エピソード|沈黙を“許さない”と決めた日
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
ユキが距離を取り始めてしばらく経った頃、あきらがぽつりと広報の女に漏らしたことがあった。 「ユキから、何も言われてないんだ」
それは責める口調ではなかった。むしろ、彼女を理解しようと足掻く、悲痛な声だった。 だが、その瞬間、広報の女の中で何かが静かに、そして硬く固まった。
――言わない、という選択。 ――説明しない、という逃げ道。
広報の女にとって、それは「優しさ」などではなかった。ただ、自分が傷つきたくないだけの、卑怯な保身。 自分は違う、と彼女は確信している。不快なことでも言葉にする。関係が壊れる可能性があっても、理詰めで説明する。社会という荒波の中で、それが「大人」としての責任であり、誠実さであると信じて疑わなかった。
だからこそ、ユキの沈黙は「弱さ」ではなく「責任を回避するエゴ」に見えた。 あきらがこれほどまでに苦しみ、呼吸困難に陥るほど追い詰められているのに、何も説明せずに距離を取り、それを『自分らしく居たい』という言葉で正当化する。
――自分の感情を守るために、他人を宙ぶらりんにする人。
その冷徹な分類棚に、ユキは静かに入れられた。 その日から、広報の女の中でユキは「守るべき愛すべき存在」ではなくなった。 「守らない人間は、守られない。それが、社会のルールよ」
広報の女の正しさは、鋭いメスのようにあきらの執着を削ぎ落とし、代わりに「義務」と「権利」という義足を履かせた。
「あきらくん、今の彼女はね、あなたを『操作』しているのよ。沈黙という最大の武器を使って、あなたを不安にさせ、優位に立とうとしている。典型的な回避依存の傾向ね。彼女を救うためにも、あなたは毅然と立ち向かわなければならないわ」
広報の女の言葉は、あきらの脆い自尊心に「救世主」という新しい役割を与えた。 自分は彼女に縋っているのではない。逃げ回る彼女を捕まえ、正当な場所へ連れ戻し、目を覚まさせてあげるのだ。
その歪んだ使命感こそが、十月十日に向けて、あきらを「正論の怪物」へと変貌させていく。
一方で、ユキは感じていた。 九月の湿った空気の中、調剤薬局のカウンターに立つ彼女の背中に、冷たい視線が突き刺さるような感覚。 物理的に彼とは会っていない。LINEも必要最小限に抑えている。それなのに、スマートフォンが震えるたびに、そこから這い出してきた影が、彼女の喉をじわじわと締め上げる。
(誰かが、彼に私の『悪口』を言っている……)
それは単なる被害妄想ではなかった。あきらから届く言葉が、日を追うごとに彼自身の語彙を失い、代わりに法廷で使われるような冷たい専門用語や、人間味のない倫理観に置き換わっていく。
「誠実な対応を求めます」 「権利の侵害です」 「契約の不履行です」
かつて「目が合えばわかる」と笑い合った、あの柔らかなあきらは、もうどこにもいない。 ユキは、自分が愛した記憶さえも、背後にいる「正体の見えない何か」に食い荒らされているような恐怖に、独り震えていた。
十月十日。 後にユキが、耐えきれずに指定することになるその日付は、まだ誰のスケジュール帳にも書き込まれていない。 だが、広報の女の冷たい瞳の中では、すでにその日の「判決」は決まっていた。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




