兄の友人
アナベルがバルコニーで夜風に当たっていると、宮廷楽団が奏でる重低音が聞こえてくる。音楽が流れ出したということは、高位貴族が場を収めてくれたのだろう。
目的は達した。自分を貶めた二人を叩き潰してやった。問題はこれからだ。
(……さて、どうしようかしら)
公衆の面前で婚約破棄された娘は、良縁に恵まれることはない。
覚悟はしていたから後悔はない。けれど、両親に親孝行ができないのは心残りだ。
今夜、アナベルは傷物令嬢の烙印を押された。それでも嫁に迎えたいという奇特な男性など、まずいない。もしいたとしても、後妻か、複数の愛人を囲う男の新しい愛人か、ろくでもない相手ばかりなのは確定だ。
(わたくしはもう結婚に夢は見ない。見ることなんて、できない)
このまま社交界にいても、腫れ物扱いされるぐらいならば。
兄が提案してくれたように、領地に引きこもったほうがいいかもしれない。両親は優しく迎えてくれるだろうし、王都から離れた土地なら悪評は届かない。
(帰ろう……かしら。領地でのんびりと余生を過ごし、好きなことを研究して、領民の生活を向上させるのも悪くないわよね)
冷たい風が吹き抜け、思わず身を震わす。
両腕をさすっていると、ふわりと男物の上着を肩にかけられた。
嗅ぎ慣れた香水だ。はっとして振り返る。
「やあ、アナベル。あの二人は宰相閣下に引き渡してきたよ。大役お疲れ様」
上着がずり落ちないように胸元で押さえながら、アナベルは穏やかに微笑む兄を見上げた。
「ありがとうございます。結局、大口を叩いておきながら、お兄様の手をわずらわせてしまいました……。面目ないです」
「気にしないで。警備兵に引き渡すぐらい誰にでもできる。アナベルは十分に役目を果たしたよ。我が妹ながら立派だった。それに兄としては、もっと頼ってくれたほうが嬉しいものだよ」
「そういうものですか……?」
「そういうものさ」
大きく頷かれるのがおかしくて、アナベルは笑みをこぼす。
「ところで、会わせたい人がいると伝えていたよね。早速だが、僕の友人を紹介させてくれ。少々気が弱いところもあるが、とてもいいやつなんだ。どうしてもアナベルと直接話したいと、前からお願いされていてね」
兄の後ろにいた男が前に出る。
淡い金色の髪は三つ編みにして前に垂らしている。顔の造形は美しいが、雪のように白い肌が印象的で、浮き世離れしたような青年だ。
がっちりと鍛えた兄と比べると、体の線が細い。貴族というより学者と言われたほうがしっくりとくる。
「こんばんは、アナベル嬢。二度目まして、ですね」
愛嬌のある笑みは、先日の印象とは真逆だ。
瑠璃色の瞳はきらきらと輝き、泣き黒子が独特の色香を放っている。
(儚げな美貌から気弱な性格を想像していたけれど……まるで別人だわ)
おどおどした様子もないし、背筋もぴんと伸びて、堂々とアナベルと目を合わせている。雰囲気が違いすぎて、アナベルは戸惑いがちに口を開いた。
「あなたは、リーデル伯爵令息の……」
「はい。レンブラント・デ・リーデルと申します。その節はお世話になりました。アナベル嬢がご助言くださったおかげで、円満に婚約を解消できました。このご恩は一生忘れません」
彼は片膝をつき、アナベルの手をそっと持ち上げ、手の甲に恭しく唇を寄せた。
淑女を尊重する紳士の礼だ。
けれど、ただの社交辞令とは違い、その瞳には温かな光が宿っている。恩義を感じているというのは本心だろう。
少々大仰な言い方だったが、彼の思いは十分に伝わってきた。
「ご丁寧にありがとうございます。ですが、偶然耳にした情報をあなたに流しただけですわ。わたくしの話を信じて行動に移し、家と領地を守ったのはレンブラント様です。わたくしの功績ではありません」
「いいえ。あなたに教えていただかなければ、僕は婚約者に命を狙われていたことにすら気づきませんでした。それどころか、遠くない未来、彼女に家を乗っ取られていたでしょう。アナベル嬢は僕だけでなく、リーデル家をも救ってくださったのです」
滑らかな口調で紡がれる内容を聞いて、ようやく合点がいった。
(……なるほど。婚約者がいる女性と込み入った話をするのは外聞がよくない。けれど、今のわたくしは晴れて自由の身。直接感謝を伝えたいレンブラント様と引き合わせるには今夜がちょうどよかった、ということね)
アナベルが納得していると、視界の端で兄がその場を後にするのが見えた。
話しやすいように二人きりにしてくれたのだろう。
たとえ気安い友人であっても、兄は不用意に男を近づけたがらない。その兄が信用するほどだ。相当気心が知れているのだろう。
悪女の噂があるアナベルが相手でも、無体な真似はするまい。不安材料があれば、絶対に二人きりにさせないはずだ。
「……その後、事業はいかがですか?」
何気なく世間話を振ったら、レンブラントがその言葉を待っていたとばかりに、すっくと立ち上がった。興奮が抑えきれない様子で前のめりになり、身振り手振りで説明を始める。
「聞いてください。魔窟の奥から潤沢な魔力結晶が採掘できまして! 討伐部隊と合同で採掘作業を進めております」
兄を通しての助言はちゃんと届いていたらしい。
元婚約者に振り回されて家族全員が意気消沈していると聞いたので、乙女ゲームの設定資料集にあった話を伝えたのだ。情報を活用してもらえたようで何よりだ。
今は特筆すべき資源がないが、あの土地はもっと栄える。
「まあ……。それはよかったですわ。とはいえ、これからが大変ですね。その資産を目当てに婚約者候補が群がってくるでしょうし。捌ききれないときは、お兄様をお好きなように使ってください。壁ぐらいにはなるでしょうから」
兄は社交的な性格なので、緩衝材にはもってこいだ。毎日筋力トレーニングを欠かしていないため、物理的にも壁役として役立つ。
友人のためならば、体ぐらい張れるだろう。
半分本気の軽口を言うと、レンブラントは意外にも真顔で否定した。
「アナベル嬢の兄君を壁にはできませんよ。僕の大事な友人でもありますから。それに、僕にはずっとお慕いしている女性がいますし」
「あ、あら。そうだったのですね。出過ぎた真似をしてしまい、失礼しました。その方と良縁が結ばれることを祈っておきますわ」
「は? あっ、ち、違います。僕がお慕いしているのはあなたですから!」
目元を潤ませながら訂正され、アナベルはフリーズした。
淑女の仮面を被ることすら忘れてしまう。それほどの衝撃だった。
一言も声を発せないでいると、恐縮したように、か細い声が謝罪の言葉を繰り返す。
「すみません、こんな風に伝えるつもりじゃなくて。……すみません」
レンブラントは余裕ある大人の男性から一変し、初対面と同じ情けない顔に戻っていた。





