第1章|終わりの輪郭、あるいは空白の始まり
大きな事件なんてなくても、人の心は静かに変わっていく。
気づけば、昨日まで当たり前だったものが、今日は少しだけ遠い。
忙しさに紛れて見ないふりをしてきた違和感が、ふと輪郭を持つ瞬間がある。
この物語は、その“気づき”の手前で揺れる女性たちの話だ。
誰にも言えない心の温度を、そっと思い出すように読んでほしい。
洗面台の鏡の裏。その一番隅に、場違いなほど質素なジュエリーケースが置かれている。 ユキは朝のルーティンを終え、歯ブラシを戻すついでに、指先でそのケースの冷たい角を一度だけなぞった。
開ける必要はなかった。中にあるのは、かつて左手の人差し指を飾っていた、細いシルバーリングだ。 薬指ではない。自立と意志を象徴すると言われるその指に、彼女はあえて自分のための指輪を嵌めていた。それは彼との繋がりを示すものではなく、彼と一緒にいる「自分」を支えるためのお守りのようなものだった。
それを外した瞬間のことは、驚くほど記憶にない。ドラマチックな絶望があったわけでも、劇的な別れ話があったわけでもなかった。ただ、ある朝ふと、「ああ、もうこれをお守りにする必要はないな」という、ひどく乾いた納得が降りていただけだった。
「終わる」ということは、激しい衝突ではなく、こうして静かに、生活の端から色が抜けていくことなのかもしれない。 ユキは洗面所の照明を消し、静まり返った部屋をあとにした。
ようやく日常の歯車が、重く、ゆっくりと回り始めた。 パート先である調剤薬局の仕事が終わるのは、いつも13時過ぎ。白衣を脱ぎ、ロッカーの鍵をかける金属音が、今日という日常の「前半戦」が終わった合図だ。
かつての自分のスケジュール帳には、不自然なほど規則的な空白があった。 月、水、木。13時に上がり、軽く昼食を済ませ、彼――あきらと会う。16時には解散。娘が学校から帰ってくる前に、何食わぬ顔でスーパーの袋を下げ、「お母さん」の場所に戻る。 それが一番、互いにとって都合がいいはずだった。あきらという存在は、ユキの平穏な日常の隙間にだけ許された、期間限定の贅沢品のようなものだったのだから。
しかし、その空白がある日、暴力的な力で塗りつぶされた。 咽頭浮腫。 喉の激しい腫れに襲われ、呼吸すらままならない恐怖。緊急入院、そして手術。 幸い経過は良好だったが、術後の彼女を待っていたのは、一切の発声を禁じられた静寂だった。
夏の日差しが容赦なく降り注ぐ外の世界を、病室の窓越しに眺めるだけの時間。娘を送り出したあとの、静まり返った自宅での療養。自分の呼吸音だけが耳に障るような日々。その間、あきらの時間は、ユキの生活から完全に切り離された。
入院中の病室、手術後の喉の灼けるような痛み、そして「話してはいけない」という物理的な制限。 それらはユキに、残酷なまでの冷静さをもたらした。 それまでは、起きている時間の多くを、彼とのコミュニケーションに費やしていた。LINEの返信を考え、会えない理由を説明し、自分の感情を彼が理解できる形に、丁寧に、根気強く噛み砕いて差し出す。
(私は、ずっとこの人に、説明しすぎていたのかもしれない)
自分の感情、家庭の事情、会えない正当な理由。 彼に理解してもらうために、言葉を尽くし、時間を削り、自分をすり減らして「翻訳」を繰り返してきた。けれど、療養生活で彼と共有しない時間を積み重ねたとき、そこには「あきらを戻す場所」がどこにも見当たらなかった。
彼にとっての「特別枠」から、無害な「日常枠」への格下げ。 それは、ユキが自分という個体を守るための生存本能に従って選んだ、静かな防衛策だった。もはや、彼に説明するための言葉を絞り出すエネルギーは、今の彼女には残っていなかった。
スマートフォンの画面が、テーブルの上で無機質に光る。 あきらからのLINEだった。
以前の彼なら「お疲れ様。今日も暑いから、無理しないでね」といった、柔らかな、時に甘ったるい言葉を並べていたはずだった。だが、八月に入ってからの彼のメッセージは、どこか様子が違っていた。
「ユキ。柴犬を飼うことや、北海道と沖縄の旅行計画、北海道のおじさんのおうちのこと……これらは未来に対する契約不履行と同じだ。誠実に整理すべきだと思う」
ユキは画面を見つめたまま、喉の奥がまた腫れ上がるような圧迫感を覚えた。 あのLINEは、あきらの言葉なのに、あきらの温度じゃなかった。 正論だけで組み立てられた、一分の隙もない文章。
(……これ、本当にあきらくんが書いてるの?)
画面の向こうに、彼の指を動かしている「別の誰か」がいる。その冷徹な異物感に、ユキの身体は、指先からじわじわと這い上がってくるような生理的な拒絶を始めていた。
あきらと広報の女が会うのは、月に一度の「定例打ち合わせ」の日だけだ。 場所は決まって、人目のあるサイゼリヤかコメダ珈琲。そこは彼らにとって、単なる仕事の延長線上の空間であり、公的な「打ち合わせ」という名目があれば、周囲の目を気にせず向かい合える安全な場所でもあった。
ドリンクバーの結露したグラスを前に、あきらは仕事の話もそこそこに、堰を切ったようにユキの話を始めた。 「ユキとはさ……先のことも含めて、一緒にいられたらいいねって、ずっと話してたんだ。入院中も、俺なりに支えてきたつもりだったんだけど」
あきらが無邪気に、そして残酷に放ったその言葉に、向かい合わせに座る広報の女の指が止まる。 (将来を前提にした関係……) 広報の女は心の中でその言葉をなぞる。それは彼女にとって、自分が管理していない「未知の未来像」の存在を意味していた。広報の女という女性にとって、コントロールできない他者の感情や未来は、排除すべき「ノイズ」でしかない。
あきらはさらに続ける。 「ユキはさ、俺がどういう状態か、説明しなくてもわかってた気がするんだよね。喉の手術で声が出せなかった時も、目が合えばわかるっていうか。そういう理解の深さって、なかなかないだろ?」
サイゼリヤの安っぽい喧騒の中で、広報の女の背筋を薄ら寒い不快感が走る。 自分が整理し、翻訳してあげることでしか成立しないはずのあきらの内面が、自分の知らないところで、誰の手も借りず「無調整のまま」理解されていた。それは広報の女にとって、もっとも許しがたい、境界を曖昧にする危険な毒だった。
「正直、終わったって感じがしないんだよね」 あきらが縋るように零したその一言が、広報の女の決意を固めた。 ユキという「不安定な過去」を、完全に断絶させる役割を自分が担わなければ。
「あきらくん、それ、いっそユキさんを訴えればいいのに」 広報の女の声は、迷いもなく冷ややかだった。 「あいまいな優しさは、誤解を生むわ。一度、きっぱりした文章を送って境界線を引きなさい。これは攻撃じゃない。“教育”なのよ。大人の誠実なケジメとして、法的にも筋を通すべきなの」
広報の女が「お守り」と称して下書きレベルで示した文面の方向性を、あきらは「冷静で誠実な対応」だと思い込み、そのまま自分の言葉としてユキへ送信した。 彼は気づいていなかった。自分が「誠実さ」という名の正義を振りかざすたびに、ユキの心の奥深くにあった、彼への最後の信頼を静かに削ぎ落としていることに。
その瞬間、あきらの「未来」のハンドルは、彼の知らないうちに、広報の女の手へと委ねられた。 ユキが生存本能で彼から遠ざかろうとする一方で、広報の女は仕事の合間の打ち合わせという極めて日常的な風景の中で、あきらの思考を自分の管理下に凍結し始めていた。
ユキは、薬局の休憩室でスマートフォンを伏せた。 (お願い、攻撃するようなこと、もうしないで……)
返信できないまま、命綱だと思っていた彼との繋がりが、今は彼女を絡め取る不透明な糸に変わっていた。 あきらが「正論」を口にするたびに、彼自身の輪郭がぼやけ、代わりに知らない誰かの「正しさ」が彼を塗りつぶしていく。 その変貌を、ユキの皮膚は、触れられたくないものに不意に触れられるような、ざらついた生理的不快感として捉えていた。
大人になると、恋も別れも、声を荒げずに静かに終わっていく。
その静けさの中で、自分だけが取り残されたように感じることもある。
けれど、痛みの正体に気づいた瞬間から、人は少しずつ前に進める。
ユキの物語は、誰かの過去の記憶と重なるかもしれない。
読み終えたあなたの心に、そっと寄り添う余韻が残っていたら嬉しい。




