、嘘ではないと言いたいんだろう? まあ、確かに嘘ではないんだろうな。だが、それは今考えて自分なりに納得がいった理由だ。だってそうだろう? 本当にそうだったなら、私は当の昔に同じことを言われているはずなのだからな」
「うぐっ……」
将志の胸元を弄りながら、藍は次々と言葉で畳み掛けていく。どうやら、もっともらしいことを並べても彼女の眼は誤魔化せなかったようである。
言葉をつまらせた将志に、藍は妖艶で悪戯な笑みを浮かべた。
「それに……お前が顔を赤くするのはこういう時だ」
藍はそう言うと、自分の服についている青い垂を取り払い、襟元を止めている帯を取って胸元をひらいた。白く透き通った素肌の肩が露出し、胸元のラインがはっきりと見て取れる格好になる。
そんな彼女を見て、将志は慌てた様子でそれから目を背けた。
「お、おい……」
「ほら、お前は私が服をはだけた時点でこれだ。触れ合いなど、全く関係がない」
「だ、だが……うむっ!?」
なおも言い訳を重ねようとする将志を、藍は口付けによって黙らせて口元に胸を押し当てて口を塞いだ。
「……うるさいな。これ以上言い訳はさせないぞ。のぼせ上がるということは、私の身体にそれなりの魅力を……つまり、女を感じているということだ。なら、それを利用しない手は無いだろう? 今は気恥ずかしさが勝っていても、そのうち欲情のほうが勝ってきてもおかしくはないんだからな」
抜け出そうともがく将志に、藍は静かに威圧するような声色でそう言い放った。彼女も彼女で、他のライバル達を何とか出し抜こうと必死なのだ。
それを何となく察知した将志は、心の中で般若心経を唱えて精神を落ち着かせながら、何とか藍の拘束を抜け出して口を開いた。
この男、自分が神道の神であるにもかかわらず仏教の助けを借りている辺り、全く余裕がない。
「……そう焦らずとも、お前には主にも愛梨にも静葉にも無い魅力があると思うが……」
「ほう? それはなんだ?」
「……まず、俺が知る中では一番相手の心の機微が分かる。他の三人もそれが出来ないとは言わないが、お前ほど上手く相手の心を操ることは出来ないだろう。それから、話していて苦労しないのも一番だ。主は良くも悪くも学者肌で少々話のレベルが高いし、愛梨は楽しくはあるが少々はしゃぎすぎる部分もある。静葉は落ち着けるが、お互いに無言になってしまう故にこちらも少し気を使うのだ。その点お前は話が分かりやすいし、落ち着いて話が出来るから疲れることがない。ただ話をするのであれば、お前ほど良い相手はなかなか居ないさ」
将志は落ち着いた口調で、藍の質問に答えていく。どうやら、自分の能力を使っていったんは現状を忘れることに成功したようである。
それを聞いて、藍は驚きの表情を浮かべた。
「……驚いたな。まさか、お前が主を差し置いて私を評価するなんて」
「……主とて完璧ではない。他者に劣る部分があって然るべきであろう。もちろん、その逆も然りだ」
「それでもだ。主が一番であるはずのお前が、その主の欠点を私に話すということが何よりも驚きだ」
藍はあふれ出る嬉しさを隠そうともせず、そう言って微笑む。
彼女にとって将志の主に勝っている点があることよりも、将志が今まで話してくれなかったことを次々に話してくれることの方が嬉しいのだ。
「……気の知れた仲であろう。これくらいのことは話もするさ。それにしても危険な女だな、お前は。普段は喋らないようなことを、つい喋ってしまう」
それに対して、将志は小さくため息をついてそう答えた。将志にとって、これらのことは何てことのない会話のつもりだったのだ。
しかし、今まで隠していたことを告白できたからか、自分でも気付かぬうちに饒舌になっていたのだった。
その何の気のない言葉を聞いて、藍は表情を消して俯いた。
「お前って奴は……本当に女誑しだな……」
藍はそう言いながら、少し怒った表情で将志を見やる。
その表情を見て、将志は自分が何か悪いことをしたのかと慌て始めた。
「……ら、藍?」
「私がお前の嫌いな点を言ってやる。誰にでも優しくしすぎる、好意の返し方を知らなさ過ぎる、そして余計な一言が多すぎる」
「……んっ」
藍はそう言うと、また将志の唇に自分のものを重ねる。
今度は優しく触れ合うような、慈しみに溢れた口付けであった。
「はぁ……お陰で私は切なくて、お前に溺れていく一方だ。だから、今度は私がお前を溺れさせてやる」
藍はじれったさをにじませた切ない声で、将志にそう告げた。
退路は無し、体勢は自分の圧倒的不利、おまけにいつもよりも熱い情熱を宿した藍の瞳と、情欲があふれ出ている甘い吐息。
……ああ、今日は泊まり確定だな。
そんな現実逃避にも似たことを考えながら、将志は諦観の念をこめた大きなため息をついた。
「……手加減くらいはしてくれ……」
「嫌だね。今日の私はお前が愛しくてしょうがないんだ。それも、これ以上ないくらいにな」
かくして、将志の補給のない防衛戦が始まった。
翌日、将志は顔や首筋、胸元から背中までキスマークを付けられ、上半身裸で轟沈しているのを橙に発見されたのであった。
その下手人は、精一杯の反撃でつけられた頬のキスマークを撫でながら、とても満足そうな表情で昼食を作っていたという。
結構絡んでいるようで、実は意外と主役になっていなかった藍様のターンでした。
えーりんに解決できなかった部分を、今回ズバッと解決していただきました。
永琳が今まで将志の心の問題を解決できなかったのは、将志が抱える問題の矛盾を考えたことが無いからです。
彼女の場合、将志の不安を取り除きたいあまりに精神科医のような応対をしていました。だから、将志の言葉を否定するようなことを口にしていなかったのです。
一方で、藍は永琳に比べればずっと多くの人物の心に触れてきましたし、人の心を操ったりするのは彼女の得意とする部分でもあります。更に言えば、精神科医の手法を知らないので、逆に客観的に相手の矛盾を指摘することが出来たのです。
もし、将志の悩みを他の人物に相談していたとすれば、輝夜なんかも一発で将志の抱える矛盾を看破して叱り付けていたことでしょう。
その一方で、将志のほうも少しばかり藍に対する対応が変わってきました。
後ろめたいところがなくなって、少し遠慮と言うものがなくなったのです。それ故に、将志は藍の好意をただ受け入れるのではなく、反撃することができるようになったのです。
もっとも、結果は藍しゃまに余計に火をつけただけでしたが。
しかしまあ、何だね。この男に口説き癖をつけた妹はいつまで暗躍し続けるのだろうか?
六花は自分の仕出かしたことの重大さをもっと自覚すべきだと思います。
そして、何気に将志からの反撃のキスを貰っていない愛梨。
奥手すぎて逃げてしまい、将志の反撃をもらえない、と言うのが実情でした。
……不憫な子。静葉も貰ってるのに。
では、ご意見ご感想お待ちしております。