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私は、神殿を追い出されることになった。
会議の後、神殿内の重要な文書や記録が保管されている場所は物理的に封鎖され、神官たちの立ち入りが制限された。
表向きには神殿内での行動は自由とされているが、殿下の命令により、神官たちには「護衛」という名の監視が常に付いていた。
私はようやく、身動きの取れない環境から解き放たれ、ここを去る前に神官長へ挨拶をしに行った。
「私は公爵家に戻りたいと思います」
そう告げると、神官長は黙って視線を逸らし、静かに頷いた。
「勝手にするがいい。ただし、神殿の資料室へは二度と立ち入るな。何も分からないのなら、無駄な口は慎め」
投げやりな口調に、苛立ちを隠そうともしない。
他の神官たちも、関わりを避ける姿勢がはっきりと見て取れた。
聖職者であるならば、信仰の象徴としての責任を果たすべきだ。
そもそも、後ろ暗い行いなど、するべきではないはずだ。
「では明後日、神殿を去ります。長い間お世話になりました」
私は頭を下げて礼を述べた。
「くっ……」
神官長は唇を噛みしめ、私を睨みながら拳を震わせていた。
「神官長、私は資料室や図書室にはもう二度と立ち入りません。でも、そこで見たことはすべて記憶しています。たとえ文書が消されたとしても、私の記憶には残っていますので、そのつもりでいてください」
「なっ……」
「帳簿を消しても、記憶までは消せませんので」
少し嫌味だったかもしれない。
けれど、自業自得なんだから、これくらい言っても許されるだろう。
その場は一気に緊張に包まれ、誰も言葉を発せなかった。
屋敷へ戻る日の朝、修道女たちは私を見送りに出てくれた。
ひと月の間だったけれど、彼女たちにはお世話になった。
優しくしてくれたし、私を利用しようとはしなかった。心から感謝している。
対照的に、神官たちの態度は冷たく、私に向ける視線はまるで罪人を見るように冷ややかだった。
十年もの間、身を粉にして神殿に尽くしてきたというのにこの扱いとは、あまりにも報われない。
酷使されていた頃の記憶がないことを、心から幸運に思った瞬間だった。
フィリップ殿下は側近を通じて、私の帰宅をシュタイン公爵家へ伝えてくださった。
送迎用の豪奢な馬車まで手配してくれるという、手厚い配慮。
王家の紋章が誇らしげに輝く馬車は、修道服の私には不釣り合いで、思わず身を縮めた。
「荷物はそれだけでいいのか?」
殿下が尋ねる。視線は、私の小さな鞄に向けられていた。
「はい、殿下。ここには、ほとんど私物がありませんでしたので」
「そうか」
殿下は苦笑いを浮かべた。
「これからまた、君に話を聞くことがあるかもしれない。そのつもりでいてほしい」
「承知しました」
殿下の役に立てればいいのだけれど、神殿に関する記憶はひと月分しかない。
けれど、国の調査が進めば、神殿に隠されていた数々の事実は、いずれ表に出てくるだろう。
「シュタイン公爵家の屋敷に着いたら、まずは君が落ち着ける場所を用意しておくように伝えておいた」
殿下の静かな声が、私の不安を和らげてくれた。
「ありがとうございます。公爵家は私が住んでいた場所ですから何とかなると思います」
私は殿下に微笑みかけた。
「それと、これから僕のことは“フィル”と呼んでくれて構わない」
それはさすがに恐れ多く、私は肩をすぼめながら控えめに返事をした。
「では……フィリップ様、と呼ばせていただきます」
「分かった。それでよい」
殿下は無言で手を差し出し、私が馬車に乗り込むのを手伝ってくれた。
その優雅で自然な動作には、王族らしい気品があった。
馬車はゆっくりと走り出した。
窓越しに、私をひと月閉じ込めていた神殿が見えた。
神々の威厳を象徴するような巨大な建物が、次第に遠ざかっていく。
その姿が小さくなり、視界から消えると、急にこれから始まる生活への不安が広がった。
送り出してくれたフィリップ殿下は「何かあれば相談に乗る」と約束してくださった。
そっと、彼の顔を思い出す。
今のところ、真っ白な私の記憶の中に残る男性は、夫ではなく殿下だ。
その存在は、確かに私の心に刻まれている。
私が帰ると知らせても、公爵は迎えの馬車すらよこさなかった。
自宅のはずなのに、歓迎されていないのかもしれない。
だから、屋敷での生活にはあまり期待しないでおこうと思う。
十五分しか顔を合わせていない夫が待つ屋敷へ帰るのは、やはり少し怖い。
けれど、もう抗っても意味はない。
流れに身を任せるしかない。
私は、これから待ち受ける困難に、恐れず立ち向かう覚悟を決めた。
***
広がる庭園の中心に建てられた公爵邸は、贅を尽くした存在感のある建物だった。
屋敷に到着すると、使用人たちが整列して私を出迎えてくれた。
「奥様、お待ちしておりました」
年配の執事が深々と頭を下げる。
この人が、夫が言っていたセバスチャンなのだろう。
「皆さん、迎えに出てくださってありがとう。私の状態は伝えてあると聞いていますが、どうかしら?」
「はい。旦那様からも承っておりますし、フィリップ殿下からも状況を伺っております」
「ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いしますね」
「迷惑など、とんでもございません。どうぞご遠慮なくお申し付けください」
「今の私にとって、皆さんは初めてお会いする方ばかりです。話をするときは、自分の名を名乗っていただければ助かるわ。何せ記憶がありませんから」
そう告げて、私は屋敷の中へ足を踏み入れた。
残念ながら、そこに懐かしさはひとつも感じられなかった。
「え……と……私は自分の部屋が分かりません。私付きのメイドがいると聞いていますので、案内していただけると助かります」
「かしこまりました」
セバスチャンはそう言うと、「ベス」とメイドの名を呼んだ。
若いメイドが私の側へやって来る。
頬のそばかすが、彼女の愛らしさをさらに引き立てていた。
「奥様、お帰りなさいませ」
「あなたがベスね。よろしくお願いします」
私が微笑むと、侍女のベスは目を丸くして驚いた。
「聖女様……いえ、奥様。何だか以前とは随分お変わりになったような……」
ベスが恐る恐る尋ねてくる。
緊張している彼女に、私は気にせず笑顔を向けた。
記憶を失う前の私を知る使用人たちは、皆驚いたように目を見開いている。
私の微笑みは、彼らにとって信じがたい変化なのだろう。
「ベス、そんなに驚かないで。これからはもっと気楽に接しましょう。屋敷の皆さんも、あなた方がいてくださるおかげで、私は安心して屋敷で過ごせると思います。どうぞよろしくお願いしますね」
私は、柔らかく、優しい公爵夫人に見えるよう努めた。最初が肝心だ。
ベスは戸惑いながらも、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが、気楽だなんて……どうして急にそのようなお考えになられたのでしょうか?」
「そうね。以前の私の考えは分からないの。でも、これが私にとって自然な気がするの。以前とは同じではない、新しい公爵夫人として見てほしいわ」
使用人たちは、私が記憶を失ったという事実を目の当たりにして、戸惑っていた。
以前の私は、きっと陰気で扱いづらい人物だったのだろう。
正直、私自身も、なぜか人格そのものが変わったような気がしている。
下働きの者たちも、遠巻きにこのやり取りを見守りながら、私の変化に驚きを隠せない様子だった。
「まぁ!ステファニー様!やっとお戻りになったのね」
屋敷の奥から、見知らぬ令嬢が勢いよく駆け寄ってきた。
華やかなドレスが揺れ、頬を紅潮させた表情は、まるで無邪気な少女のようだった。
「お帰りなさいませ!」
素の令嬢の声は明るく、初対面にしてはあまりにも親しげすぎる響きがある。
その態度から、まだ十代だろうと思っていたが、近くで見るとそれなりの年齢であることが分かる。
(この人は誰……?私の友人かしら。もしかして、夫の姉とか……?)
けれど、他に家族がいるとは聞いていなかった。
心の中でいくつかの可能性を考えながらも、表情には出さず冷静を装う。
「ええ、ただいま戻りました。失礼ですが……あなたは……?」
令嬢は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐににっこりと微笑んだ。
「私はリリアと申します。以前からこちらにお世話になっておりますの」
リリアという名の令嬢。
はしゃいだ態度と、礼儀の足りなさは、この屋敷の空気には少し馴染まない。
けれど、違和感なく挨拶をしてくるのだからここに……住んでいるのかしら?
服装から貴族であることは分かる。
お世話になっているということは客人なのだろう。
夫からは何も聞いていない。
若い女性を屋敷に置いていたとは……
今はこの人が誰なのか考えるよりも、まずは公爵家の内情を把握することが先決だと感じた。
私は微笑みを浮かべながら、彼女の話に耳を傾けることにした。




