第2話~奇跡という言葉
三人が死んで、一人が生き残った。
その事実は、数字にすると簡単だった。
ニュースも、速報も、そう扱った。
多重事故。
死亡者三名。
奇跡的に救助された生存者一名。
“奇跡”という言葉は便利だ。
残った三つの死を、ひとまとめにして覆い隠してくれる。
*
青年は、事故現場から少し離れた歩道橋の上に立っていた。
名前は、平蜘蛛 一縷。
細く、軽い。
強そうには見えない体躯と、伏せがちな視線。
そのどこにも、世間が期待する“ヒーロー”の像はなかった。
アスファルトに残ったオイルの匂いが、鼻につく。
焦げたゴム。
割れたガラス。
救急車のサイレンが、遠ざかっていく。
人だかりはほどけ、スマートフォンのカメラは次の話題を探し始めた。
彼の右手が、微かに震えた。
――助けた。
確かに、命をひとつ救った。
ストレッチャーで運ばれていく女性の体温。
彼女の指が、無意識に服を掴んできた感触。
生きている重さ。
それが、はっきりと残っている。
だからこそ、
同時に失われた三つの命が、消えなかった。
距離。
時間。
炎と衝突。
理由はいくらでも並べられる。
だが胸の奥に残ったのは、理屈ではなかった。
――選んだ。
自分が、そうした。
救う一人を、選び、
残りを、手放した。
喉の奥に、鉄の味がした。
*
SNSでは、再び彼の名前が拡散されていた。
〈また現れた〉
〈間に合った〉
〈やっぱりヒーロー〉
だが、その称賛の隙間に、微細なノイズが混じり始める。
〈三人死んでる〉
〈一人だけ?〉
〈助けられなかったの?〉
数は、少ない。
すぐに擁護の声が覆いかぶさる。
〈現実見ろ〉
〈神じゃない〉
〈十分すぎるだろ〉
だが、消えはしない。
水面に浮かぶ油膜のように、薄く、確実に広がっていく。
*
泡は、それを見て笑った。
「ね、始まった」
「何がだ」
「物語が、分岐するところ」
一文は黙って記録を続ける。
英雄譚は、
いつも“選ばれなかった側”から崩れる。
*
平蜘蛛は、それでも現場に向かい続けた。
転落事故。
線路内侵入。
倒壊寸前の老朽家屋。
結果は、ほとんど成功だった。
助けられた人は泣き、
カメラは彼を追い、
メディアは「連日の活躍」と見出しを打つ。
SNSのアンチは、再び影を潜めた。
英雄譚は、疑問を飲み込む。
だが、彼の中では違った。
助けるたびに、
身体が重くなる。
次は、どちらだ。
次は、間に合うのか。
その問いは、力への不安ではない。
選択への恐怖だった。
*
そして、その問いを無視できない現場が訪れる。
都心。
平日の昼。
ビル火災。
煙が階層を塞ぎ、
窓越しに助けを求める人影が映像で拡散される。
〈ヒーロー来て〉
〈早く〉
〈今度こそ全員助けて〉
画面の向こうで、
人々は“奇跡”を要求していた。
平蜘蛛は、炎の手前で立ち止まる。
熱が、皮膚を刺す。
息が、詰まる。
ここには、選択肢が多すぎた。
初めて、
“全員”という言葉が、現実的な刃を持つ。
彼は、一歩、踏み出す。
その背中を、
世界はまだ、讃えている。
その重さから、
もう、戻れないことを知らないまま。




