第2章|六月の余韻(愛だけが残る)
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
正確には、日常が「形」を失ったのは四月だった。 月、水、木。その規則正しい空白があきらの身体に染み込んでいたのは、ユキが咽頭浮腫で入院する四月までのことだ。それ以降、あきらの日常には、呪いのような違和感が居座り続けている。
五月、彼女が退院した直後に一度だけ、イオンの広い駐車場で待ち合わせた。 車内の狭い空間。エンジンを切った車内には、再会した二人の体温だけが充満していた。言葉を交わすよりも先に、飢えたように肌を重ねた。ユキはまだ喉を気遣うように、微かな吐息だけを漏らしていた。
そのあと、二人でイオンの食料品売り場を歩いた。日常を演じるような、短い逃避行。 あきらは今でも、その時に買ったお菓子の『コロロ』を一袋、自宅の冷蔵庫の奥に眠らせている。
食べれば消えてしまう。捨てれば縁が切れてしまう。 冷えた袋に指が触れるたび、あの五月の車内の匂いと、自分を受け入れてくれた彼女の細い指先を思い出すのだ。彼にとって、その一袋は賞味期限のない「愛の証」だった。
だが、それっきりだった。
八月六日の午後。あきらは「ユキーーー!!!」と叫ぶようなメッセージを送る。 通院でバタバタしていたことを伝え、「ユキが不安定な時に役立てずごめんね」と謝罪した。 だが、ユキの返信は「前向いて楽しんで!私も前むく」という、突き放すような明るさだった。
「これなに?あてつけなのかな?」 食い下がるあきらに、ユキは「赤の他人にベラベラ喋るの嫌なんだわ」「自分で消化してほしい」と冷たく言い放つ。 あきらが「俺にとっては大切な仲間だから」と訴えても、ユキは「大事な仲間でも、私は話しない。性格の差だよ」と一蹴した。
翌日の七日。あきらは諦めきれず、お菓子の話題を振った。 「もう要らないかな?必要なら買っておくよ」 ユキは「もう、好きなやつは廃盤になったみたい」と答える。 「あ~あ、じゃあ俺となりのコロロ買って帰る」 あきらはそう返し、あの五月の思い出に必死に縋り付いた。ユキが「廃盤」という言葉に込めた「もう終わったこと」というニュアンスを、彼は必死に無視し続けた。
八月二十四日。二人のやり取りは、決定的な亀裂を迎える。 夜、あきらは「とーもーこーちゃーん」と何度も呼びかける。 ユキは「言いたいこと伝わったよ」と応じつつも、「私なんて好きになる価値ないよ。やめたほうがいい、性格悪女」と自虐的な言葉を並べ、「今まで付き合ってくれて本当にありがとう」と別れを告げた。
あきらは「全部受け止めるぜ」と食い下がるが、ユキは「それが嫌で」とはっきり拒絶する。 あきらが「もっかい付き合ってくれ」と懇願しても、ユキは「性格直したいって言うか、自分らしく居たいかも」と譲らない。 あきらは結局、「父親目線みたいに勝手になってたかも。すまん。やめる」と引き下がるしかなかった。
しかし、引き下がったはずのあきらの均衡は、その直後に音を立てて崩れた。 二十五日の夜。心臓を直接掴まれたような圧迫感に、あきらの呼吸が浅くなる。冷や汗が止まらない。暗い自室で一人、彼はパニックに陥りながらスマートフォンを握りしめた。
「ユキの病気教えて!はじめ息苦しくなる?昨日の夜から呼吸が辛いんだけど」
かつてユキを苦しめた喉の病。その「苦しみ」を共有することでしか、彼女と繋がっていられない。そんな無意識の執着が、彼の身体を蝕んでいた。 二十六日、ユキは「喉の痛みと締め付けだった」「水も唾も飲めないから全部吐く」と淡々と自身の症状を教え、救急車を呼ぶ判断基準を画像で送ってくれた。それはかつての愛への情けではなく、調剤薬局で働く医療従事者としての、あまりに事務的で冷ややかな「正しさ」だった。
体調が悪化し、死の恐怖に怯えるあきらに対し、ユキは追い打ちをかけるように提案する。 「ワンオクのチケット、欲しいよね? 私は行かない。分配するね」
「ユキといけたら、死んでもいいかなと」 そんな重い想いを吐き出したあきらを、ユキは透明な壁の向こうから眺めるように一蹴した。 「お金はいらないよ。お金とかもうどうでもいい」
「どうでもいい」という言葉の刃。 清算を急ぐユキの潔癖なまでの冷たさが、あきらをさらなる深淵へと突き落とす。彼女が自分を切り捨てようとすればするほど、彼は広報の女の用意した「盾」に縋らざるを得なくなっていく。
「これは整理なんだ。君のためなんだ。誠実な決着なんだ」
自分に言い聞かせながら、震える指で打つ「正論」のLINE。 だが、その送信ボタンを押すたびに、あきらの心からは彼自身の柔らかな言葉が消え、広報の女の冷徹なロジックが空白を埋めていった。
八月二十八日の午後。 返信のない画面に向かって、あきらは半ば狂気的な呼びかけを繰り返す。 「おーーーーい!ユキ、大丈夫か?元気か?」 「元気なら既読つけておいてくれよおー、じゃないとLINE電話しちゃう」
冷蔵庫の中で、五月に買ったコロロが冷え切っている。 それはもはや甘い思い出ではなく、古びた執着の化石だった。ユキは前を向き、あきらは心臓の異常と、消えない執着の間で喘いでいた。広報の女はそんな彼を、定例打ち合わせのサイゼリヤで、静かに、そして確実に見つめ続けている。
同じ頃、あきらは、自分を蝕んでいる「毒」の正体に気づかないまま、深い霧の中にいた。 コメダ珈琲のいつもの席。向かいには、完璧なアイラインを引き、一寸の乱れもない姿勢で座る広報の女がいた。
「あきらくん、浮かない顔ね。彼女、まだ黙っているの?」
広報の女はシロノワールに添えられたチェリーを、器用にフォークで避けた。 「……はい。連絡しても、既読すらつかない。そんな人じゃなかったんです。もっと、優しくて、思慮深くて……」
「それが彼女の武器なのよ。被害者という盾に隠れて、あなたの罪悪感を煽っているの。典型的な『操作』ね」
広報の女の声は、まるで催眠術のようにあきらの脳に染み込んでいく。 「いい、あきらくん。あなたは今、彼女を『守っている』と思っているかもしれないけれど、それは間違いよ。放置することは、彼女の依存を深めるだけ。あなたたちがかつて分かち合った時間の、最低限の弔い(とむらい)なのよ」
弔い。 その美しくも冷酷な言葉に、あきらの心は激しく揺れた。広報の女は「自分こそがあきらの唯一の理解者である」という立ち位置を盤石にし、ユキを「整理されるべき異物」として再定義させていった。
「もう一度、今度は『最後通告』として送りなさい。感情を排して、論理だけで。彼女が自分から逃げられないように。それは、あなたが彼女を本当に尊重しているという証拠になるわ。だって、大人同士の誠実な決着なんだから」
あきらは、広報の女の言葉を自分の意志だと勘違いしたまま、再びスマートフォンを握りしめた。彼は信じていた。この厳しい「正しさ」こそが、いつかユキを救い、自分たちの過去を浄化してくれるのだと。
広報の女の言葉は、あきらの心に深く突き刺さる。 「でも、返信は来るんだ。無視されてるわけじゃない」 「それは、彼女の『マナー』であって『愛情』じゃないわ。あきらくん、今のあなたは、彼女の生活のノイズになっていることに気づくべきよ。先のことは、今は一緒に考えなくていい。私が整理してあげるって、言ったでしょう?」
「……ああ」
あきらは、広報の女の用意した「正論」という殻の中に逃げ込む。 広報の女は知っている。ユキが冷たくなればなるほど、あきらの依存先が自分へとシフトしていくことを。
この頃から、あきらの送る言葉の中に、妙に乾いた「正しさ」が混じり始める。 「ユキ。今の僕たちの関係について、一度、社会的な誠実さを持って整理すべきだと思う。あいまいな関係を続けることは、君にとっても不誠実だ」
ユキは、薬局のカウンターの陰で画面を見つめ、指先が冷たくなるのを感じた。 (……これ、本当にあきらくんが書いてるの?) あきらの言葉なのに、あきらの温度じゃない。正論だけで組み立てられた、隙のない文章。ユキは、送られた瞬間に理解していた。 ――誰かが、後ろにいる。
かつて喉を傷めた自分に「目が合えばわかる」と言ってくれた彼ではない、別の冷徹な知性が、彼の指を使って自分を裁こうとしている。ユキの身体は、その違和感に、本能的な拒絶を始めていた。
(……訴えないで)
不意に、言葉が口から漏れそうになった。 今の自分は、あきらに何をされるか分からない恐怖よりも、彼が「自分を攻撃することに疑問を抱いていない」という事実の方が、何倍も怖かった。
「ねえ、あきらくん。誰にそんなことを言われたの? 誰に、私のことを吹き込まれたの?」
画面越しに伝わってくる、あきらの温度のない殺意。それは、彼自身の意志ではないことを、ユキの身体は分かっていた。だからこそ、その背後にいる「正体の見えない何か」が、彼女の日常を浸食していく。
(命綱だと思っていたのに)
かつては、彼と繋がっていることだけが、彼女をこの世界に繋ぎ止めていた。 けれど今は、その命綱が首に巻き付き、じわじわと締まっていく。あきらが「誠実さ」を口にするたびに、ユキは息ができなくなる。
「終わるなら、どうか静かに終わらせて。お願いだから、私の大切な記憶を、これ以上汚さないで」
九月が終わり、十月が近づく。 すべてを終わらせるための「最後のエスカレーター」まで、あと一ヶ月。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




