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とにかく、旦那様が帰宅されるまではリリアの話だけを鵜呑みにするのはやめようと決めた。


彼女とは屋敷の中でも距離を置き、どんなに誘われても食事やお茶を共にすることはなかった。

メイドたちの協力を得て、できる限り顔を合わせないように心がけた。


「旦那様とリリア様は、深い関係ではありません」

「夜会も、本来なら奥様が不在でも参加する必要はないと仰っていました。リリア様が自分から同伴を申し出ただけなのです」

「考える暇も断る時間もなく、仕方なく受け入れられたのですわ。余計な面倒を避けるために……」


どうやら使用人たちも、彼女への不満が溜まっているようだった。

勝手に屋敷へ住み着き、公爵家のメイドたちをまるで自分の使用人のように扱う横柄な振る舞いに、次第に不信感が募っていったのだ。

世話をする必要があるのかどうかも分からないと、口々にぼやいている。



セバスチャンが何度「部屋を空け渡してほしい」と頼んでも、リリアが私の部屋から出て行く気配はない。厚かましい態度に、皆すっかり辟易していた。


私はというと、公爵家に馴染むため、屋敷の家政について学ぶことに集中した。

言っておくけれど、私は超人的な記憶力の持ち主だ。一度目を通した文書はすべて記憶できる。


手紙の返事も、これまでに読んだ文面から適切な言葉を抜き出せば、公爵夫人らしい見事な返答が書けてしまう。そんな荒業すら自然に身についていた。


さらに、旦那様が行っている領地管理の仕事にも手を付けてみた。

書類を読み込み、要約を作成し、重要な箇所に下線を引き、最後に私なりの結論を一枚目に挟む。あとは旦那様がサインするだけ。


これなら一目で要点が分かり、旦那様の負担も減らせるだろう。

執務を担当していた家令に難しい仕事も教えてもらったが、私は、驚くほどの速さでそれらの知識を吸収していった。

その異常な記憶力と理解力に気づいた彼らは、教えることにますますやりがいを感じたようで、次々と新しい知識や手法を惜しみなく伝授してくれた。


気づけば一週間、私はほとんど執務室にこもり、資料の確認と整理に没頭していた。


午前中の仕事を終えた頃、セバスチャンが声をかけてきた。


「奥様、少し気がかりなことがございます。ご結婚されてから、奥様用の予算が毎月計上されていましたが、ほとんどお使いになっておられません」


「ええ、必要がなかったのだと思うわ。聖女として神殿へ詰めていたからかしらね。お金を使う機会なんてなかったのよ」


セバスチャンは一呼吸置き、遠慮がちに提案する。


「でしたら、その予算でお洋服を新調なさってはいかがでしょう。公爵夫人として、いつまでも修道服ばかりというのは、いささか……」


確かに一理ある。しかし、公爵家の予算に手を付けることには抵抗があった。


「私はこれまで、公爵夫人らしい務めをほとんど果たしてこなかったわ。だから贅沢に使うのは気が引けるの」


セバスチャンは真剣な眼差しで、きっぱりと言った。


「奥様はすでに、旦那様に匹敵するほどの執務をこなされています。それは立派なお仕事です。どうか給料だと思ってお使いください」


その言葉に、控えていたメイド長ダリアも頷き、穏やかな笑みを浮かべる。


「ええ、奥様にはその権利がございます。それに、公爵夫人として相応しい姿でいることも、大切なお務めです」


私は小さくため息をついた。

確かに理屈は分かるが――。


「でも、最近の流行には疎いし、他の夫人方と親しくもしていないから、何を着ればいいのか分からないの」


するとダリアが丁寧に申し出る。


「私たちは公爵家に仕えるプロフェッショナルでございます。もし奥様のお召し物を選ばせていただけるのなら、喜んでその役目を果たさせていただきたく存じます」


「そうです!華やかなドレスや宝飾品を選べるなんて滅多にない機会ですから、ぜひお任せください!」


隣のベスが目を輝かせて声をあげると、他のメイドたちも次々と名乗り出た。


「靴の流行なら私が詳しいです!」

「生地選びは任せてください、絶対に失敗しません!」

「髪型は私が!最新の流行を日々研究しています!」

「色彩センスには自信があります!」

「アクセサリーの流行も勉強してきました!」


若いメイドたちは真剣な面持ちで、期待に満ちた声を交わしていた。

その場の空気は、自然と活気に満ちていった。


「わかりました。ではお願いしようかしら」


彼女たちの目の輝きに少し圧倒されながらも、私は自然と笑みを浮かべていた。



そして、あっという間に、旦那様が帰ってくる日がやってきた。


胸の奥に緊張が広がっていた。

聖女でなくなった私を、彼はどう思うだろう。

そして、リリアのことも決着をつけなければならない。


この短い期間で、公爵家の人々と打ち解けられたと思っている。

私は、ずいぶん変わった。

その変化は好意的に受け取られていて、「今の奥様はとても親しみやすくて好きです」と微笑む彼らの姿を見ると、照れくさいが嬉しくもあった。


そして、この一週間で私の装いも大きく変わった。

メイドたちが仕上げた衣装は華美すぎず、それでいて品格を感じさせる。

肌艶も見違えるように良くなり、ベスには「まるで女神様みたい」とまで言われた。


旦那様は、この変化に気づいてくれるだろうか。

どう思ってくれるのだろう。


「もうそろそろお昼の鐘が鳴る頃ですわ」


ベスが差し出してくれた紅茶もすっかり冷めていた。

心配そうな視線に、私はただ微笑みを返した。


旦那様の帰還を待つ間、ふと使用人たちが口々に語る言葉を思い出した。


『旦那様は、お仕事に厳しいお方ですが、不正や怠慢を決して許されません。その代わり、努力した者には必ず報いてくださいます』

『はい。旦那様は領民の声をよく聞かれます。収穫が不作だった年も、誰ひとり飢えさせないよう尽力されていました』

『それに……あのお方は、笑うときがとても優しいのです。厳格なお顔なのに、その瞬間だけ春の陽のようで――思わず心を奪われてしまいます』


彼らの話を聞くたびに、胸の奥に温かなものが広がった。

冷たいだけの人ではなく、むしろ誰よりも誠実で、頼れる人――そんな旦那様の姿が目に浮かぶ。


一度だけしか会ったことない、彼の姿を思い浮かべた。

端正な顔立ちの男性。

レイモンド・フォン・シュタイン公爵。

すらりと背が高く、貴族らしい気品を漂わせる装いをしていた。

表情には疲れの色がにじんでいたものの、澄んだ青い瞳は深く神秘的で、金色の髪を一層引き立てていた。


けれど、どこか冷めたような印象を受けたのは確かだ。


あの厳格な表情の裏に、使用人たちが語るような優しい笑顔があるのだとしたら……


私はそれを、この目で確かめてみたい。


ほとんど言葉を交わせなかったあの時を思い出すと、不安も胸をよぎる。

けれど今日は、不安以上に期待が大きい。


執務を手伝い、公爵夫人としての身なりも整え、使用人たちとも良い関係を築いた。これなら、何も問題はないはずだ。


「きっと旦那様は奥様のことを喜んでくださいますよ」


どんな顔をされるのだろう。どんな言葉をかけてもらえるのだろう。


表情には出さないよう注意していたが、胸の内では緊張が高まり、鼓動が早まっていた。


記憶を失った私にとって、この屋敷が唯一の居場所。

旦那様と新たな夫婦関係を築いていこうという、私なりの決意があった。



だからこそ、ここでしっかりと歩み出したい。

そんな気持ちで、私は前を向いた。


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