存在しない悪役令嬢
「本当にいいのかい? 報復はできるだろうけど、アナベルの悪評が高まるよ」
「お兄様、お気遣いありがとうございます。ですが、今さら悪い噂が増えたところで何も変わりませんわ。だって、わたくしは悪女ですもの」
傲岸不遜の公爵令嬢、悪女アナベル。
数年ですっかり定着した自分の二つ名だ。婚約者を誘惑する子爵令嬢など見向きもしないし、目の前で派手に転んでも助けはしない。噂が一人歩きし、悪女の逸話は枚挙にいとまがない。
歩くたびに注目され、ひそひそと陰口を叩かれるのは慣れたものだ。噂を鵜呑みにする人間など、最初から深く関わるつもりはない。
そんな妹の心中を察してか、優しく諭す兄の声は労りに満ちていた。
「何を言うんだい? 君は高貴な血筋を引く、筆頭公爵家の娘だ。兄としてはこれ以上、妹に不憫な思いを強いたくない。領地に引きこもり、好きなことをしていいんだよ」
「まあ。お兄様には、わたくしが後始末を家族に丸投げするように見えまして? 心外ですわ。何事にもけじめは必要です。ここで逃げ帰るようなみっともない真似をさらすぐらいなら、潔く毒を呷りますわ」
覚悟ならば、とうにできている。
アナベルはにこりと微笑む。翠緑の瞳を揺らした兄は、がくりとうなだれた。
「頼むから命は大事にしてくれ。……わかったよ。気が済むまでやるといい」
「ご理解いただけて嬉しく思います」
兄と妹を乗せた馬車は、もうじき王宮に到着する。
ここは乙女ゲームの世界。婚約者が攻略対象の一人だと気づいたときには、すべてが遅かった。彼はすでに攻略されており、婚約破棄はもう秒読みだ。
アナベルが前世の記憶を思い出したのは、二週間前のことだった。
◆◆◆
前世の死因は過労死だった。
三十路をすぎてもプライベートは灰色のまま、社畜プログラマーとして日夜働いていた。突然の仕様変更、現場の声を無視した納期短縮は、もはや日常茶飯事。上司のわがままと尻拭いにも翻弄され、疲労は蓄積していくばかり。
たまの休日は泥のように眠ったあと、乙女ゲームで現実逃避を繰り返す日々。
十代は三徹も余裕だったが、三十代の体はいつも悲鳴を上げていた。だが納期は待ってくれない。仕方なく気力と栄養ドリンクで乗り切ろうとしたが、見通しが甘かった。
あのときの判断を後悔しても、時すでに遅し。
睡眠負債を抱えた体に連日の疲労が重なり、ついに限界を超えてしまった。未練をたっぷり残したまま、前世の人生はあっけなく強制終了した。
前世の記憶は夢で思い出した。
いつもなら目覚めて砂のように薄れていく記憶が、なぜか鮮明なままだった。死ぬ間際までやっていた乙女ゲームと現実の類似点はあまりにも多く、あれは夢ではないのだと第六感が告げていた。
(……異世界転生って本当にあるのね。いえ、そんなことよりも、もっと重要なことがあるわ。なぜわたくしが『存在しない悪役令嬢』になっているの?)
根本的におかしいのはこれだ。
この乙女ゲームは、ライトノベルにありがちの悪役令嬢は登場せず、ピュアな学園恋愛モノとして人気を集めていた。初心者ユーザーにも優しい設計で、好みの男性を攻略し、疑似恋愛を楽しむという単純なストーリーだった。
だというのに、アナベルは立派な悪役令嬢として学園で名を馳せている。
(不可解な点は他にもあるわ。今、ヒロインの立ち位置にいるのはヘンリエッテ。でも、彼女は名前すらないモブの一人のはず。……信じがたいけれど、わたくしはどうやら嵌められたようね……)
腹立たしいが、そうとしか考えられない。
攻略対象の中で婚約者がいるのはエフモントだけだ。政略的意図による婚約なので、お互いに恋愛感情はない。婚約中の二年間、最低限の付き合いしかしてこなかった。
貴族の結婚の多くは政略結婚だ。正妻は家を存続させるために嫡子を産み育て、夫は別宅に愛人を囲う。まれに妻一筋という貴族男性もいるが、基本的に夫婦間の愛情は冷え切ったものだ。何も珍しいことではない。
(……これが貴族社会の常識。頭ではわかっていたけど、愛人を囲む前提の結婚なんて嫌すぎる。エフモントだって婚約者の目の前で、堂々といちゃいちゃしていたし。「真実の愛を見つけた」と言えば、すべてが許されるとでも? 冗談ではなくってよ!)
愛人に正妻の座すら奪われる。こんなことが許されていいはずがない。
一方的な婚約破棄を唯々諾々と受け入れ、社交界から姿を消す。モブだろうがなんだろうが、そんな惨めな役に付き合う義理や義務はない。どんな大金を積まれようと、どれだけ大粒の宝石を持ってこようと、決意は変わらない。
(ん? ちょっと待って。ゲーム内ではエフモントに婚約者はいなかったはず。この婚約は二年前、エフモントの実家がうちを頼ったことから始まったもので……)
ヘンリエッテの入学は二年前だ。
これは偶然だろうか。まさか、最初から仕組まれていたのだとしたら。
(……なんて性悪な女なの!? あんたのほうがよっぽど悪役令嬢じゃない……っ)
まずは状況整理が最優先だ。現時点で、大きな問題は三つ。
一、攻略対象は揃っているが、肝心のヒロインが学園に入学していない。
二、ヒロインになりすました転生者が攻略対象たちの好感度を上げまくり、ハーレム状態を作っている。
三、同情と注目を集めるために、アナベルを悪役令嬢に仕立てた。
(ヒロインになりすました挙げ句、意図的に悪役令嬢役を作り上げた時点で、全然ピュアじゃないけれど。なにかしらね、この嫌な感じ。攻略サイトを徹底的に読み込み、一度ですべてのフラグを回収すると誓ったような執念を感じるわ……)
ヘンリエッテは間違いなく転生者だ。
執事に調査させたところ、「お寿司もラーメンもハンバーガーもない世界なんて、本当に信じられない。こんなことなら、もっと食べまくればよかった……」とつぶやいていたと報告があった。
一人だけならまだしも、一度に複数を同時攻略なんて荒技、相当ゲームをやりこんでいなければ不可能だ。
(ああもう、どうして今はゲーム終盤なの? 完全に出遅れじゃない。このわたくしを悪役令嬢にするなんていい度胸ね。本当に不愉快だわ!)
やたら目の前でビービー泣く小娘だと思っていたが、あの女の目的がわかった今、不可解な行動も説明がつく。ヘンリエッテが勝手に転び、悪口を言われたと吹聴し、あることないことを周囲に訴えた結果、アナベルは立派な悪女になった。
くだらない噂は尾ひれがつき、最近ではすべての原因が自分のせいになっている。ばからしい。
(まったく、好き勝手やってくれたわね。婚約者の切り捨ては確定だけど、ただでは終わらせないわ。今度の舞踏会は攻略対象が全員集まる絶好の機会──あの女の化けの皮を剥いでやる。ついでに浮気者の婚約者にもおしおきが必要ね)
乙女ゲームのアナベルに転生した今、麗しい美貌を手に入れた。前世の陰険なオーラは消え失せ、公爵令嬢に恥じない教養も身に付けた。もう過去の自分とは違う。
浮気者の惚れっぽい男など、こちらから願い下げだ。
もっといい男を見つけて、前世の分まで人生を目いっぱい楽しむのだ。
まだまだ人生はこれからだ。
「フフッ……。わたくしを悪役にしたこと、後悔させてあげるわ」
婚約者に捨てられて、みっともなく泣き寝入りなんて誰がするものか。
アナベルを敵に回せばどうなるか。こちらには権力も財力もあるのだ。子爵令嬢の小娘とはワケが違う。あの女の思い通りになどさせない。
「せっかく指名されたのだもの。期待に応えなければ……ね?」
アナベルは一人がけのソファの上で足を組み替え、チェス盤に並ぶ駒の中からクイーンをつまみ上げた。透明感のあるクリスタル製の駒を手の中で転がしたあと、そっと盤上に戻す。
指先でピッと弾くと、クイーンとともに他の駒も転がる。
その様子を静かに見下ろし、アナベルは口の端をつり上げた。
「──いいわ。悪女らしく華麗に叩きのめしてみせましょう」





