第7話 もうひとつの失踪
雨上がりの東栄町は、アスファルトから立ち昇る水蒸気で、どこかぼんやりとして見えた。じめっとした空気が肌にまとわりつく。俺の頭の中は、菜穂の祖父が残した日記の言葉でいっぱいだった。「祐介を助けられなかった。私は…罪を犯した」。そして、元刑事・小泉の言葉。「助けられなかった、じゃなくて…もしかしたら、助けなかった…?」。二つの言葉が、俺の思考をぐるぐると巡っていた。
俺は、再び交番へ向かうことにした。小泉の口から、さらに詳しい話を聞き出すためだ。交番のドアを開けると、彼は書類仕事に没頭していた。俺の姿を見ると、露骨に嫌な顔をした。
「またか。もう話すことはないぞ」
「祐介君の父親について、聞きたいんです」
俺がそう切り出すと、小泉は動きを止めた。彼の表情が、一瞬で固くなる。
小泉は、深くため息をついた。まるで、心の中の重い扉を開けるかのように。
「あんたは、本当にしつこいな…そうだ。祐介の父親も、あの夜、行方不明になっている」
その言葉に、俺は息をのんだ。祐介だけではなかった。親子二人で、同じ夜に姿を消した。
「なぜ、そのことが公になっていないんですか?」
「…公にする必要がなかったからだ。父親は、町の人間に言わせれば、『ろくでなし』だった。借金を抱え、町の有力者とトラブルを起こしていた。失踪は、夜逃げだと判断された」
小泉は、淡々と語る。だが、その声の奥には、どこか割り切れない感情が滲んでいた。
「誰と、どんなトラブルがあったんですか?」
「町の有力者、東出商店の東出だ。金貸しもやっていてな。祐介の父親は、東出から金を借りて、返せなくなっていた。それで、かなり揉めていたらしい」
俺は、東出という名前に聞き覚えがあった。この町の老舗で、商店街のほとんどの土地を所有しているという。町の住人たちが口を閉ざす理由の一つに、東出商店の存在があるのではないかと、薄々感じていた。
「借金問題が、失踪とどう繋がるんですか?」
「そこから先は、俺も想像でしかない。だが…当時、裏社会の人間も関わっているという噂が流れていた。東出商店と繋がりがある、暴力団の人間が、祐介の父親を追い詰めていた、と…」
俺は、頭の中で、点と点をつなぎ始めた。祐介は、借金問題で追い詰められた父親と共に、町から逃げようとしていたのではないか。そして、その夜に、火事が起きた。火事は、彼らが逃げるための陽動だったのか。あるいは、彼らを追い詰めるための、別の目的があったのか。
俺は、小泉に礼を言い、交番を出た。空は、さらに灰色に曇り、今にも雨が降り出しそうだった。
俺は、すぐさま**「森川寫眞舘」**へと向かった。菜穂に、祐介の父親も行方不明だという事実を伝えなければならない。そして、祖父の日記に書かれた「罪」の意味を、もう一度、深く考え直す必要があった。
写真館の扉を開けると、菜穂は、祖父の日記を抱えたまま、呆然と座り込んでいた。
「…佐藤さん。私、もうどうしたらいいか分からない…」
彼女の声は、か細く、今にも消えてしまいそうだった。俺は、彼女の隣に座り、ゆっくりと語りかけた。
「菜穂さん。祐介君の父親も、同じ夜に行方不明になっているそうです。借金問題で、町の有力者とトラブルを抱えていた…」
俺の言葉に、菜穂の顔に、わずかな光が戻った。
「…おじいちゃんは、祐介君と、そのお父さんを助けようとしていた…そうですよね?」
彼女は、俺にすがるような目で言った。俺は、彼女の期待に応えるように、頷いた。
「そうかもしれません。おじいさんは、日記に『祐介を助けられなかった』と書いている。それは、祐介君だけでなく、彼の父親も助けられなかった…という意味かもしれません」
俺は、祖父が、なぜそのことを日記に書いたのか、その理由を推測した。祐介の父親は、町の人々から『ろくでなし』と呼ばれていた。そんな人間を助けることは、この町の秩序を乱すことだったのかもしれない。だから、祖父は、誰にも言えず、自分だけの秘密として、日記にその苦悩を綴っていたのかもしれない。
「…おじいちゃんは、一人で、この町の闇と戦っていたんだ…」
菜穂は、そう呟き、日記を抱きしめた。その目は、悲しみから、少しずつ、決意の光を帯びていく。
少年が消えた夜、消えたのは彼だけではなかった。父と子、二つの失踪の線が、一つの炎の夜に交わる時、この町の真実が、別の姿を現し始めていた。




