銀の槍、散歩をする
銀月を中心とした一連の騒動が幕を閉じ、銀の霊峰は再び平穏を取り戻した。
幸いにして銀月が翠眼の悪魔であったという事実は噂にこそなったものの、一部の者を除いて信憑性のない話として処理されたのであった。
その報告書を書斎で読みながら、銀の髪の槍妖怪は安堵の息を吐いた。
「……もう少し情報が漏洩するものかと思っていたが……銀月が能力を制御できているお陰で更なる騒ぎにならずに済んだか……」
将志はそう言いながら報告書をまとめる。
銀の霊峰においても、銀月が翠眼の悪魔であることは機密事項であり、将志をはじめごく一部の者にしか伝えられていない。
何故ならば、翠眼の悪魔の被害者の中には銀の霊峰の妖怪も居たからである。
「……まあ、知られたところでうちの連中は悪い感情は持たんとは思うが……いずれにせよ銀月が大変なことになるか……」
血の気の多い霊峰の妖怪達のことである、翠眼の悪魔に挑もうとするものが出ないとも限らないのだ。
しかし、翠眼の悪魔とは銀月の暴走時の姿なので、そう簡単に戦わせるわけにはいかない。
万が一ばれてしまった場合のことを考えると、将志の頭は痛くなるばかりであった。
「……いかんな、少し気分転換でもするか」
将志はそう言って、傍らに立て掛けていた銀の槍を手に取って立ち上がった。
外に出ると空は青く澄み渡り、眺めていると吸い込まれるような感覚を覚えた。
そんな将志の銀色の髪を涼やかな風が撫ぜ、暑い夏の終わりを告げる。
「……もうすぐ、秋か……」
将志は感慨深げにそう呟く。
この夏は紅霧異変や銀月をめぐる騒動など密度の濃い夏だったために、それが終わってどことなく空虚さを感じていた。
将志は振るうつもりだった槍を納め近くの岩に腰掛け、幾分か柔らかになった日差しを受けながらぼんやりと空を眺める。
すると、空を飛んでくる人影が見えてきた。
「……久しぶり……」
赤い服に紅葉の髪飾りをつけた人影は、将志のところへまっすぐ降りて声をかける。
それを見て、将志は立ち上がって迎え入れた。
「……静葉か。確かに久しぶりだな」
「……もう、大丈夫……?」
「……ああ。一連の騒動に大体片が付いたからな。もう休息を取っても問題はない」
将志はこれまでの騒動を思い出して小さくため息をつく。
何しろ、自分の家族に関する深刻な問題だったのだ。
その騒動が一息ついて、少し安心した表情を見せる。
それを見て、静葉はホッとした様子で微笑んだ。
「……そう……お疲れ様……」
「……なに、いつかの大結界の騒動の時に比べれば遥かに楽だ。それはさて置きせっかく来たのだ、茶の一杯でも出そう」
「……ありがとう……」
「……ふむ、では中に入るとしよう」
二人は連れ立って社の中へ入り、いつも話をしている縁側へと向かう。
将志は茶を取りに台所に向かったが、しばらくして無手で縁側へと戻ってきた。
「……すまないが、茶請けになるものが何もない。今から作るから時間が掛かるが、構わないか?」
「……それなら要らない……」
将志の言葉に、静葉は静かに首を横に振る。
それを見て、将志は首をかしげた。
「……良いのか?」
「……それよりも隣に居て欲しい……」
「……了解した。なら、茶だけでも持ってこよう」
静葉の言葉に微笑とともに頷くと、将志は茶を汲みにいく。
その間、静葉はのんびりと石造りの社の境内を眺めながら将志を待つ。
しばらくすると、将志が盆に湯飲みを載せて戻ってきた。
「……茶が入ったぞ」
「……いただきます……」
静葉は将志から茶を受け取ると、それに口をつける。
その隣に将志は腰を下ろし、自分の分を手に取った。
二人して静かにぼんやりと空を眺める。そして吹き抜ける風に秋の足音を感じながら、将志はポツリと呟いた。
「……もうすぐ秋だな」
「……うん……もうすぐ私達の季節……」
「……今年もじっくり拝見させてもらうよ」
「……二人一緒……」
静葉はそう言いながら将志に寄り添う。
肩が触れ合い、将志の肩には静葉の頭が遠慮がちに乗せられる。
そんな静葉に、将志は微笑んだ。
「……そうだな、弁当でも持って一緒に回るとしよう……?」
突如として、将志は視線を感じて辺りを見回す。
視線に悪意は感じられないが、自分達がじっと見つめられている気配がしたのだ。
「……どうしたの……?」
そんな将志の様子に静葉は頭を起こした。
すると将志は、小さく息を吐いて首を横に振った。
「……いや、何でもない。さて、これからどうする?」
「……もうしばらくこうして居たい……」
静葉はそう言うと再び将志の肩に頭を預ける。
「……そうか」
それを将志は静かに受け入れるのであった。
* * * * *
将志と静葉が縁側でのんびりしているのを覗いている影が一つ。
「……姉さんが時々居なくなるから気になってきてみれば……逢引なんてしてたのね……」
その人影は縁側の女神と同じ黄金色の髪に、葡萄の飾りが付いた赤い帽子をかぶっている。
彼女は双眼鏡を覗き込み、縁側の様子を伺っていた。
「しかも、相手はあの建御守人? 姉さんったらあんな倍率の高い相手を良く捕まえられたわね……」
「いや、あの様子では恐らく将志は友人としてしか見ていないだろうな……」
「そうだね♪ でも、将志くんがああまでくつろいでるのは珍しいね♪」
「きゃあああ!? な、何よあんた達!?」
突然後ろから声をかけられて、双眼鏡を覗き込んでいた彼女は驚いて飛び上がった。
振り返ると、青い道士服をきた黄金色の九尾の女性と、白いブラウスに赤い蝶ネクタイをつけてオレンジ色のジャケットとトランプの柄の入った黄色いスカートを着た鶯色の髪の少女が立っていた。
「失礼、私の名前は八雲 藍と言う。何者かと言うならお前の姉の競争相手だ」
「僕は喜嶋 愛梨だよ♪ 立場としては藍ちゃんと同じかな♪ 君は静葉ちゃんの妹なのかな?」
愛梨は瑠璃色の瞳で目の前の彼女ににこやかにそう問いかける。
それを受けて、彼女は動揺を隠せないまま答えた。
「え、ええ、私の名前は秋 穣子よ。あそこで座っている秋 静葉の妹よ」
「ところで、お前は将志のことをどう思っているんだ?」
今度は穣子の眼をじっと見つめながら藍が問いかける。
その視線は言動のすべてを見逃すまいとする、鋭い視線であった。
穣子はその視線から放たれるプレッシャーを受けて萎縮する。
「ま、将志って誰よ?」
「今、君のお姉さんの隣に居る神様のことだよ♪ で、どうなのかな?」
「わ、私は姉さんが何をしているのか気になって居ただけよ!! 建御守人がここに居ることだって初めて知ったんだから!!」
強烈な威圧感に、穣子は大慌てで弁明する。
その発言を聞いて、藍は眼を光らせた。
「……ほう、つまりお前は現状では傍観者の立場を取るわけだ……」
「そ、それはあんた達も一緒でしょ!?」
「それが違うんだな~♪ 僕達は傍観者じゃなくて、観察者さ♪」
愛梨は手にした黒いステッキで、頭にかぶった赤いリボンつきのシルクハットを軽く叩く。
楽しげにそう言う愛梨に、穣子は訳が分からず首をかしげた。
「どういうことよ?」
「あの男、槍ヶ岳 将志は恋愛がどういうものだか分からないらしくてな……それで、どういった相手が将志の琴線に触れるのかを探っているのだ」
「ちなみに静葉ちゃんも協力者だよ♪ 僕達が見ているかもしれないことはちゃんと伝えてあるんだ♪」
二人の説明を聞いて、穣子は唖然とした表情を浮かべた。
「つまり何? みんなして寄って集ってあの男を落そうとしている訳?」
「そういうことになるな。まあ、残念ながら未だに効果は出ていないがね」
「それはそうと、ここからもう少し離れないと見つかっちゃうよ♪ 早く離れよう♪」
愛梨達はそう言うと、将志が気づけないような位置まで下がって観察を続けることにした。
* * * * *
茶を飲み終わり、将志と静葉は寄り添ったまま穏やかに時間を過ごしていた。
すると、将志がふと思いついたように口を開いた。
「……さて、しばらく何もすることがないのだが……久しぶりに散歩にでも行くか?」
「……(こくこく)」
「……ふむ、では少し待ってくれ。すぐに支度をしてくる」
「……(こくん)」
将志は静葉が頷くのを確認すると盆を持って立ち上がり、外出の準備をしに行った。
* * * * *
「どうやら移動するみたいだね♪」
三人で双眼鏡を覗き込んで状況を確認していると、愛梨が将志の様子を見てそういった。
なお、音声は藍が放った式神によって拾われ、三人のすぐそばにある札から出力されている。
「ねえ、将志って姉さんにいかがわしいことしたりしてないわよね?」
「もし将志が手を出したというのなら、是非ともどうやったのか聞きたいところだ」
「キャハハ☆ 将志くんはすっごく紳士だもんね♪」
「第一、私が風呂場に入り込んだら即座に眼を逸らして退散しようとするからな……将志が自分から性的な行為を仕掛けたことなど一度たりともないぞ?」
腕を組んでどうすれば良いのやらと呟きながら藍はそう話す。
そんな藍の様子を見て、愛梨はジト眼を向けた。
「……藍ちゃん、またやったの?」
「ああ。逃げようとしたところを捕まえて色々とな。やったらやったですぐにのぼせ上がってしまうのだが、それがまたグッと来るんだ」
グッと握りこぶしを作って、イイ笑顔で藍はそう言った。
そんな藍に若干引きながら、愛梨は乾いた笑みを浮かべた。
「きゃはは……それで良く将志くんに警戒されないね……流石に将志くんも過激なことは嫌がると思うんだけどなぁ?」
「そこはあれだ。将来自分が意中の相手と結ばれるという時に相手の裸を見ただけでのぼせ上がっては話にならないから特訓する、という名目で納得してもらった。生真面目な将志はそれをまともに受け取って、顔を真っ赤にして頷いてくれたぞ。その時はもう辛抱たまらず抱きしめてしまったよ」
藍はその時の将志の様子を思い出しながら、うっとりとした表情でそう話した。
藍も藍なら、将志も将志である。
「ど、どうしよっかな~……ぼ、僕もやってみようかな? あ、でも……うう~っ……」
その横で、愛梨は顔を耳まで真っ赤にしながら同じ行為に及ぶべきか否かを考えていた。
欲望と羞恥の間で心が揺れ、頭を抱えて唸る。
「マテやあんたら。さっきから聞いてりゃ、男の風呂場に突撃するとか何を言ってるのよ? あんた達、女の慎みとか恥じらいというものは無い訳?」
そんな二人に、穣子は額を手で押さえながらそう問いかけた。
「甘い!! そんなことを考えていては、意中の相手と恋仲にはなれない!!」
「な!?」
すると、藍がびしっという効果音が聞こえそうな動きで穣子を指差した。
そのあまりの勢いに、穣子は思わず怯んだ。
「慎み深く相手を待ち、男に引っ張られながら恋に落ちていく……ああ、悪くは無い。それも一つの恋の形だし、何より女冥利に尽きるというものだ。だが、そう言う輩に私は言いたい……現実を見ろ、と」
「げ、現実?」
「私達はもはや幻想の中でしか生きられない。つまり、幻想郷の中でしか相手を見つけられないということだ。だが最近の人口の調査を妖怪・人間・神と分け隔てなく行ったところ、男女比が二:三となった。これがいったい何を意味しているのか……分かるな?」
藍は重々しい口調で穣子にそう問いかける。
それに対して、穣子は少し考えてから口を開いた。
「……要するに、もたもたしていると行き遅れるって言いたいの?」
「そうだ。特に、自分が惚れる様な男は自分以外の誰かが絶対に惚れているはずだ。そんな中で、相手が自分を選んでくれるまでひたすらに待つのか? そんなことは私には出来ない。私は自分で動いて、相手を振り向かせて見せる。女が待つ時代は、とっくの昔に終わりを告げているのだ」
幻想郷では女性の方が男性よりも大幅に人口が多いのだ。
そんな中でただ待っているだけでは良い相手は皆取られてしまう、それが藍の主張であった。
それを聞いて、穣子は黙り込んでしまった。
その横で、将志達の様子を見ていた愛梨が藍に声をかけた。
「藍ちゃん、将志くん準備が終わったみたいだよ♪」
「よし、では将志達が出発したら我々もついて行こう」
「式神は使えないのかな?」
「使えないことは無いが、それだと私しか現状を把握出来ないぞ。全員で見るなら妖術で気配を消すのが一番簡単だ」
愛梨と藍は真剣な表情で方法などを即座に打ち合わせていく。
そんな二人を見て、穣子はボソッと呟いた。
「……必死ね」
「当たり前だろう? もう千年以上想い続けている相手だから……いや、違うな。本気で恋をすれば、誰だって必死になるさ。それこそ、者によっては禁忌や犯罪に走るほどな」
そんな彼女に、藍はそういって笑うのだった。
* * * * *
準備を終え、将志が再び静葉の待つ縁側に戻ってくる。
すると静葉は立ち上がってそれを出迎えた。
「……待たせたな。では、出かけるとしよう」
「……(わくわく)」
将志が履物を履き終えると、二人で並んで空を飛び始める。
晴れ渡った空の真ん中に、二つの人影がふわりと浮かぶ。
「……さて、どこに行きたい?」
「……移動しながら決める……」
「……そうだな。散歩など、本来そんなものだな」
行き先を話し合い、二人は頷きあう。
すると静葉が将志の方へと寄ってきた。
「……将志……」
「……ああ、これだろう?」
将志はそう言って微笑みながら静葉に右手を差し出す。
すると静葉は嬉しそうにその手に指を絡めた。
「……将志、知ってる……?」
「……? 何をだ?」
「……この手のつなぎ方……恋人つなぎって言うの……」
静葉は顔を少し赤らめながら、照れた様子でそう言った。
それを聞いて、将志は興味深そうに頷いた。
「……いや、初めて聞いたな……なるほど、つまりこうしていると俺と静葉は恋人同士に見えるというわけだ」
「……私とじゃ、嫌……?」
静葉は将志の言葉に不安そうにそう言って返した。
それに対して、将志はその不安を払拭するかのように笑みを浮かべた。
「……そんなことは無い。静葉の様な可愛らしい女性が恋人であるのならば文句など出ようはずが無い。喜んでつながせてもらうよ」
「……うん……」
嫌味の無い自然な将志の言葉に、静葉は頬を染めて嬉しそうに笑うのだった。
* * * * *
「……また随分と直球な口説き文句を吐いたな……」
「きゃはは……将志くん、そう言うところは天然だもんね……」
将志の静葉に対する言葉を聴いて、藍と愛梨は若干呆れ顔でそう呟いた。
現在、観察者達は将志達の遥か後方をゆっくりとついてきているのだった。
「しかし、今の静葉の発言はずるいな。今の言葉では、将志に自分が恋人だと言わせたことになるからな」
「キャハハ☆ 静葉ちゃんの技ありだね♪」
「……あんなに楽しそうな姉さん、初めて見た……」
穣子は双眼鏡で将志と話す静葉の様子を眺めながらそう呟いた。
双眼鏡越しに見る姉の顔ははにかんだ笑顔で、楽しそうに将志と話をしている。
「穣子ちゃん?」
「姉さんはいつも大人しくて、あまり主張したがらないんだけど……姉さん、ああいうことも言えるのね……」
「恋は人を変えるものさ。お前の姉さんもそうなのだろうさ」
心底意外と言った様子の穣子に、藍がそう言って声をかける。
すると穣子は深いため息をついた。
「……なんか羨ましいわ……」
「そう思うのなら、お前も誰かに恋をしてみれば良い。なに、数が少ないとは言え、選択の余地があるほどには男は居るんだ。自分が気に入るような相手が探せば見つかるんじゃないか?」
「……考えておくわ」
「動くのなら早めにな? 何でもそうだが、好機って言うものは待ってはくれないからな」
藍は穣子にそう言って釘を刺すと、将志の観察に戻った。
* * * * *
将志と静葉は山に降り立ち、獣道を歩いていた。
上を見上げると、まだ夏の色を残した木々が空を覆っていた。
「……紅葉の時期はまだ先か……この辺りは楓や紅葉が多いから楽しみなのだが……」
「……大丈夫……この辺りはきっと綺麗になる……」
独り言のような将志の言葉に、静葉は静かに言葉を返す。
それを聞いて、将志は小さく微笑んだ。
「……そうか……では、今から期待して待つとしよう」
「……お弁当……」
「……そうだな……それを見るにはそれに相応しい弁当が要るな。考えてくるとしよう」
「……(わくわく)」
二人はそう言うと、静かに手を繋いで寄り添って歩く。
二人の間には、心地の良い沈黙が流れていた。
* * * * *
「……姉さん、少し押しが弱いんじゃ……」
二人の間を支配する長い沈黙に、心配になった穣子がそう呟いた。
それに対して、藍は双眼鏡をのぞきながら別の見解を示した。
「いや、この方針もありだな。強く押しすぎず、相手のペースに合わせて話す手法か……」
「何だか、将志くんも普段より落ち着いてるね♪」
愛梨は将志の浮かべる穏やかな表情を見て、楽しそうにそう言う。
しかしその横で、藍は残念そうに首を横に振った。
「だが、この手法は私達には使えないな」
「そうだね……僕も藍ちゃんも、どちらかといえばおしゃべりだもんね♪」
「それって、姉さんに彼を譲るってこと?」
二人の話を聞いて、穣子がにやけた笑みを浮かべてそう言った。
すると、二人はそれを聞いて一笑に付した。
「冗談。譲るわけがない。自分のペースで話す場合でも、話題で相手の気を引ければ全く問題はない」
「そうそう♪ 静葉ちゃんが落ち着ける場所を作るんなら、僕達は楽しめる場所を作れば良いのさ♪」
「……あんた達、なかなかに手強そうね……」
三人はそう言い合うと、また双眼鏡を覗き込んで将志達の観察に戻った。
* * * * *
「……将志……」
「……む? どうした?」
突如としてかけられた声に、将志は静葉のほうを向いた。
「……呼んでみただけ……」
すると静葉は幸せそうな表情でそう言うと、将志の腕を抱くようにして距離をつめる。
「……そうか……」
それに対して、将志は穏やかな笑みを浮かべて静葉の頭を撫でるのであった。
* * * * *
「……良い雰囲気ね」
「……ああ。良い雰囲気だな」
「……うん、いい雰囲気だね♪」
幸せそうな二人を見て、三人の観察者はそう呟く。
穣子はホッとした表情を浮かべている一方、藍と愛梨は真剣な表情で二人の様子を見ている。
それに気が付いた穣子は、二人に話しかけた。
「……やけに真剣じゃない。やっぱり取られるのは嫌なのかしら?」
「いや、そうじゃないんだ。将志と良い雰囲気になるのは私達なら簡単なことなんだ。難しいのはここから先だ」
「ここから先?」
「ああ。将志はここから先には自分からは進まない。つまり、将志をその気にさせるのが難しいんだ」
「実はね、僕から抱きしめたりキスしたりしたことはあっても、将志くんからしてもらったことは全然無いんだ……」
愛梨達はやや暗い声でそう話す。
それを聞いて、穣子は再び将志のことを観察してみた。
将志は寄り添ってくる静葉のことを、ただ優しく受け入れていた。
「……確かに、雰囲気的にはそこまで女誑しという風には見えないわね」
「私達が協力している最大の理由がここだ。どうすれば将志の心を動かせるのか。どうすれば恋をし、それを理解させることが出来るのか。この命題を解決するために私達はこうして研究をしているんだ」
「……愛想が尽きたりはしないの?」
「全然!! 将志くんはね、僕達の良いところも悪いところも全部受け入れてくれるんだ♪ 僕達が本音でぶつかっていけば、将志くんはちゃんと本音で返してくれるよ♪」
「それに、釣った魚に餌をやらないかといえばそうでもない。将志は親しくなった相手のことは常に気を配り、真剣に私達のことを考えてくれる。だから将志に愛想が尽きることは無いんだ。少なくとも私はね」
穣子の問いに愛梨と藍は力強くそう言って返した。
それを聞いて、穣子は考え込む。
「ふ~ん……それじゃあ、姉さんのことも真面目に考えてくれてるのかしら……」
穣子はそう言いながら、双眼鏡を将志たちに向けた。
* * * * *
「……ねえ、将志……」
「……どうした?」
「……恋って何だと思う……?」
静葉の質問に、将志はその場で立ち止まった。
眼を閉じて天を仰ぎ、しばらくそのまま考える。
そして、力なく首を横に振った。
「……分からない。どんな状態になるかは聞いたことがあるが、実際になったことが無いからな……」
「……私は確かめたい……」
静葉は何かを決心したようにそう言うと、将志から体を離して正面に回りこんだ。
そして、正面に立つとじっと将志の黒耀の瞳を覗き込んだ。
「……静葉?」
「……口付けが欲しい……」
静葉は頬を染め、静かにそう呟いた。
その表情は期待と不安が入り混じった、とても複雑な表情をしていた。
だが、それが彼女が精一杯勇気を振り絞って出した言葉だということは良く分かった。
「……ふむ……」
将志は眼を閉じて小さく息を吐くと、静葉に顔を近づけていく。
「……っ……」
静葉は眼を閉じ、将志の行為を受け入れようとする。
その直後、将志の唇が静葉に触れた。
* * * * *
「ねえ、あの男姉さんにキスしたわよね!?」
穣子は将志を指して興奮気味に残る二人に問いかけた。
「唇ではなく、口元か……ということは、私達はまだ追いつかれただけということか……」
「そうだね……という事は、静葉ちゃんは親友かぁ……」
しかし、それを見ていた二人の表情は晴れないものであった。
そんな二人の様子に、穣子は首をかしげた。
「……どういうことよ?」
「さっき将志が言っていただろう? 将志は恋を知らないのだ。将志は恋を知るまで絶対に唇にキスをしない。つまり、今の将志のキスは友好の証だ」
「何よそれ!? ちょっと、あの男どうなってるのよ!?」
将志の思考を聞いて、穣子は声を荒げる。
その反応に、愛梨と藍は乾いた笑みを浮かべた。
「きゃはは……それがちょっと色々あってね……あれが普通になっちゃったんだ♪」
「何しろ、日常的にキスを受けていたからな……将志にとって、キスとは身近なものなんだ。まあ、その中でも唇へのキスは特別なものになっているみたいだがな。将志が唇にキスをしたその時は、その相手こそが将志が自信を持って一番だと言える相手ということになるのだ」
「どんな日常よ、それ……」
将志の日常の様子を聞いて、穣子はげんなりとした表情を浮かべた。
その横で、愛梨が上着のポケットから懐中時計を取り出して時間を見た。
「あ、藍ちゃん。そろそろ将志くんの休憩時間が終わっちゃうよ」
「そうか、という事は逢引はここまでか……よし、撤収しよう」
藍達はそう言うと、速やかに撤収していった。
「……競争相手は強敵ぞろいみたいね。頑張ってね、姉さん」
穣子は届くはずの無い声で静葉にそう言うと、二人に続いてその場を立ち去って行った。
* * * * *
「……どうして……?」
将志のキスを受けて、静葉は呆然とした様子で将志に問いかける。
望んでいた口付けではなく、口元へのキス。
少し悲しげな瞳を向けてくる静葉に、将志は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……すまない。だが、俺は中途半端な気持ちではしたくは無い。それは相手にとって失礼に当たるからだ。俺は恋が何であるか知って、その気持ちをしっかり伝えてから口付けをしたい」
「……そう……」
つらそうな表情で話す将志に、静葉は小さく返事をした。
二人の間に沈黙が訪れる。それは先程までの居心地の良いものではなく、どこか気まずい沈黙であった。
そんな中、将志はふと思いついたように懐中時計を見て口を開いた。
「……静葉。すまないが、そろそろ仕事に戻らねばならん。続きはまた今度で良いか?」
「……うん……今度は、ゆっくり……」
「……ああ、そうだな。今度は休みの日にでもゆっくりと回るとしよう」
将志はそう言うと、静葉に背を向けて飛び立とうとする。
「……将志……」
そんな将志に静葉は声をかけた。
その声に、将志は今一度静葉に向き直る。
「……どうかしたか?」
「……私は待ってる……貴方が誰かに恋をするその時まで……」
静葉は将志の眼をしっかり見据えてそう言った。
その言葉には、いつまでも待ち続けるという決意と覚悟が現れていた。
将志は眼を閉じ、しばらく黙ってその言葉を刻み込む。
「……分かった。心に刻んでおこう。では、な」
将志はそう言って今度こそ飛び去っていった。
秋口の涼やかな風が木々を揺らす中、静葉は黙ってそれを見送る。
「……どうか……彼が恋に悩むことが無くなります様に……」
静葉は将志が飛んでいった方向に向かって静かにそう呟くと、ゆっくりと家路に着いた。
彼女が去った後には、風で木々がこすれる音だけが残された。