22
王城を包んでいた緑の霧が、ゆっくりと消え始めた。
それは最初、窓から差し込む月光のようだった。
その光がやがて霧を覆うように広がり、あっという間に緑の霧を包み込んだ。
霧は光を嫌うように、音もなく空へと溶けていく。
貴族たちは息を呑み、誰もが言葉を失ってその光景を見つめていた。
夜の薔薇の庭が輝きを取り戻し、ひとひら、ふたひらと花弁が風に舞う。
緑の霧がゆっくりと消え、光が大広間を満たすと、人々の身体が小さく揺れながら息をつく。
床に膝をついていた老伯爵が、両手を床から離し立ち上がる。
咳き込んでいた男爵令息は、顔色を取り戻し、幼い娘は、母親の腕の中で涙をぬぐう。
侍女は天を仰ぎながら両手を合わせて静かに祈り、騎士たちは剣をゆっくりと鞘に納めた。
皆、互いに頷き合い無事を確認する。
火の消えかけた燭台が灯りを取り戻し、柔らかな光が人々の顔を照らした。
そして歓喜の声が静まり返った大広間に響いた。
その中で、レイモンドは城の窓から、東の空を仰いでいた。
眩い光の柱。
灯台の方向から放たれた、神々しいまでの輝き。
胸の奥がざわめく。
何か大切なものを失ったような、空虚だけが残っている。
「……何だ、あの光は」
呟いても、答える者はいない。
記憶の中にあるはずの“誰か”の名を思い出そうとしても、何も浮かばなかった。
ただ、頬を伝う涙だけが、理由もなくこぼれ落ちる。
彼はその理由を知らないまま、夜空に消えていく光を見つめ続けた。
光が夜空を裂き、王都を包む。
人々の命は守られ、緑の霧は完全に消え去った。
嵐は静まり、薔薇の花びらが雨の雫とともに舞い落ちた。
レイモンドはただ空を見上げ、胸のざわめきを感じながら呟く。
「……何故、涙が出るのか」
その問いに答える者は誰もいなかった。
岬の灯台では。
ステファニーは深く息を吸い込んだ。
そして、契約が解かれた後のような虚ろさが、彼女を包んでいた
灯台の光の中心で立つステファニーは、聖女として戦い抜いたのだった。
この瞬間、世界は聖女の力により救われたのだ。
彼女の胸の奥には、レイモンドへの愛が確かにある……
しかし、同時に、光と共に“レイモンド”の記憶の中から、妻であるステファニーの存在が消え去ったのだった。
その事実に彼女はまだ気づいていない。
***
緑の霧の事件が収束するまで、かなり時間がかかった。
レイモンドは公爵邸へ帰ることができず、残務に追われていた。
やっと屋敷へ帰れるときには、二週間が経っていた。
だが、公爵邸の執務が溜まっていると思うと彼は気が重かった。
レイモンドは執務室の机の前に座り、書類に目を落としていた。
思っていたほど仕事はなく、きちんとまとめられた書類には不備がなかった。
ノックがして部屋の扉が開いた。
ステファニーの足音に気づき、顔を上げた彼の瞳には、説明できない迷いがあった。
「……君は、誰だ?」
その言葉は、ステファニーの胸を突き刺した。
彼の目には、かつて宿っていたはずの愛情も温もりもなかったからだ。
彼女は震える声で答えた。
「……私、ステファニーよ……あなたは、私の夫、レイモンド……」
しかし、彼は首を傾げ、困惑の色を浮かべた。
「夫? 君は誰のことを言っているんだ?」
ステファニーの胸の奥で痛みがじわりと広がった。
その瞬間、彼女は理解した。
光の代償、愛を引き換えにということ、それは彼が妻である自分を忘れることだった、と。
世の中の人々の命は救われた。
ステファニーの力によって死者の霧から、世界は救済された。
だが、レイモンドはもうステファニーを覚えていなかった。
夫婦の時間も、記憶も、すべて消え去ってしまったのだ。
ステファニーは、口角を上げて微笑もうとした。
けれどその唇は、悲しみに固く結ばれ、うまく笑うことができなかった。
***
公爵邸の離れに戻り、ステファニーはしばらく机の上をぼんやりと見つめていた。
レイモンドの「君は誰だ」という言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
彼の瞳には、かつての温もりも親しみもなかった。
まるで見知らぬ女を警戒するような、冷たい視線だった。
ベスが、温かい紅茶をステファニーの前に置いた。
「夫婦としての時間、思い出、交わした言葉、すべてが彼の中から消えてしまったのね……」
胸の奥で冷たい痛みが広がる。
「あんなに奥様を求めていらっしゃったのに。急に忘れてしまうなんて残酷です」
ベスは涙をぬぐった。
「言葉にすれば“悲しみ”というより“空虚”と呼ぶべきものかもしれないわ。不思議ね、なんだか胸の中にぽっかりと穴が開いてしまったみたい……」
ステファニーは静かに息を吐いた。
「けれど、これは力を得た代償だから仕方がないわ」
ベスを元気づけるように微笑んでみせた。
「そう……これが、私の選んだ道だったの」
ベスは何も言わなかった。
部屋の中が沈黙に包まれた。
もう、あきらめる他ないという空気が漂っていた。
その時、離れの扉を叩く音が響いた。
控えめなノック。
ステファニーは顔を上げ、胸の奥がざわめくのを感じた。
もしかしたら……
そう思い素早く戸口まで急ぐ。
けどそれは望んだ人ではなかった。
扉を開けると、フィリップ殿下がそこに立っていた。
「夜分遅くすまない。ステフ、失礼するよ」
懐かしいその響きは、穏やかに響いた。
「殿下……」
殿下は軽く一礼した。
「突然の訪問で無礼なのは承知している。だが、どうしても君に伝えたいことがあってね」
玄関先で立っている彼の表情は真剣だった。
ステファニーは頷いて、驚きながらも、彼を部屋へと招き入れた。
ベスは慌てて殿下の席を用意し、新しいカップを用意して、温かいお茶を淹れ直す。
小さな部屋は、緊張で普段よりも空気が重たかった。
殿下は椅子に深く腰を下ろし、しばし黙した後、ゆっくりとステファニーを見つめた。
その視線には、何か重大なことを話す前のような真剣さが宿っていた。
「思い出してほしい、ステフ……」
彼はゆっくりと息を整えてから話始めた。
「君とレイモンド殿の間に“愛”と呼べるものは、本当に存在していたのかい?当然、今のことではない。君が聖女として神殿にいた頃の話だ」
突然の問いに、ステファニーの胸が強く締めつけられた。
「聖女だった頃……私とレイモンドの間に、愛は……」
自分の口から出た言葉に、ステファニー自身がはっと息を呑む。
殿下の言葉は忘れていた記憶の蓋を静かにこじ開けていく。
彼女は思い出した。
聖女として神殿にいた日々、任務に追われ、心を交わせる相手などほとんどいなかったこと。
そして、夫であるはずのレイモンドとも、形式的に結婚していただけで、会話らしい会話などなかったこと。
──孤独だった。
それが彼女の当たり前だったはず。
「私は……光の魔力を失うまで、誰からも愛されていなかった。ずっと、ずっと……」
震える声で告げるステファニーに、殿下は首を横に振った。
「そうとは言わないが……ただ、君が誰にも愛されなかったと感じていたのは事実だ。ならば、今は、それが元の状態に戻っただけだと考えてみてほしい」
「元に……戻っただけ?」
理解できずに戸惑うステファニー。
その瞬間、ベスがぱん、と手を叩いた。
「そうですわ、奥様!」
ベスにしては大きすぎる声に、部屋の空気が一瞬揺れた。
殿下も驚いたが、すぐに穏やかな微笑みを見せる。
ベスは真っ直ぐステファニーを見つめ、涙を滲ませながら言った。
「奥様が聖女だった頃、旦那様とはほとんどお顔を合わせませんでした。形式だけのご夫婦で、心は通じていませんでしたわ。今の旦那様の態度……あれは、あの頃と同じです。決して冷たくなったのではなく……ただ、元に戻っただけなのです」
それは紛れもない事実だった。
ベスの言葉には、感情だけでなく、確かな観察と経験が込められていた。
ステファニーの胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
それは、今の状況を突破できる可能性があるものだった。
殿下が静かに続ける。
「その孤独は、愛を知らなかった頃の君自身の記憶だ。レイモンド殿の今の姿は、かつて君が見ていた世界そのもの。だからこそ、君は辛く感じるのだろう」
ステファニーは震える手で胸元を押さえ、俯いた。
過去と現在が一つにつながり、痛みの理由が形を得ていく。
ベスがそっと寄り添うように言った。
「奥様……最初に戻っただけなんです。何も終わっていません。むしろ、ここから始められるのですわ」
「最初に……戻った……」
ステファニーは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
ベスの言葉、殿下の言葉、それらが彼女の心に灯をともす。
もし本当に最初に戻ったのなら。
ならば、やり直せばいい。
もう一度、彼の愛を取り戻せばいいだけ。
「そうね……なら……」
胸に落ちていた重石が外れ、ステファニーの中に決意が芽生えた。
「最初から、始めればいいんだわ!」
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が大きく揺れ、ベスが驚いて目を丸くする。
だがステファニーの表情は、“確かな光”に満ちていた。




