無色は、存在しない
この世界には、はっきりとしたルールがある。
名前を持たないものは、存在として扱われない。
それは法律でも、倫理でもない。
もっと静かで、もっと残酷な――
「当たり前」として根付いた世界の前提だった。
だから、彼女は数に入らなかった。
だから、彼女は記録に残らなかった。
だから、彼女は誰にも呼ばれなかった。
少女は、白い部屋にいた。
壁も床も天井も、すべて同じ色。
正確には“色がない”。
目に映るはずなのに、記憶に残らない色。
少女自身も、同じだった。
鏡の前に立っても、自分の輪郭が曖昧だった。
顔立ちは整っているはずなのに、
見ようとすると、意識が滑る。
「……?」
自分の声が、少し遅れて聞こえる。
声はある。
体もある。
感覚も、確かにここにある。
それなのに。
「……わたしは」
その続きを、少女は言えなかった。
自分を呼ぶ言葉を、知らなかったから。
研究員たちは、彼女をこう呼んでいた。
――無色。
名前ではない。
ただの分類。
「無色個体、状態安定しています」
「感情反応、規定値以下」
「観測、継続可能」
彼らの視線は、彼女を“見て”いない。
見ているのは、数値と結果だけだ。
少女は、そのことを理解していた。
理解してしまう程度には、賢かった。
だから泣かなかった。
泣いても、誰にも届かないと知っていたから。
それでも。
夜と呼ばれる時間。
部屋の照明が一段階落とされる、その瞬間だけ。
少女は、胸の奥が少しだけ痛くなる。
理由はわからない。
言葉も、ない。
ただ、思う。
――呼ばれたい。
誰でもいい。
正しくなくていい。
間違っていてもいい。
ただ一度でいいから。
「ここにいる」と、
誰かに認識されたかった。
その願いが、
どれほどこの世界にとって異物なのかを、
少女はまだ知らない。
そして、この“無色”が、
やがて誰かの世界を壊すほどの光になることも。
この時点では、
誰も知らなかった。




