第4章 封じられた火事
冬の朝は、息を吸い込むたびに肺の奥まで冷えが染みる。
東栄町役場の古い庁舎は、昭和の終わり頃に建てられたらしく、外壁は灰色のタイル張りで所々に亀裂が走っていた。正面玄関の自動ドアは開閉のたびに鈍い音を立て、その奥にはやや湿った紙の匂いが満ちている。
佐藤悠真は、案内板を頼りに三階の「郷土資料室」へと向かった。
階段の踊り場から見下ろすと、1階ロビーでは年配の男性が職員と何やら口論している。冬の光が曇りガラス越しに差し込み、埃の粒がゆらゆらと漂っていた。
資料室は、他の階よりもひんやりとしている。分厚いカーテンが半分閉められ、外光はほとんど届かない。蛍光灯の光が棚の背表紙を白く照らし、整然と並んだファイルやアルバムが息を潜めていた。
「お探しの記録は……こちらでしょうか」
対応してくれたのは、眼鏡をかけた女性職員だった。
悠真が「二十年前の火災記録」と伝えると、彼女はしばらく棚を探り、茶色い紙箱を取り出す。蓋を開けると、古びた事故報告書や現場写真が詰め込まれていた。
しかし——
「……これは違うな」
日付順に並べられた報告書をめくっても、祐介が失踪した「平成十七年七月」の火事記録がどこにも見当たらない。前月と翌月の記録は残っているのに、その週だけがまるで切り取られたように欠落している。
「ここに無いということは……もしかして、元の台帳ごと無いのかもしれません」
女性職員は首を傾げ、曖昧に笑った。
「古い記録は整理中で……あの、もし急ぎでなければ後日——」
「整理中、ですか?」
「はい。古い火災記録は保管期限が過ぎたものから順に廃棄か、都の公文書館へ移すので」
しかし、悠真は直感的に「それだけではない」と感じた。
無くなっているのは偶然ではない——そう思わせる空白の匂いがあった。
彼は礼を言って資料室を出た。廊下の窓から見える商店街の屋根は、曇天の下で鈍く光っている。遠くからは電車の低い走行音が響き、町全体が冷えた空気に包まれていた。
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午後、悠真は交番に立ち寄った。
小泉亮介は、机に向かって書類を整理していた。制服の襟元から覗くマフラーが、彼の無骨な雰囲気を少しだけ和らげている。
「例の火事、役場の記録に無かった」
悠真が切り出すと、小泉は手を止め、しばらく無言で考え込んだ。
「……だろうな」
「知ってたんですか?」
「まあな。あの火事は、正式には“報告されなかった”ことになってる」
「どういう意味です?」
小泉は机の引き出しから紙巻きタバコを取り出し、火をつけた。
交番内で喫煙は禁じられているはずだが、彼は換気扇の下に立ち、煙を外へ流しながら続けた。
「証拠隠滅だよ。燃えた家に何があったのか、誰も言わねえ。けど俺は現場に行った。当時は刑事だったからな」
その声には、遠い記憶を引きずるような重さがあった。
「真夜中、二階の窓から炎が吹き出してた。木造だからあっという間だったよ。あの家の持ち主は——」
小泉は言葉を飲み込むように煙を吐き出し、目を細めた。
「……まあ、町の“上の連中”だ。下手に名前を出すと面倒になる」
悠真は記者として、聞き出すべきだと分かっていた。だが同時に、この町の闇に一歩踏み込む怖さも感じていた。
沈黙を破ったのは、小泉だった。
「お前、あの写真……背景をよく見たか?」
「ええ、路地裏に煉瓦塀と古い木造の二階建てが——」
「その木造家屋が、燃えた家だよ」
その瞬間、写真の中の風景と、小泉の言葉が重なった。
炎の赤、煙の匂い、そして泣きじゃくる少年の姿——それらが頭の中で鮮やかに蘇るようだった。
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商店街のアーケードを抜けると、風が一層冷たくなった。
空は夕方に近づき、灰色と淡い橙が混ざり合っている。足元には雨と雪の名残が薄く張り付き、歩くたびにざくりと小さな音を立てた。
悠真は、写真に写っていた煉瓦塀を目印に路地裏へ入った。
表通りの賑わいとは打って変わり、路地は人通りがほとんどなく、洗濯物がひらひらと揺れるだけだ。奥へ進むと、唐突に視界が開けた。
そこは更地になっていた。
四方を古い住宅に囲まれた空き地は、黒い土がむき出しで、所々に割れた瓦や焦げ跡の残るコンクリ片が散らばっている。雑草すら生えておらず、冬枯れの風が一面をなでていく。
悠真はフェンス越しにその場所を見つめた。
焼け落ちた家の面影はほとんどない。それでも、写真にあった二階建ての姿を想像すると、目の奥がじわりと熱くなる感覚があった。
「……あんた、何か探しもんかい?」
振り返ると、腰の曲がった白髪の男性が立っていた。
ニット帽を深くかぶり、手には古びた竹箒を持っている。彼はフェンスのこちら側を見ながら、目を細めた。
「この土地、昔は○○さんの家があったんだよ。火事で全部やられちまったけどな」
「やっぱり、火事だったんですね。いつ頃のことです?」
「二十年……いや、もうちょっと前かもしれん。夜中だったな。ドンって音がして、見たらもう二階から火が噴き出してた。みんなバケツ持って走ったが、どうにもならんかった」
男性の声は淡々としていたが、瞼の奥にはその夜の光景がまだ焼き付いているようだった。
「消防も来たが、着く頃にはほとんど燃え尽きてたな。あれは……ただの火事じゃなかったよ」
「……というと?」
「誰もいないはずの家の中から、人の声がしたんだ。助けて、ってな」
悠真は息を飲んだ。
風が一層強く吹き、フェンスの影が長く伸びた。
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「火事のこと……」
老人は口を開きかけたが、すぐに視線を路地の奥へ逸らした。
「……いや、やめておこう。話しても、いいことはない」
「でも——」悠真は前のめりになった。
「事故じゃなかったんですよね?」
老人はかすかに眉をひそめ、低い声で言った。
「……燃えたのは家じゃない。あれは、人の口を塞ぐための火事だ」
その言葉に、悠真の心臓がどくりと跳ねた。
「人の口を塞ぐ……?」
だが老人はそれ以上は語らなかった。
「若いの、ここらじゃ昔から、見なくていいものは見ず、聞かなくていいことは聞かない。それが一番なんだよ」
そう言って、背を向け、ゆっくりと路地の暗がりへ消えていった。
悠真は追いかけようと一歩踏み出したが、その瞬間、視界の端で何かが動いた。
街灯の下、通りの角に立つ黒い影——誰かがこちらを見ている。
目が合った、と思った瞬間、その影は音もなく消えた。
(……つけられている?)
不意に背中に冷たい汗が流れた。
冬の風が路地を抜け、古い木戸をきしませる。遠くから商店街のシャッターを下ろす音が響き、町は夜の静寂に包まれていく。
悠真はポケットの中で、古びたフィルムの封筒を握りしめた。
(この町は……何かを隠している。あの火事と、あの声……全部つながってる)
街灯の明かりが背後に長い影を落とす中、悠真は商店街を抜けていった。
その後ろ姿を、どこかの暗がりからじっと見つめる視線があったことに、彼はまだ気づいていない。
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