第1話:書店を譲られる日
書店の扉を押し開けた瞬間、メアリは微かに埃の香りを吸い込んだ。
「……これが、私の――」
公爵家の次女、メアリ・フィレン。二十歳前後の彼女は、冷静で慎重、知識と観察力には人一倍の自信があった。しかし、婚約破談の後に任されたのは、王都の片隅にある小さな書店だった。表向きは街の書店だが、彼女にはすぐにその意味が理解できた。「家の体面を守るための、目立たない隠居先」と。
店の内装は質素で、木製の棚には古書がぎっしりと並ぶ。埃にまみれた頁、擦れた背表紙、頁の折れ目まで、メアリの目にはまるで地図のように情報が散りばめられていた。
「まずは棚を整理しないと……」
丁寧に一冊ずつ手に取り、頁の角を確認する。傷み方、色の濃淡、インクの滲み──これらすべてが、前の持ち主の手を想像させる痕跡だった。古書修復の知識が、静かな書店の空間に息を吹き込む。
その時、店の奥から声が聞こえた。
「お嬢様、いらっしゃいませ――」
小柄な幼馴染で、店の看板娘を務める少女が、慣れた笑顔で駆け寄ってきた。
「今日からよろしくね、メアリさん」
彼女の笑顔に、メアリはふっと肩の力を抜いた。公爵家の重圧も、婚約破談の屈辱も、ここではまだ遠い世界の話のように思えた。
棚の整理をしていると、店先に背の高い男が立っていた。表向きは客だが、その目つきはただ者ではない。紙袋から古書を取り出すと、置き手紙だけを残して立ち去った。
「……これは、ただの書籍ではない」
手に取ったのは、古びた革表紙の書物。頁をめくると、所々に奇妙な折れ目と、微かなインクのにじみがあった。まるで誰かが、秘密を隠すように仕掛けた痕跡だ。
メアリはその折れ目を指でなぞりながら、小さくつぶやく。
「ふふ……面白くなりそうね」
書店の静けさの中、メアリは初めて心が躍るのを感じた。ここで、古書と事件が交差する──その予感が、彼女を少しずつ王都の謀略へと誘っていくのだった。