第3話 路地裏の証言
薄暗い路地裏に、夏の湿った空気が淀んでいる。アスファルトには、苔むしたひび割れが幾筋も走り、古びた木造家屋の壁には、蔦が絡みつき、まるで長い年月をかけて何かを覆い隠そうとしているかのようだった。
俺は、手の中に握りしめた一枚の写真と、目の前の風景を何度も見比べた。
山下祐介が写っていた写真。
その背景にある路地は、東栄町商店街の裏手にある、地図にも載らないような場所だった。
昼間でも、人通りはほとんどない。俺は、その路地を何度も往復した。写真に写る特徴的な木の塀や、窓のない壁。
それらが一致することを確信した俺は、この場所で何かを知る人物を探すことにした。
商店街の喧騒から隔絶されたこの空間には、独特の時間が流れていた。
洗濯物が風に揺れ、軒先には猫が丸くなっている。そんな日常の風景の中に、20年前の少年がいた。彼はここで、何をしていたのだろうか。
「あんた、こんなところで何してるんだい?」
背後から、しわがれた声が聞こえた。
振り返ると、腰の曲がった小柄な老婆が、手に買い物袋を提げて立っていた。彼女の視線は、俺の手にある写真に注がれていた。
「すいません、ちょっと探し物をしていまして…」
俺がそう答えると、老婆はゆっくりと俺に近づいてきた。その目は、探るような、しかし、どこか懐かしむような光を宿していた。
「その写真の子…見覚えがあるよ。祐介くんじゃないかね?」
俺は、一気に緊張した。
「この子を知っているんですか?」
俺は前のめりになって尋ねた。
老婆は、俺から写真を奪い取るように手に取り、じっと見つめた。その指先が、少年の顔を優しくなぞる。
「ああ、懐かしいねぇ…。近所に住んでてね、うちの子ともよく遊んでたんだよ。いい子だった、本当に」
老婆は、そう言って遠い目をした。
彼女の名前は、松井とし子。この路地裏で、何十年も一人暮らしをしているという。
「祐介くんは、あの晩、泣いていたよ」
とし子は、突然、ぽつりと呟いた。
その言葉に、俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「泣いていた、というのは…いつのことですか?」
俺は冷静を装って尋ねた。
「祭りがあった夜だよ。雨が降っててね…祐介くん、一人でここにいたんだ。大きな声で泣いてて…何かあったのかと声をかけたら、ただ『お父さん…』って言って、それから何も話してくれなかったよ」
彼女の言葉は、断片的だった。
だが、それは、これまでの町の住人たちが語らなかった、確かな証言だった。
「そのあと、祐介くんはどうしたんですか?」
「それが…しばらくして、誰かが迎えに来たみたいで…そのあとは、見かけなくなったんだ。まさか、そのままいなくなってしまうなんてねぇ…」
とし子は、それ以上は語ろうとしなかった。まるで、口にしたくない、あるいは、口にできない何かがあるかのように。
俺は、なんとかさらに話を聞き出そうとしたが、彼女は「もう買い物に行かなくちゃ」と言って、足早に去って行った。
その日の取材は、わずかな手がかりを得ただけで終わった。
だが、その「泣いていた」という言葉と、「お父さん」という言葉が、俺の頭の中で何度も反響した。
祐介は、なぜ祭りの夜に一人で泣いていたのか。そして、誰かが迎えに来たというのは、一体誰だったのか。
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翌日、俺は再びとし子の家を訪ねた。
だが、何度呼びかけても返事がない。心配になり、近所の人に尋ねると、驚くべき事実を知らされた。
「ああ、松井さんかい?
昨日の晩、倒れて救急車で運ばれたってさ。一人暮らしだから、心配だねぇ」
俺は、胸騒ぎを覚えた。
とし子が倒れたのは、俺と会った翌日。偶然だろうか?
俺は、病院へと向かった。
病室のベッドに横たわるとし子の顔は、昨日よりもやつれていた。俺が「大丈夫ですか?」と声をかけると、彼女は薄く目を開けた。
「あんた…また来たのかい…」
か細い声だった。
俺は、改めて自己紹介をし、彼女に昨日の話の続きを聞かせてほしいと頼んだ。とし子は、少し迷った後、ゆっくりと話し始めた。
「あの夜…祐介くんが泣いていたのは…その前に、何かがあったからだよ…」
彼女は、途切れ途切れに言葉を続けた。
「火事を見たのよ…遠くで、炎が上がっているのが見えたんだ…」
その言葉に、俺は思わず息をのんだ。火事。それが、この事件とどう繋がるのか。
「…祐介くんはね、その火事の方を見て、泣いていたんだ。きっと、何か…怖いものを…」
とし子の言葉は、そこで途切れた。
彼女は再び意識を失い、静かに眠りについた。
俺は、病室の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。とし子の言葉は、この事件の謎を解く、重要な鍵になるかもしれない。
「火事」
その言葉が、俺の頭の中を駆け巡った。20年前、祐介が行方不明になった夜に、この町で火事があったのか。
俺は、病院を後にし、そのまま支局へ戻った。そして、インターネットのニュース記事や、古い文献を調べ始めた。東栄町の過去の火事について、何か記録が残っていないか。
だが、どれだけ探しても、それらしい記録は見つからない。
まるで、最初からそんな火事は存在しなかったかのように。
俺は、一つの仮説にたどり着いた。
この火事は、意図的に記録から消されたのではないか。
その目的は、何を隠すためか。
俺は、再び、この町の隠された闇に触れたような気がした。
それは、まるで、夜の闇に揺れる炎が、全てを焼き尽くし、何もかもを消し去ってしまったかのようだった。
そして、その炎を語ろうとする者を、再び沈黙へと追い込もうとする、見えない力が、この町には存在しているのかもしれない。
俺は、松井とし子が再び目を覚ますことを祈りながら、彼女が目撃した「火事」の真相を追いかけることを決意した。




