湖はみている
「知ってる? 月夜の晩に、町はずれにある『祈りの湖』にコインを投げて、望みを強く願ったら、叶うらしいよ」
ある町には、古くから「祈りの湖」という言い伝えがある。
その湖は、町の片隅に昔から存在している、慈悲深い水の女神が住んでいるとも噂されている湖だ。
月夜の晩にはほぼ毎夜、様々な人がコインを投げている人気スポットだという。
今宵もまた、一人の少女が、月夜の静寂の中で湖に足を運んでいた。
その子の名前はルナ。
父親に捨てられ、母と二人暮らしなのだが、母はいつも仕事ばかりで、学校から家に帰っても「おかえり」を言ってくれる人がいない孤独な少女である。
しかし、母がいくら仕事をしても、その日食べるパンにすら困るほど、貧しい暮らしをしているのだ。
(貴重なお金……お祈りなんかに使ったら、ママ怒っちゃうかな……)
ルナがその夜持ってきたお金は、母が必死になって働いたお金をこっそり盗んだものだ。
ルナ自身がお金を稼ぐ方法なんて知らない。
それでも、「祈り」という少しの希望を信じていたい、その願いが、少女を湖へ突き動かしていた。
湖の前に、ルナは立った。
言い伝え通りにコインを投げ、お願いしようとしたが、その手はすんでで止まった。
なんだか、ここでお願いしたら戻れなくなるような気がして。
それに……と湖の底を見ようと目を凝らした。
湖には、たくさんの人がお祈りに来ている。
つまり、この底には、数え切れないほどのコインが落ちているはずだ。
(ここに潜って、底のコインを取ってきた方が、ママも喜ぶのかな……?)
そんな考えが脳裏をよぎる。
ふとルナは、母との会話を思い出した。
『悪いことをしている人は、必ずそれ相応の罰をくらうものよ。だから私は、貧しくてもお金を盗むような卑怯なマネはしないの』
(そう……そうだよね、ママ)
湖の底のコインを盗む、という悪い考えはそこで消え失せた。
しかし、それでもルナが持ってきたコインは母のものだ。
(……諦めよう)
母のコインを勝手に使うわけにはいかない。
ちゃんと返して謝れば、許してくれるはずだ。
ルナはそう考え、引き返そうと湖に背を向けた。
その時、こちらに歩いてくる一人の男の人とばっちり目が合った。
その人が履いているズボンのポケットは、重なったコインの形に丸く膨らんでいる。
お祈りに来たのだろうか。
男の人は、ルナが一人でこんな夜中に町はずれの湖に居るのを見ると、たまらず声を掛けた。
「君もお祈り? どうして一人だけで来たの?」
突然話しかけられ、ルナはしどろもどろになって答えた。
「あ、あの、パパがいなくって、ママが一人で働きながら私の面倒を見てくれてるんだけど、貧しくて……だから、『普通の家族になりたい』ってお願いしようとしたんだけど、お金、もってないからママのお金をちょっとだけ使ってこっそりお祈りしようとしたの。でも、今考えたら悪いことだから、やっぱりやめておこうかな……ってなってて……」
ルナのしどろもどろな説明も、男の人は分かってくれた。
「そっか、偉いね。……じゃあこれ、帰りに何か買おうと思って持ってきてたお金だけど……一枚あげるよ」
男の人は笑ってそう言い、ルナの手に一枚のコインをそっと握らせた。
意外な言葉に、ルナは思わず顔を上げる。
「いいの!?」
「うん。一緒にお祈りしよう」
ルナは手の上のコインをまじまじと見つめた。
新品同様なのか、月光を反射してほのかに輝いている。
ルナは男の人と共に、湖へ引き返した。
その水面は、さっきより違うように見えた。
さっきまではお願いや湖の底に気を取られて気づいていなかったが、その湖面は輝いていた。
夜空の大小の星の光や一際目立つ月光が真っ暗な水面に反射し、幻想的な光を放っている。
その様子はまるで、人生のどん底に差し込む光のように見えた。
「綺麗。『慈悲深い水の女神』が住んでいるって言われるのも、ムリないや」
隣に立った男の人がそう独り言ちる。
その刹那、光り輝く一筋の何かが、水面にちゃぽんと入った。
男の人が投げて、月光に照らされたコインだ。
男の人は水紋を月が照らす様子を見ながらお祈りした。
ルナもそれにならい、コインを投げた。
自らの手から放たれた閃光が水面に真っ直ぐ落ちていく。
ルナはそれを見届けると、ゆっくりと手を組んでお祈りした。
(慈悲深い水の女神様。どうか、私の家族を救ってください)
すると、水面に一筋の光が横切った。
コインではない。
驚いて上を見てみる。
「わぁ……!」
そこには、はるか大きい、包み込まれるような夜空があった。
宝石箱にあらたな輝きを追加するように、銀色の流れ星も現れては消えている。
今の一筋の光の正体は、きっとそれだろう。
「お祈りは終わった?」
隣で男の人が声を掛けてきた。
「まだ!」
ルナは力強く返すと、夜空に向かってもお祈りをした。
❈
数週間後の夜、町はずれの「祈りの湖」には、見違えるほどに元気になったルナが立っていた。
一体何があったのか。
ルナはお祈りをした翌日、学校でたくさんの人に話しかけた。
今まで「住んでいる世界が違う」と中々クラスメートに話しかけることができなかったのだが、ルナの「普通の家庭像」は、「学校が終わったらまず友達とおしゃべりしながら帰ってきて、その後も遊んで、帰ってくる頃には夕食ができ、家族と一緒に食べる」というものがあった。
そのため、クラスのおしゃべりたちにならい、些細な事の会話を積み重ねていったのだ。
すると、気が合ったクラスメートが、一人二人とルナの友達になっていった。
方向が違うために一緒に帰ることは叶わなかったが、放課後、一緒に公園などに集まって遊ぶことができる程の仲になった。
さらに、ルナが眠るころに帰ってくる母との数少ない会話の時間は、その友達の話でもちきりだった。
娘が瞳を輝かせて友達との話をするたび、母は、以前よりも晴れやかな気持ちになった。
ルナ自身も、自らの母の笑顔が増えたことを感じ、喜んだ。
そうして以前より晴れやかになった母は、仕事への活力が幾分か増し、さらに打ち込めるようになった。
それも、娘の友達の話というささやかな楽しみができたからだ。
そして、その態度が功を奏したのか、母は職場で少し昇進し、給料も上がったのである。
そのおかげで、勤務時間も少しだけ減らすことができ、さらに生活も少しだけマシになったのである。
少しだけの変化かもしれない。
だけど、ルナは満足だった。
だって、「普通の家庭像」に一歩近づいたから。
その感謝を伝えに、その夜も「祈りの湖」に来ていた。
手には、母からもらった少しだけのお小遣いの一部であるコインが一枚。
それを投げた。
あの日と同じような閃光が湖面に飛び込む。
月光に照らされ光る水紋を見届けると、手を組んで心の中で唱えた。
(慈悲深い水の女神様。ありがとうございました。あなたのおかげで願いが叶って、私は今、とても幸せです)
充分に感謝を伝えると、ルナは湖に背を向け、家路に着いた。
その後ろでは、湖が、星が、月が、それを見送るように輝いていた。
少女ルナは気づいていない。
湖が与えたのは希望だけ。
願いを叶えたのは、他でもない自分自身だということを。




