3
「やぁ……調子はどうだい?」
端正な顔立ちの男性が部屋に入ってきた。
レイモンド・フォン・シュタイン公爵――私の夫だという。
深い青の瞳はどこか控えめで、金色の髪は少し乱れ、疲れがにじんでいた。
「体調はとても良いです」
「そうか……」
私は彼に椅子をすすめた。
夫婦だというのに、彼の顔には緊張が浮かび、少し距離を感じる。
「えっと……私は記憶をなくしていて、あなたが誰なのか分かりません」
「ああ、聞いているよ。ステフがいなくなったと知って、心配していた。……四十八時間後に見つかったと聞いた。もっと早く探せればよかったんだけど、すまなかった」
「いいえ、私こそご迷惑をおかけして……。何があったのか、まったく覚えていないんです。聖女だったことも、結婚していたことも」
「聖女の力が消えたと聞いた。神殿では大騒ぎになっているよ」
彼の言葉はどこか他人行儀で、まるでこの場にいることが気まずい義務のように見えた。
「神官長様が毎日来て、いろいろ試してくださいますが、まったく力が戻る気配はありません」
過去の記録や資料を読まされているけれど、何も思い出せない。
「そうか……」
「原因は過労ではないかと言われています。今は治療というより、静養している感じです」
「君は少し働きすぎだった。休めるときは、しっかり休んだ方がいい」
「あの……私はずっと神殿にいますが、屋敷には戻らなくてもいいのでしょうか?」
「神官長から、君の世話は任せてほしいと言われている。今は入院しているようなものだ」
帰らなくてもいい――そういう意味なのかもしれない。
魔力が使えない私は、聖女としての役目を果たしていない。
記憶もない。
体は健康な妻なのだから、帰る場所は公爵邸なのに……
レイモンドはベッドのそばまで来て、一瞬だけ私の顔を見た。
けれどすぐに視線を窓の外へと逸らした。
何かを気にしているのか、心を見られたくないのか――彼の表情からは何も読み取れない。
「あの……言いづらいことかもしれませんが、私たちの夫婦仲は良くなかったのでしょうか?」
私は率直に尋ねた。
レイモンドは困ったように眉をひそめ、重い空気の中で笑顔を作ろうとした。
けれど、それはぎこちなく、どこか痛々しいものだった。
「いや、そうだな……記憶をなくしているなら、覚えていないのも当然だ。僕たちは、仲が良かったわけでも悪かったわけでもない。そんな感じだったと思う」
言葉の最後に、彼は小さくため息をついた。
「私が倒れてから、もう二週間が経っています。その間、あなたがお見舞いに来たのは、今日を含めて二回だけです」
レイモンドは軽く首を振り、その事実を認めた。
「ああ……そうだな。すまなかった」
謝ってほしいわけではない。ただ、彼の気持ちを知りたかっただけだ。
私は、いずれこの人の屋敷に戻ることになる。
もし夫婦仲が悪く、屋敷で冷たく扱われるのなら、今のうちに知っておきたい。
「今後のことを話し合いたいのです。もし、夫婦としてうまくいっていなかった場合や、実は一緒に住んでいなかった場合、あるいは、あなたが他の方と関係を持っている場合……たとえば、第二夫人がいるとか」
「まさか!第二夫人なんていない。愛人もいないし、浮気もしていない。そんな時間もないよ」
……怒らせてしまったかもしれない。
「いえ、そういう方がいたとしても、いなかったとしても、どちらでも構いません。私は今、記憶がないので、どんな答えでも受け止めるしかないんです」
「そうだな……正直に話しておいた方がいいだろう」
「はい。どうか正直に教えてください。もし私が疎まれていたとしても、『そうだったんですね』と受け止めます。逆に、好かれていたとしても、それはそれで受け止めます」
嫌われていても、好かれていても、今の私にはどちらでも変わらない。
「分かった」
レイモンドは一度目を伏せ、静かに息を吐いた。
それから、慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「君は聖女として、僕は公爵として、さらに国の公安の仕事もある。どちらも忙しくて、眠る時間もろくに取れないほどだった。君が事故に遭ったと聞いても、すぐに駆けつけることができなかった」
「ええ」
「そんな状況では、普通の夫婦のように過ごすのは難しかった。でも、それがかえって楽だった部分もある。お互いの生活に干渉せず、気を遣うこともなかったから。そういう意味では、君との関係は悪くなかったと思う」
「それは……記憶をなくす前の私も、その状態を気楽だと感じていた、ということでしょうか?」
「ああ、そうだ。こうして君と話すのは二ヶ月ぶりだ。夫婦のことを君と直接話したことはなかったけれど、同じように考えていたと思う。僕たちは王命で結婚したし、ステフは子どもを望んでいなかったからね」
「貴族の妻といえば、跡継ぎを産むのが務めだと思っていました。私は子どもを望まなかったんですか?」
「そうだ。子育てに時間を割くのは難しかったし、僕も自分の子どもが欲しいと思ったことはなかった。後継者なら、親族の中から優秀な者を選ぶ方が効率的だと考えていた」
「なんだか、距離のある夫婦だったようですね。とても、寂しい関係だったのですね」
「寂しいというより、独立したパートナーという感覚だったと思う」
「……なるほど」
レイモンドはしばらく沈黙し、口を開いた。
「君と話せてよかった」
そう言ってかと思うと、彼は身支度を始めた。
壁の時計を見ると、彼が来てからまだ十五分しか経っていない。
「ちょっと、お待ちいただけますか?今後のことなど、話したいことがたくさんあるんです」
「すまない。午後から仕事がある。もう出なければならない。何かあれば神殿を通して伝えてもらうようにしてあるから、君はゆっくりしていればいい」
「でも、私は力が戻る気配もありませんし、このまま神殿にいても役に立てません。聖女としての役目はもう果たせそうにないんです」
「神殿からは、君の力が戻るまで預かって治療すると聞いている。屋敷に戻りたくなったら、いつでも帰ってくればいい。君の部屋もあるし、公爵夫人として屋敷の使用人は自由に使って構わない。ただ、すべて執事に相談してくれ」
「執事に……」
「ああ。僕が手伝えればいいんだが、どうしても時間が取れない。君の顔を見るのも、数か月ぶりなくらいだから」
二回しか見舞いに来なかった。それどころか、同じ屋敷に住んでいるのに、彼と数か月も顔を合わせていなかったことに驚いた。
でも、独立した関係と言われれば、これ以上何を聞いても意味はないのかもしれない。
「では、最後に教えてください。私に専属のメイドはいましたか?屋敷の使用人たちは、私の体調を気にしていないのでしょうか?」
「メイドはいる。ただ、神殿から記憶や魔力については外部に伝えないよう言われている。執事や数名の侍従には話してあるから、その者たちに指示しておく。執事はセバスチャンという男だ。困ったことがあれば彼に頼めばいい」
そう言って、レイモンドはもう一度「行かなければならない」と告げて、神殿を去っていった。
結局、彼は私の問題に深く関わりたくないのだろう。
「いつでも帰ってきていい」と言われたが、それは形式的な言葉で、できるだけ面倒を避けたいという本音がにじみ出ていた。
(仕方ないわね、前向きに考えましょう)
夫に助けてもらえるかもしれないという期待は、静かに消えた。
でも、逆に言えば、好きなように過ごせるということでもある。
夫は公爵。お金に困ることはない。
私は公爵夫人で、屋敷には自室もあり、メイドもいる。
衣食住に不自由はない。何もしなくていい上に、好きなように過ごせる――それはある意味、理想的な環境かもしれない。
神殿では、ただ時間を持て余すばかり。
指示された書物はすべて読み終え、今は手持ち無沙汰だ。
記憶や魔力が戻ったら、また神殿に戻る選択もある。
でも、過去の話を聞く限り、戻りたいと思えるかは分からない。
申し訳ないけれど、酷使されるだけの神殿生活に戻るなんて、もう無理だと思っている。
神殿は、私の記憶と魔力を取り戻そうと必死だ。
でも、今のところ成果は出ていない。
だから私は、一刻も早くここから抜け出したいと思っていた。
空は橙色に染まり、病室の窓から差し込む光が部屋全体を優しく包んでいる。
夕日が、新しい人生の始まりをそっと後押ししているようだった。




