第3章|広報の女という現実
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
九月。あきらにとって、広報の女と過ごす時間は、次第に自分を「正当化」するための聖域へと変わっていた。 四月までの規則正しい空白。月、水、木というリズムが身体から抜けない。喉の手術を経て、八月のLINEで「自分らしく居たい」「期待しないで」と突き放されてもなお、あきらは自分の人生が停滞している原因をすべてユキに求めていた。
「俺はあんなに将来を考えて計画してたのに、全部ユキにぶち壊されたんだ」
コメダ珈琲の温かい空気の中で、あきらは恨みがましく零す。 彼にとって、ユキとの決別は「二人の合意」ではなく、一方的に未来を奪われた「被害」だった。しかし、その甘えをユキは見透かしている。八月のやり取りでも、ユキは淡々と返してきた。 『被害者ぶるのやめて。自分の人生は自分で責任持ってよ』
その鋭い指摘を、あきらは脳内で巧みに書き換える。 「彼女は、自分だけが正しい場所に立って、俺を置いてきぼりにしようとしているんだ」 あきらは、広報の女の前でだけ、汚れなき「傷ついた男」を演じ続けていた。
広報の女は、あきらの話を遮ることなく聞き続けていた。彼女は迷いのない動作で腕時計を外し、テーブルの端に置いた。「急がない」という意思表示。だが、その瞳の奥には、検品を行う職人のような冷徹な光が宿っている。
「ユキさんは、あなたを理解していたんじゃない。あなたの『都合のいい未来像』に、ただ沈黙という形で付き合わされていただけなのよ」
広報の女の言葉は、あきらの傷口を正確に抉る。 広報の女にとってユキの態度は、あきらを宙吊りにし、自分だけが被害者のような顔をして平穏を守ろうとする、卑怯なエゴにしか見えなかった。
「彼女は、言葉を封じることで自分を守っているわ。でも、そんな曖昧なエゴにあなたが振り回される必要はない。……一度、きちんと対面して『答え』を確定させるべきじゃないかしら」
広報の女は決して「行ってきなさい」とは言わない。あくまで、あきら自らが「決着をつけたい」と望むように、逃げ場を塞ぐように言葉を配置していく。
「今のままじゃ、あなたは一生、彼女に奪われた未来の残骸を数えて生きていくことになるわよ。それでもいいの?」
あきらの焦燥感を煽り、彼に「会うための調整」をさせる。それが広報の女の仕掛けた、逃げられない罠だった。
「口を動かす前に、手を動かすこと。それが一番の解決策よ」
広報の女は、スマートフォンで一枚の画像を見せた。 「実家よ。今は弟が継いでいるわ」
鉄筋コンクリートの、手入れの行き届いた建物。一階の歯科医院は、亡くなった父親がやっていた頃よりもさらに評判を上げている。 「父の代よりも、弟になってからの方が経営は安定している。……自由になるお金? 今なら三千万くらいは、すぐにでも用意できるわ」
三千万。 あきらが一生をかけて積み上げるような重みが、広報の女の口からは、まるで午後のコーヒー代を払うかのような軽やかさで語られる。 「銀行に行けばあるもの。それを使って、守るべきものを守る。それだけの話よ」
広報の女の世界には、あきらが溺れている「感情の泥沼」など存在しない。あるのは、手続きと、資金と、それによって守られる静かな秩序だけだ。
「もし、彼女との話し合いで決着がつかないなら。あるいは、彼女がまたエゴであなたを縛ろうとするなら」
広報の女は淡々と、けれど逃げ場のない選択肢を提示した。 「探偵でも弁護士でも、私が手配してあげる。あなたは、自分の人生を取り戻すことだけを考えればいいの」
その圧倒的な「現実」の提示に、あきらは抗えなかった。広報の女が味方でいてくれるなら、金も力も貸してくれるというのなら、ユキという不安定な過去を、ついに断ち切れるのではないか。そんな錯覚が、彼を支配していく。
「……調整してみるよ。彼女がいつ、会ってくれるか分からないけど」
あきらは、冷蔵庫の奥で冷え切っている『コロロ』の袋を思い浮かべた。 五月の車内の匂い。喉を鳴らしたユキの呼吸。八月のLINEで拒絶され、死の恐怖さえ感じた体調不良を訴えてもなお、ついに届かなかった彼女の心。
「そう。自分から動くのよ。答えは、彼女の喉の奥じゃなく、あなたの手の中にしかないんだから」
広報の女の穏やかな声が、呪文のようにあきらの脳内に響いた。40代を目前にしたあきらは、広報の女が手渡してくれた「正論」という名の、毒を含んだ処方箋を飲み下した。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




