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リリアは、夕食の席で優雅にワインを傾けながら微笑みを浮かべていた。
その表情には余裕があり、まるでこの屋敷の主人であるかのようだった。
「やはり公爵家ですわね。年代物の良いワインがたくさんあるわ」
人の屋敷で高価なワインを当然のように飲んでいること自体、「誰が許したのかしら」と思わずにはいられない。
旦那様が不在の今、止められる者は誰もいないのだろう。
「それにしても。ステファニー様は地味な服しかないのね。もっと他に着る物はなかったのかしら?」
「これしか持っていませんので」
「まぁ……私のもので良ければ差し上げましょうか?そんなぼろ布のようなドレスより、少しはマシかもしれませんわよ」
嫌味なのは分かっているが、修道女というのは皆似たような服しか着ないものだ。
「ありがとうございます。ですが、リリア様のように華やかな容姿ではありませんので、派手なドレスを頂いても私には着こなせません」
「ふふっ、そんなに卑下なさらないで。きれいなドレスを着れば、もう少しは見られる姿になりますわ」
くだらない。話を先に進めてほしい。
いちいち反応したくなる言葉を、気合で呑み込む。
***
私は、リリアが旦那様にとってどのような存在なのか、彼女の口から説明を受けていた。
「それで、リリア様は城の夜会に参加されたのですね?」
「そうですわ。私がレイモンドのパートナーよ。聖女様はお忙しいでしょう?公爵夫人としての役目を果たしていなかったですし」
「……ええ、そうでしょうね」
私は静かに返事をした。
内心ではかなり不快だったが、過去の私は夜会に参加していなかったのだろうから、文句は言えない。
リリアはさらに続けた。
「王族主催の夜会には同伴の夫人が必要ですのよ?一人で参加なんてありえませんし。とても大変でしたわ、社交界で夫人の役目を果たすのは。レイモンドの仕事関係の方々ともお話ししなければなりませんしね」
挑発的な言い回しだ。「私があなたの代わりをしてあげたのよ」とでも言っているようだ。
「リリア様は従妹ですし、旦那様は、親族として同伴を願われたと受け止めればよろしいですか?」
リリアの顔色が変わった。
「親族?……ええ、まあ確かにそうね。ただ、私はレイモンドの母方の叔父、カバエヴァ伯爵の養女なんです。だから血は繋がっていないの」
神殿で読んだ貴族年鑑を思い出す。
カバエヴァ伯爵夫妻には子がなく、妻の縁戚から五人の養子を迎え入れた。三人の息子と二人の娘。その末の娘がリリアか。
「リリア様は末のお嬢様なのですね」
「ええ。末っ子だからとても可愛がられて育てられましたわ。父は貿易で成功していますし何でも買ってくれたわ」
ああ、確かに外国貿易で大きな富を築いたと書かれていた。
「こちらに住まわれているのはどうしてなのでしょうか?ご実家の領地は海の近くだったと思いますが」
「カバエヴァ領は海に面していて田舎だし、王都からは少し離れているの。それに、あそこは魚臭くって嫌だったわ。だから、王都にタウンハウスを持っているのよ」
「リリア様はそちらにお住まいではないのですか?」
「タウンハウスには兄夫婦が住んでいて、子どももいるの。それで、とても騒がしくて落ち着かないの。だから、レイモンドの屋敷には以前からよく遊びに来ていたのよ。覚えていないかしら?何度か屋敷でお会いしたでしょう?」
(覚えていることなんて何もないわよ)
「そうでしたか。旦那様とは仲がよろしいのですね」
「ええ、とても仲が良いの。ふふっ。彼はいつも私に贈り物をくださるのよ。夜会の前には必ず新作のドレスを、欲しい宝飾品も惜しまず買ってくださるわ」
彼女の発言には、どこか引っかかるものがあった。
聖女として忙しく過ごしていた私は、社交界に顔を出す余裕などなかった。
それが当然のことだと理解していても、言葉の端々に滲む皮肉が、胸に刺さる。
「まあ、社交に慣れていらっしゃらないから、ステファニー様はパーティーやお茶会に参加されることはないわよね。もし私が必要でしたらいつでも言ってくださいね。お手伝いできると思いますわ。今後もレイモンドと私は一緒に夜会に行くと思いますし」
私は冷めた顔で、食後のお茶を口に運んだ。
そしてゆっくりと告げた。
「ありがとうございます。けれど、今後は妻である私が同伴いたします。リリア様にお願いすることはないと思いますわ」
「はっ?」
「ええ。これまで旦那様は、私の代役としてリリア様にお願いしていたのでしょう?そのお礼にドレスや宝石を贈られたのではありませんか?」
彼女の顔がみるみる赤く染まり、瞳に怒りが宿る。
「まあ、聖女様ともあろう人が、そんな簡単なことも分からないの?」
「分かりませんわ。どうされました?感情的になるなんて、何か私が間違ったことを?」
彼女は苛立ちを押し殺したように、唇を噛んでいる。
「感情的ではありません。ただ、あなたの言葉が少し気になっただけ。レイモンドは私を選んだの。毎回私に頼んできたのよ?それって、そういうことですわ」
……なるほど。旦那様と「特別な関係」だと言いたいのね。
「私に記憶がないことはご存じでしょう?」
「ええ。そして魔力も失ったとか?ただの役立たずになってしまったのよね」
その瞬間、食堂の空気が凍りついた。控えていたメイドや給仕が、息を呑む音だけが静かに響く。
“役立たず”それは、公爵夫人の私への明確な侮辱だ。
けれど、感情に流されるほど、私は未熟ではない。
屋敷の者たちが見ている。だからこそ、私は微笑みを崩さない。
くだらない挑発。乗るつもりはない。
「ではお尋ねします。リリア様の話をまとめると、旦那様は妻を持ちながらリリア様に好意を寄せ、恋人として贈り物をしている、そういうことですか?」
リリアは口角を上げた。
「ふふっ、やっと気付いたのね。そうよ。レイモンドは私に好意を寄せているの。でなければ毎回同伴したり、屋敷に泊まらせたりしないでしょう?しかも夫人の部屋に、ですからね」
本当にそうなのだろうか?
彼は忙しいと言っていた。浮気をする時間などないはず。
だがそれが彼のついた嘘で、本当は彼女と関係があったのだとしたら?
「つまり旦那様は、浮気相手を妻の自室に泊まらせていると?」
もし、リリア様と密かに愛し合っていたのなら、正直言って女性の趣味が悪いにもほどがあると思った。
「考えればわかるでしょう?あなたたち夫婦はすれ違っていたし、あなた跡継ぎも産めなかったし。冷え切った関係だったのよね。それに、もう聖女でもないあなたがレイモンドと結婚を続ける意味なんてないでしょう?」
旦那様は、跡継ぎは必要ないと言っていたではないか。
確かに彼は「私たちの関係は互いに楽だった」と言っていた。
「承知しました。旦那様がお戻りになった折には、その件をきちんと確認いたしますわ」
「……は?」
リリアの眉がぴくりと動いた。ワイングラスを持つ指がわずかに強張る。
「確認?まあ……聖女様ともあろう方が、夫の気持ちさえ分からないなんて。お気の毒ですわね」
「ええ、ですから伺いますの。直接、旦那様に」
リリアの顔色がかすかに青くなった。
私は椅子を引き、すっと立ち上がる。
「では、ごきげんよう。夕食をご一緒できて光栄でしたわ」
余裕の笑みを浮かべたまま、私は食堂を後にした。
「あなたなんて、そのままずっと神殿にいればよかったのよ……」
背後でリリアがぼそりと呟く声が聞こえた。




