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俺はできる限り冷静を装い、はっきり言った。
「リリア、部屋に戻って荷物を整理しろ。お前がここにいる必要はない」
「でも、まだ話は終わっていないのに……」
「それ以上は言うな!」
低く、鋭い声で言い放つ。
反論を許さないその声に、リリアは不満げに唇を尖らせつつも、渋々うなずいた。
俺は視線をセバスチャンへ移す。
「この部屋は、もうステファニーには使わせない。新たに俺の部屋と妻の部屋、そして夫婦の寝室を作り直す。場所は――前公爵夫妻の部屋だ」
父と母が暮らしていた部屋は、この部屋の真上、屋敷の三階に位置していた。
見晴らしも環境も申し分なく、最も格の高い居室だった。
ただし、大規模な改修が必要になる。
それでも、リリアが使用したこの部屋を、再度ステファニーに与えることだけはできない。
「前公爵様のお部屋でございますね。承知いたしました、旦那様」
セバスチャンは深々と頭を垂れた。
「ステファニーは、今、離れにいるのだな?」
彼は小さく頷いた。
妻が“離れ”に暮らしている。
その事実が、俺自身の不甲斐なさを突きつける。
気づこうと思えば気づけただろう。だが、面倒を避け、曖昧な決断でやり過ごしてしまった。
リリアを放置し、ステファニーの気持ちを顧みず、ただ日々を消費していた。
過去の行動の結果を、今まさに目の前に突きつけられている。
改装した新しい部屋も、結局は彼女のためにはならなかった。
自分の言動を振り返るたび、「あのとき、こうしていれば」という悔恨が胸を突き刺す。
だが、後悔にすがったところで、時間は戻らない。
俺は敷地の奥まった場所にある離れへと、重い足取りで歩を進めた。
この離れが、元は貴族牢であったことを彼女は知らないだろう。
祖父の代、外国の王族や貴族を収容するために造られた施設だったのだ。
牢獄というよりも、「預かりもの」を扱う場所。
適切な待遇で収容者をもてなし、国際的な摩擦を避けるのが離れに課せられた役割だった。
高い塀に囲まれ、庭園も備えられた造りは、一見すると別荘のようだ。
だが出入口は一か所しかなく、逃亡を防ぐ構造は同時に外部からの侵入も拒む。
三年前、ステファニーが離れに移りたいと願ったとき、俺が許可したのも、この建物が何より安全だからだった。
歩を進めるたび、彼女に伝えるべき言葉が頭の中を駆け巡る。
何を、どう伝えるべきか――答えは定まらない。
だが、もはや躊躇している余裕はなかった。
彼女の部屋の扉に辿り着き、拳を握りしめて、ゆっくりとノックする。
心臓の鼓動がやけに大きく響いた。
――しかし、扉の向こうから返答はない。
沈黙。
まるで俺の存在そのものを拒絶するかのような、冷たい静けさが広がる。
「ステファニー、話がある。開けてくれ」
重ねて呼びかけたが、厚い扉は閉ざされたままだ。
まるで俺の過ちが、この木の扉を石の壁に変え、彼女から遠ざけているかのように感じた。
俺は深く息を吸い込み、扉越しに語りかける。
「君を傷つけたことを謝りたい。俺は、あまりにも自分のことばかり考えすぎていた。だからこそ、改めてしっかりと向き合いたいと思っている」
果たして、この声は彼女に届くだろうか。
扉の向こうで微かな物音がしたが、それ以上の反応はない。
「ステファニー……言い訳に聞こえるかもしれないが、俺はリリアのことを何も知らなかった。いや……聞いてはいたが、すっかり忘れていたんだ。彼女が夫人の部屋に居座っていることも、さっき初めて知った」
沈黙。
「頼む……扉を開けてくれ」
それでも返事はない。
やがて、中からメイドの静かな声が響いた。
「旦那様、奥様はもうお休みになります。日を改めて、またお話しくださいませ」
確かに、こんな夜更けに訪ねるのは、たとえ夫であっても礼を欠いた行為だ。
それに、今のように感情が高ぶっている状態では、冷静な話し合いは望めないだろう。
「旦那様、明日は城へ出仕される日でしょう。早くお休みになったほうがよろしいかと。奥様もお疲れですので……本日はどうか」
俺は重く息を吐き、拳を握りしめる。
「……分かった」
何事もうまくいかない。
すべてが裏目に出る。
自分の考えなしの言動が、こうして結果を導いてしまったのだ。
冷たい夜の空気の中、屋敷の奥へ戻りながら、俺は自分の足音が虚ろに響くのを感じた。
孤独と後悔。
それが、今の俺の胸を重く締め付けていた。
***
翌朝、離れの食堂には静かな時間が流れていた。
テーブルには温かなスープ、焼き立てのパン、果物が並び、紅茶の香りが部屋を満たしている。
外の世界から切り離されたかのような安らぎの中で、ステファニーは穏やかに朝食を口にしていた。
離れとはいえ、使用人たちはきちんと世話をしてくれる。
それもすべて、公爵家の「夫人」という立場ゆえだろうと、彼女は思った。
だが、胸の奥では昨夜の出来事がまだ消えずに残っていた。
(レイモンドは、いったい何を考えているのだろう……)
夕食の席で、彼は「夫人としての役目を果たしてほしい」「執務を手伝ってほしい」と私に告げた。
まるで、二人の関係を再構築しようとしているかのように見えたのだ。
(でも、それは私の勘違いかもしれない……思い込みで判断してしまうのは良くないだろう)
あれこれ考えても、結局はなるようにしかならない。
そう思いながら、ステファニーは香り立つ紅茶を静かに口に運んだ。




