21
“霧が壁を這い、冷たく息を奪っていく。
神殿の書庫で見た古文書“死者の霧は、祈りの光によってのみ鎮まる”。
私は、その祈りをもう一度、思い出せるだろうか。
フィリップは私の手を強く引き、息を切らしながら走った。
彼の横顔には、若き王族らしからぬ険しさが宿っている。
「岬の灯台へ急げ!」
彼は鋭い声で御者に命じた。
用意されていた王族専用の馬車に飛び乗ると、宵闇を抜けて馬車は走った。
車輪が石畳を叩くたび、胸の奥で何かがざわめいた。
遠ざかっていく王城の塔の上、薄緑の霧がゆっくりと渦を巻いているのが見える。
それはまるで、生き物のように呼吸しながら、空へと伸びていた。
外は突如として荒れ狂うような雨に見舞われた。
馬車の屋根を叩く雨音が轟き、雷鳴が夜空を裂く。
嵐はまるで、天までもがこの闇に抗っているかのようだった。
馬車が急停止した。
激しい雨が車体を叩きつけ、外はもはや嵐そのものだった。
フィリップが扉を開け放つと、冷たい潮風が一気に吹き込み、私の髪を乱した。
その瞬間、胸の奥で記憶の残滓がざわめく。
灯台……そう、私は以前この場所にいたことがある。
突如として、頭の中に記憶の断片が蘇る。
背の低いずんぐりとした男。
喉にかかったような低い声。
薄汚れた麻布のシャツとズボンを身にまとい、鼠色の頑丈なコートを羽織っている……
――灯台守!
『人間ってのは本当にややこしいな。もし元に戻したくなったら、またここに来るといい。嵐の夜、海が荒れている日に、俺がここにいるかもしれない。運が良ければ、また会えるだろうさ』
灯台守は確かにそう言った。
「……上がるぞ!」
フィリップは私の手を掴み、一気に階段を駆け上がった。
彼が振り返った。
「ステファニー?どうした」
途中で足を止めた私に驚き、彼は掴んだ手を緩めた。
「前にここに来た時も、こんな嵐だった。あの夜のことを、思い出したわ!」
言葉にしながらも、確信があった。
あの男。ずんぐりとした体躯に鼠色のコート。
あの人は、私の能力をなくし、そして記憶を奪った?
「いいえ!私が望んで聖女の魔力を手放したの!」
雷光が夜空を裂き、塔の頂が一瞬だけ眩しく照らされた。
まるで何かが、そこへ導こうとしているように。
塔の扉を押し開けると、そこには確かに彼がいた。
古びたランプを手に、階段の陰に立つずんぐりとした男。
鼠色のコートは潮で濡れ、深いしわを刻んだ顔は、どこか人ならぬものの気配を宿していた。
「……やはり、来たか」
その声を聞いた瞬間、あの時の記憶が閃光のように鮮明に甦る。
嵐の夜、私は願いを叶えてもらった。
自分の自由を得る代わりに、聖女の力と記憶を失ったのだ。
「あなた……灯台守」
「そうだ。久しぶりだな。望みを言え。時間がないのだろう?」
私は頷いて強く拳を握りしめた。
「聖女の力を、取り戻したいんです。皆を救うために」
灯台守は小さく笑った。
「城は今、死者の霧に侵されています。このままでは、霧を浴びたものは三日以内に命を落とします。そしてそれに対抗できるのは、聖女の光のみ!」
フィリップがはっとしたように目を見開き灯台守に言った。
「歴史書の中に、死者の霧が発生した記録があった。それは、聖女でなければ抑えられない……」
彼はその危険性を察し、緊張したように体を硬直させた。
「聖女の光の魔力が必要なの!お願い!」
雷鳴が塔を震わせ、古い灯が揺れた。
その光の中で、灯台守の瞳が三日月形に歪んだ。
「代償なしに元通りにはできない。奇跡はそう簡単には起こせないものだ。ひとつだけ、選ばせてやろう。“力”か、“愛”か……」
選ぶ……
力を取り戻すために失うものがあるということだろうか。
愛……
私の脳裏に浮かんだのは、レイモンドの顔だった。
「彼への愛を手放す代わりに、私に聖女としての力を与えるというの?」
声は震えていた。
雨音が塔の外を叩き、風が窓を軋ませる。
灯台守は、深い海の底のような黒い瞳で静かに頷く。
「世界は常に、何かを差し出して回っている。命も、記憶も、そして……愛も」
私は唇を噛んだ。
心の中で、レイモンドの笑顔が何度もよみがえる。
不器用にドレスを選んでくれた夜。
不安なとき、そっと肩に手を置いてくれた温もり。
それをすべて、手放さなければならないというのか。
フィリップは拳を握り締めていた。
彼は王族、民の命を守ることが使命だ。
きっと私に聖女の力を復活させてほしいと願っているだろう。
「私は……聖女として……民を救います……」
胸の奥が裂けるように痛んだ。
レイモンドを……諦めなければならない。
けれど、このままではレイモンドの命さえ守ることができないだろう。
灯台守は黙ってゆっくり手を伸ばした。
「夫の愛を手放すのだな?」
その掌の上に、淡く光る粒が集まり始める。
光は柔らかく温かい――しかし、それに触れた瞬間、何か大切なものが確かに離れていく予感がした。
「レイモンドを手放します。私は聖女として、国民の命を守ります」
その言葉は、祈りだった。
声が塔の石壁に反響し、静かに空気を震わせる。
灯台守は何も言わなかった。
ただ、満足げに片眉を上げると、手のひらの光を高く掲げた。
「ならば、その覚悟に応えよう。ステファニーに再び“聖女”の力を与える」
光が弾けた。
白銀の輝きが嵐の闇を押しのけ、塔の内側を満たしていく。
風が渦巻き、雨が逆巻く。
私の髪と衣が翻り、足元から淡い紋章が浮かび上がった。
胸の奥に焼けつくような熱がこもる。
その瞬間、レイモンドの笑顔が、記憶の彼方に溶けていった。
あれほど鮮明だった声も、ぬくもりも、次第に霞んでいく。
涙が頬を伝う。
けれど、迷いはなかった。
「私は聖女だ。どうか……この光で、すべてを救わせてください」
灯台の最上部の光が再び灯る。
夜を裂くように放たれた聖なる輝きが、岬を越え、王都を包み込んでいった。




