第7章|二重の恐怖と崩壊する理性
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
しかし、彼女を本当に絶望させたのは、その奇天烈な物語の内容ではなかった。 必死に言葉を重ねるあきらの指が、不自然なほど白く強張っているのを、ユキは見逃さなかった。その強張りに、ユキは「あきらの意志ではない、別の誰かの論理」が、まるで寄生虫のように彼を支配していることを、本能的に察知した。
「ねえ、あきらくん」
ユキは、乾いた声を絞り出すようにして言った。
「私のこと……誰かに『危険だ』って言われた? 誰かに、私のことを『操作している』って言われたの?」
あきらは答えなかった。正確には、答えられなかった。 その沈黙こそが、ユキにとっては最悪の回答だった。あきらの口から出る言葉なのに、そこにあきら自身の温度がない。
――誰かが、後ろにいる。
十一月の冷たい風に吹かれながら、ユキの中で、七月に言われた「ログの記録(保険)」、八月の「不倫の法的責任」、九月の「対話の強制」、そして今この瞬間の「誇大妄想じみた脅迫」。それらすべての『点』が、一本の太い鎖となって繋がった。それは二人を繋ぎ止めるための絆ではなく、彼女の首を絞め、社会的に窒息させるための絞首刑の縄だった。
「お願い……」
ユキの声が、ひび割れたガラスのように震える。
「私は、あなたを操作なんてしてない。だから、訴えたりしないで。あんな、自分を守るためだけの冷たい言い方、もうしないで……!」
「……ユキ、俺は君を救いたいだけなんだ。警察に行ってくれてもいい、ユキ。俺のことを警察に相談してもらってもいいんだ。俺に何をされるか分からないだろう? だから、自分を守るために……」
それは救いを求める悲鳴のようでもあった。 ユキにとって、それは二重の地獄だった。 自分の社会的地位、家族、平穏な日常が、見えない「何か」によって剥ぎ取られるという具体的な脅迫への恐怖。 そして、かつて愛し、心から信頼を寄せていた男が、攻撃性と正体不明のロジックに支配された「得体の知れない狂人」に変貌してしまったという、魂の拠り所を根こそぎ奪われる絶望。
「……攻撃するようなこと、もうしないで」
それは責める声ではなかった。今にも切れそうな命綱を、どうか手放さないでほしいと願う、瀕死の者の祈りだった。
「おかしいよ……あきらくん、あなた、完全におかしいよ……!」
言葉にはできなかったが、ユキの瞳にははっきりと「哀別」の色が浮かんでいた。 彼女の身体が先に、この空間への拒絶を始めていた。一歩、また一歩と距離を置き、彼女はゆっくりと駅の改札へと吸い込まれていく。 以前と同じように、彼女は振り返り、こちらに手を振った。 だがその姿は、かつての恋人に名残を惜しむ姿ではなかった。猛獣や災害から、一刻も早く命を守ろうとする、悲痛な生存本能の現れに、今のあきらには見えた。
一人残された車内で、あきらはグローブボックスを開けた。 そこには一袋の『コロロ』が入っていた。ユキは以前、「私、これあんまり得意じゃないかも」と笑って言っていた。だから、これはユキの好きなものではない。あきらだけの、孤独な嗜好品だ。
しかし、今のあきらにとっては、この独特の不思議な弾力と、噛み締めた時にじゅわりと広がる人工的な甘酸っぱさだけが、崩れゆく自分の輪郭を繋ぎ止めてくれる唯一の感触だった。
彼は震える手で袋を開け、一粒、冷え切ったコロロを口に含んだ。 噛み砕く必要はない。冷たい果肉のような感覚が、凍えた喉を通っていく。
(これでいい……。これでいいんだ、ユキ。君が俺を怖がれば怖がるほど、君は警察に行くだろう。通報され、俺が社会的に抹殺されれば、広報の女さんのような個人が及ぼす『見えない悪意』よりも、警察という公的なルールが君を優先して守ってくれるはずだ)
広報の女から彼女を完全に切り離せるなら、たとえ一生、彼女から「壊れた恐ろしい男」として蔑まれ、憎まれ続けたとしても。彼女の日常が守られるのなら、それが自分の選んだ、最後で最高の愛の形なのだと、あきらは自分に言い聞かせた。 それは、広報の女の底知れぬ影を知ってしまったあきらが選んだ、あまりにも歪で、あまりにも孤独な「十年の結晶」だった。
あきらは、先日スタバでユキがくれた、高カカオチョコクランチを、今もバッグの一番深い場所に忍ばせていた。あの時の、彼女の僅かな指先の温もり。 その甘さを反芻しながら、彼は自分が仕掛けた「歪んだ救済」の幕引きを待った。 彼はまだ気づいていなかった。自分が「誠実な正論」を口にするたびに、その命綱を自分自身の手で、一本ずつ切り刻んでいたことに。
その夜、広報の女に送った定例の進捗報告メールには、嘘偽りなく「彼女とは、もう二度と会えなくなりました」とだけ記した。 広報の女からの返信は、数時間後に一言だけ届いた。
『そう。賢明ね』
その短い言葉に、あきらは安堵と、耐え難いほどの虚無を感じた。 ユキは今頃、震える足で警察署の門を叩いているだろうか。
ユキは自分を「拒絶」することで生き延びようとし、 広報の女は自分を「管理」することで支配を完成させようとしている。 そして、あきらは自分を「怪物」に仕立て上げることで、愛する人を遠ざけた。
三人の運命は、取り返しのつかない形で、十二月の冷酷な審判へと向かっていた。あきらが望んだ「通報」という名の救済が、彼自身の人生を、想像もしなかった地獄へと引きずり込んでいくことも知らずに。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




