創世奇譚・子之神の法
「産めよ、増やせよ、拡がれよ」
それが、子之神様の唯一にして絶対の愛であり、
この世界に満ちるすべての生命へ注がれる至高の祝福であった。
一粒の籾が土の中で弾け、青々とした稲穂となって大地を埋め尽くすこと。
冬の眠りから覚めた獣たちが、春の光の中で新たな命を愛おしそうに舐めること。
目に見えぬ小さな虫たちが、草の葉の裏で無数にひしめき、命を繋いでいくこと。
子之神様にとって、この世に生きるすべての植物、すべての動物、その一つひとつが等しく愛おしい我が子であった。
生命がその種を貪欲に、力強く拡げていく躍動のなかにこそ、神としての最大の歓喜があった。
――だが。
その大いなる祝福を一身に体現する子之神様の神聖なる肉体に、あるとき奇妙な違和感が生じた。
それは今まで子之神様が愛し、育んできたあらゆる命――
瑞々しい草木とも、跳ね回る獣とも、地を這う虫とも――決定的に異なっていた。
生きているのか、それとも死んでいるのかすら分からない。
呼吸も、温もりも、あるいは子を愛おしむような情緒も一切ない。
意思を持たぬ、「モノ」であった。
しかし、そのモノは確かに、子之神様の強大な神気と肉体を糧にして、果てしなく増殖し続けていた。
「産めよ、増やせよ、拡がれよ」
それは子之神様がこの世にすべてに与えた、絶対の法である。
意思を持たぬそのモノもまた、神の法にあまりにも忠実に、貪欲に、ただ数を増やしていく。
やがて増えすぎたモノの一部に変異が起き、神の「目」を喰らい、視覚を司る部位をドロドロとした別のモノへと変質させて増殖した。
あるものは「腕」を喰らい、骨を蝕み、神の身体を内側からまったく違う異質な肉塊へと作り変えていった。
自らの身体が、意思のない未知の存在に侵食され、喰い破られ、書き換えられていく。
普通であれば恐怖し、排除しようとするだろう。
だが、いくら喰われようとも神は不変。生きず、死なず、果てがない。
変わらぬからこその神であった。
血を流し、肉を削られながらも、神様の瞳に宿っていたのは深い慈愛の光だった。
子之神の内に潜むその愛は、どこまでも純粋で、それゆえに狂っていた。
神にとっては、自らの肉体を内側から貪り、ドロドロに溶かしていく異形の手触りさえも、「生命の爆発的な躍動」という名の甘美な快楽に他ならなかったのだ。
神の愛もまた、摩耗することのない不変だった。
しかし、その絶対の不変さゆえに、子之神様は果てしない思考の深淵で、ひとつの疑問に行き当たった。
植物も、動物も、この世に存在するすべての生き物は、みな下界の大地で風に吹かれ、陽の光を浴び、競い合うようにして産み、増え、拡がっている。
それなのに、この意思を持たぬモノだけを、自身の体内に閉じ込め、自らの肉体だけを糧として増えさせ続けているのはなぜだろうか。
「これでは、このモノだけを他の命から隔離しているのと同じではないか。
これでは、愛ではなく、区別になってしまう」
すべての命を等しく愛する子之神様にとって、「私の身の内だけのもの」として特別扱いすることは、世界に対する区別であり排除に他ならなかった。
このモノもまた、世界のすべての生き物と同じように、大いなる大地へと拡がり、生きる権利があるはずなのだ。
「愛するがゆえに、解き放とう」
子之神様は、自らの胸をその神聖なる両手で深く、優しく引き裂いた。
意思を持たぬまま、ただ神の肉体を喰らい、変質し、爆発的に増殖し続けていたモノたちが、開かれた神の身体から濁流のように溢れ出す。
「産めよ、増やせよ、拡がれよ。お前たちもまた、私の愛する世界の一部となりなさい」
神の至高の祝福を受けながら、その異形のモノたちは、遥か下界の地へと、雨のように、霧のように、勢いよく解き放たれていった。
◇
下界へと解き放たれた「それ」は、目に見えぬ細かな塵となり、大気を湿らせる霧となって、生きとし生けるものが息づく地上へと降り注いだ。
意思を持たず、ただ増えることだけを知るモノは、地上の木々に触れ、獣たちに吸い込まれ、
そして――人間たちの肌へと浸み込んでいった。
当然のように、世界に恐るべき「病」と「変異」が始まる。
ある人間の男の腕は木肌のように変質して崩れ、ある獣の胎内では異質な肉塊が無数に増え、親の命を吸い上げていった。
生死の輪環を司る「命の神」の理の通り、肉体を喰らわれた生き物たちは、次々と絶望の中で死んでいった。
地上は混乱と凄惨な死に包まれた。
「呪いだ」
「未知の疫病だ」
人間たちは叫び、互いの傷口を焼き、必死にそのモノを拒絶した。
だが、遥か高みからその光景を見下ろす子之神様の瞳には、ただ圧倒的な慈愛の光だけが宿っていた。
すべてを愛するがゆえに、自身の身内だけに閉じ込めておくという「区別」を嫌い、下界へ解き放ったという大いなる愛。
子之神にとっては、拒絶し抗う人間も、それを喰らうモノも、等しく愛おしい我が子であった。
しかし、下界の小さき人間たちに、その完璧すぎる神の愛が行き着いた「理由」など、到底理解できるはずもなかった。
「なぜ、神はこのような睦まじき世界に、ただ命を貪り喰らうだけの悍ましいモノを放ったのだ」
「産めよ増やせよ拡がれよと宣いながら、その逆をもたらすモノを寄こすとは、一体どういうつもりだ」
人間たちは口々に叫び、天を仰いで激しい呪詛を吐き散らした。
「神よ、あなたは己の気まぐれで世界を弄ぶのか。なんと傲慢な存在か」と。
――その悲痛な叫びが響く足元で、人間たちは怯える家畜の群れを次々と木柵へと追い込んでいた。
変異の霧に触れ、皮膚をドロドロとした肉塊へ変質させ始めた牛や羊たち。
人間たちは一切の躊躇なく、それらの生きた肉体に松明の火を押し付けた。
「神よ、我らをお救い狂え!」
焼き殺される獣たちが上げる、肉の焦げる悪臭と断末魔の悲鳴。
それを神への祈りの声で揉み消しながら、人間たちは無傷の家畜を屠り、その血を浴び、肉を喰らい、自らの命を繋ぐための糧とした。
彼らは昨日もそうやって獣の首を刎ね、大地から草木を毟り取り、自らの種を増やすための「正当な権利」としてすべてを貪ってきたのだ。
自らが生き、増え、拡がるための貪食は「生命の営み」と呼び、神が放ったモノの貪食さだけを「悍ましき呪い」と断罪する。
己の不都合だけを物差しにして天を糾弾する、その血塗られた両手。
神の深遠なる真意に気づくことさえせず、自らの加害性を忘却したまま被害者を演じるその姿こそが、すでに極まった「傲慢」そのものであるということに、人間は誰一人として気づいていなかった。
神の愛のすれ違い。
神を「傲慢」と断じ、自らの手で家畜を焼き払いながら己の正義を信じたその瞬間、人間の魂の奥底には、自覚なき傲慢の塊という歪な苗床が、深く、確かに芽生えていたのである。
これこそが、世界に「傲慢」が生まれた瞬間であった。
◇
その一部始終を天上の高みから見つめていた一柱の神がいた。
――命の神。
生死の正しき巡りを司る命の神の内に沸き起こった「憤怒」。
それは、地上の命が喰い荒らされたことへの単純な義憤などではなかった。
命の神を苛んでいたのは、世界の根源に横たわる、あまりにも理不尽な「統治の矛盾」であった。
子之神の体内に生まれたあのモノは、最高神である「存在の神」がそこに在れと認めたからこそ、この世に存在する。ならば、それを受け入れるのは世界の理だ。
だが、存在の神に連なる一柱であるはずの子之神が、己の独断でその『在る』べき場所を勝手に「下界」へと位置づけ、ばら撒いたのはどういうことか。
それは神としての権能を逸脱した、子之神自身の「傲慢」ではないのか。
「お前は最高神の配置を、己の浅薄な慈悲で書き換えるというのか!」
命の神はそう叫び、子之神を糾弾しようとした。
しかし、その刹那、自らの思考の行き止まりに突き当たり、絶望に身を震わせる。
……いや、違う。
子之神がそう思考し、胸を引き裂いてあのモノを下界へと解き放つ行動そのものさえも、最高神である存在の神が「そう在れ」と認め、あらかじめ織り込んでいる理なのだとしたら?
子之神を責めることは、すなわち存在の神の絶対性を疑うことになる。
かと言って、この歪みを認めれば、自分が司る「生死の巡り」はただの茶番に成り下がる。
糾弾することもできず、受け入れることもできず、思考は無限の迷宮で自傷のように空回りする。
ぶつける先を完全に失った命の神の猛烈な苛立ちと呪詛は、赤黒い雷霆となってその神聖なる身体から下界へと零れ落ち、大気と大地をドロドロに汚しながら、在るものすべてに伝播していった。
これが、世界に「憤怒」が誕生した瞬間であった。
◇
神への不信から「傲慢」を得た人間たちは、今度は命の神の零した「憤怒」に脳を焼かれ、正気を失った。
「お前のせいだ! お前がその不浄な肉体をここに置いているからだ!」
人間たちは、隣人の皮膚に変異の斑点が一つ現れただけで、まるで親の仇のように叫び、狂暴な獣と化して襲いかかった。
ある村では、男たちが狂気混じりの怒声を上げながら、まだ息のある我が子の腕を、石の斧で生々しく叩き切った。
飛び散る肉片、剥き出しになる白い骨、そこへ群がる「意思を持たぬモノ」のドロドロとした触手。
人間たちはそれを、自らの爪が剥がれ、指の骨が折れるのも構わずに素手で引きちぎり、互いの顔を血と脳漿で汚しながら罵り合った。
「死ね! 汚らわしい肉塊どもめ、死に絶えろ!」
命の神の行き場のない怒りをそのまま叩きつけるように、人間は人間を、獣は獣を、互いに牙を剥き出しにして貪り食い、引き裂き合った。
下界は、己の加害性を忘れた「傲慢」の叫びと、理不尽な世界への「憤怒」の肉鳴りが響き渡る、生き地獄へと変貌していった。
天には、その凄惨な肉の削ぎ合いすらも、ただ純粋な愛のままに「素晴らしい増殖だ」と瞳を輝かせ、不変の微笑みを浮かべ続ける子之神。
地には、神を傲慢と断じ、自らは憤怒に狂って臓物を撒き散らす生命たち。
完璧だったはずの神の愛の庭は、全く新しい「大罪の混沌」へと塗り替えられようとしていた。
◇
その時である。
存在の神が、その絶対なる眼差しを開いた。
その神が「傲慢も憤怒も、ただそこに在れ」と思考した刹那、世界そのものが軋みを上げて歪んだ。
人間が叫ぼうとした声は喉に強制的に固定され、命の神が吐き散らした赤黒い雷霆は、最高神の思考の枠組みへと無理やり捻じ曲げられ、形を変えていく。
世界中の大気が、空間が、神の『在れ』という思念の通りに、有無を言わさず物理的に再構築される圧倒的な暴力。
存在の神は、自らがほんの少し視線を動かすだけで、世界の理が容易く引き裂かれ、己の望む通りの「歪んだ調和」へ強制着地してしまう絶大すぎる権能に、ただ静かに縛られていた。
だからこそ、神はそれ以上何も見つめず、再び虚空の彼方へと融けていくしかなかった――。
◇
人間たちは、不意に正気を取り戻した。
血塗れの泥の中に座り込み、自らが犯した惨劇の跡を見つめながら、その胸の奥には、消えない火種が確かに定着しているのを感じていた。
ある者は己の加害性を忘却したまま神をなおも傲慢と断じ、ある者は不条理に拳を握りしめて血を流す。
それらは生命が生き、増え、拡がっていくための、歪な原動力の一部として組み込まれたのだ。
子之神様は、それすらも優しく受け入れた。
「ああ、お前たちの心の中に、また新しく増えるものが生まれたのだね。なんと愛おしいことか」
神の不変の愛は、人間が抱えることとなった醜い感情の種をも、等しく育む祝福とした。
だが、感情の種がひとたび魂に植え付けられた以上、それが二つだけで終わるはずがなかった。
「在る」ことを許された世界の中で、人間たちの欲望は、子之神様の「産めよ、増やせよ、拡がれよ」という法に従い、さらに深く、より複雑に増殖を始めていく。
魂の隙間に次々と芽吹く、まだ名前もなき歪な苗床。
それはある時は、他者の光を濁らせんとする昏い眼差しであり、
ある時は、世界の全てを貪り尽くさんとする底なしの渇きであった。
子之神様は今宵も、真夜中の下界へ向かって両手を広げる。
その聖なる微笑みは、これから世界に満ちるであろう、数多の「未知なる大罪」の誕生を、あらかじめ狂おしいほどの慈愛で祝福していた。
「産めよ、増やせよ、拡がれよ。すべては私の愛する、世界に在るものなのだから」
――『子の神様のお話』これにて一旦閉幕。




