第3話~奇跡の裏側にある現実
最初に燃えたのは、紙だった。
オフィスの一角。
倒れた書類棚からこぼれた資料に、火が移った。
紙は、あっけないほど素直に燃える。
抵抗も、ためらいもなく、ただ燃え広がる。
――あの時も、そうだった。
止められると思った。
間に合うと、疑わなかった。
*
都心の雑居ビル。
平日の昼。
昼休みと打ち合わせが重なる時間帯。
煙は階層を選ばずに上がり、
非常階段は途中で塞がれ、
エレベーターは沈黙する。
窓際に、顔。
その奥にも、顔。
さらに奥に、影。
〈助けて〉
〈ヒーローは〉
〈まだ来ないの?〉
スマートフォンが向けられる。
救助要請よりも先に、
「期待」が立ち上がる。
*
平蜘蛛一縷は、ビルの前に立っていた。
消防のホース。
規制線。
怒号。
熱。
炎が、肌を殴る。
――来た。
――来てしまった。
胸の奥で、二つの声が重なる。
ここには、
「一人を救えば終わる」現場はない。
それでも――
それでも、彼は来た。
一人でも多く、助けたい。
それだけが、彼をここに立たせていた。
*
〈ヒーロー来た!〉
〈今度こそ全員だ〉
〈奇跡を見せて〉
歓声に近い声。
祈りに近い要求。
平蜘蛛は、一歩、踏み出す。
救えるはずだ。
救わなければならない。
救いたい。
*
最初に助けたのは、
最も近くにいた男だった。
煙を裂き、
腕を掴み、
外へ。
男は咳き込み、
泣きながら、
何度も頭を下げた。
「ありがとう……ありがとう……!」
その声を聞いた瞬間、
平蜘蛛の中で、
何かが――止まった。
世界が、静止する。
耳鳴り。
視界の端が、欠ける。
――まただ。
体が言う。
ここまでだ。
*
だが、今回は違った。
背後で、悲鳴が上がる。
「まだいる!」
「上に子どもが!」
「ヒーロー、お願い!」
平蜘蛛は、振り返ろうとする。
――行ける。
――行けるはずだ。
一人でも多く。
まだ、助けられる。
だが、腕が動かない。
助けた一人の体温が、
腕に、胸に、
深く残っている。
重い。
離れない。
消えない。
――一人しか、持てない。
その事実が、
初めて、言葉として形を持つ。
*
そのときだった。
視界の端で、
小さな人影が、窓から外へ――
落ちる。
あの時と、同じ高さ。
同じ角度。
同じ、空。
――止まれ。
体が、そう命じる。
かつては、そうした。
あの時は、止まった。
だが今回は――
止まらなかった。
空中で“止まるはずだった体”は、
ただ重力に従い、
地面へ落ちていく。
――ドン。
鈍く、乾いた音。
肉と骨が、
世界に「終わり」を刻む音。
その音を、
平蜘蛛は聞いた。
助けた一人を抱えた、その腕の中で。
かつては救えたはずの落下が、
ただの「死」として処理される音。
胸の奥が、
ひび割れる。
*
消防が突入する。
だが、間に合わない階層がある。
窓が割れ、
黒煙が吐き出される。
落下は、もう一度起きる。
だが、
彼はもう、顔を上げられなかった。
救いたい。
それでも、
全部は救えない。
その矛盾が、
体を縫い止める。
*
結果だけが、夜に流れる。
死亡者、七名。
重傷者、複数。
ヒーローによる救助、一名。
数字は、
彼の願いを、
一切考慮しない。
*
SNSは、ざわついた。
〈少なすぎない?〉
〈ビル火災で一人?〉
〈奇跡、失敗?〉
擁護も、もちろんある。
〈無茶言うな〉
〈人間だぞ〉
〈それでも救った〉
だが、
今度は消えなかった。
数字が、
現実が、
炎の映像が、
称賛を押し潰す。
*
「……露骨だな」
一文は、報告書用の画面を閉じた。
「うん」
泡は、いつになく静かだった。
「“一人しか救えない”ってさ」
「……」
「優しさとしては最悪だよね」
一文は否定しなかった。
*
平蜘蛛一縷は、
その夜、一睡もできなかった。
目を閉じると、
助けた一人の体温と、
取り残された複数の声が、
同時に蘇る。
選んだ。
選ばなかった。
その差は、
彼の中で、もう消えない。
彼は、初めてそれを理解した。
あの、終わりの音。
それは、奇跡の裏側にある現実だった。




