意地悪な質問と、残酷な要求
(放課後だけでいいから、あたしが行きたい場所へ連れていってほしいな)
それが円佳さんの願いだった。
僕としてはお安い御用だが、円佳さんと一緒にということは、必然的に美門にも来てもらわなければならない。
「わかったわよ、明日の放課後ね」
こちらのすがるような視線をしっしっと手で払い、ため息まじりに美門は言う。
「ただし、交換条件があるわ」
「どんな」
「校内では、わたしの半径10メートル以内に近寄らないこと」
学校にいる間は円佳さんを出現させない、というのが美門の意思らしい。
結論から言うと、これはとても厳しい条件だった。
休み時間になるたびに、僕はつい、意味もなく廊下をうろついてしまう。授業中は教師の話そっちのけで、円佳さんと過ごす放課後のことばかり考えている。付き合い始めのころに戻ってしまったみたいだった。
無慈悲な条件を耐え忍んで放課後になると、僕はすぐさま教室を出た。足早に廊下を歩き、一段飛ばしで階段を駆け下り、昇降口で土足にはき替える。待ち合わせ場所である学校近くの公園にたどり着くと、ベンチに腰かけてそわそわしながら美門を待った。
女子高生が通りがかるたびに顔を上げ、美門ではないとわかるとため息をつく。それを何度くり返しただろうか。
「さっきから挙動不審なんだけど」
振り返るとあきれ顔の美門が立っていた。
「なんでそっちから」
美門が現れたのは、学校からだと明らかに遠回りになるルートだ。
「お姉ちゃんと会うのが待ち遠しすぎてキョドってるだろうから観察してたの」
「なんて性悪な……、まあいいや。円佳さんは?」
「え? その辺りに……」
美門は後ろを振り返って黙り込む。
僕はベンチから立ち上がって公園の中央に移動した。美門もこちらの意図を理解してついてくる。円佳さんの出現範囲を、公園の敷地内に収めるのだ。
ピンク色のダッフルコートを着た幽霊は現れない。
真夏なのに鳥肌が立った。
こんなにあっさり、何の前触れもなく終わってしまうのか。
簡単にあきらめることなんてできない。いくらでも待つつもりだったが、
「とりあえず、涼める場所へ行きましょ」
「でも円佳さんが」
「――真夏の屋外で汗を流しながら、というのはお姉ちゃんが現れる条件に入っていたかしら」
美門の冷静さは少し癇に障ったが、そう言われるとぐうの音も出ない。
僕たちは近くにある喫茶店へ入ることにした。移動している間ずっと押し黙っていたのは暑さのせいではない。
二人掛けのテーブルに向かい合って座り、注文を取った店員さんが遠ざかってから、僕は口を開いた。
「もしかして円佳さんは、大学へ行っただけで、もう未練がなくなったのかな」
言葉にするだけで気が滅入ってしまう。
仮にこの想像が当たっているなら、円佳さんは僕たちの知らないところで気持ちの整理をつけて、何も言わずに旅立ってしまったことになる。
「いくら考えても答えは出ないと思うわ」
美門はお冷やをひとくち飲んでから続ける。
「お姉ちゃんの幽霊が現れたのは未練があったからで、未練を解消すればまた消えてしまう。そんな理屈は、わたしたちが勝手にそういうものだと思っているだけなんだから」
「そりゃあ、わかってるけど」
「いま見えていないのも、一時的なことかもしれないでしょ。わたしたちの知らない出現条件があるのかもしれないし」
「出現条件……」
と繰り返しつつ、美門の唇に目が行ってしまう。
円佳さんが現れたのは美門とキスをしたときだった。それが条件だったのかどうかはわからないが、そのタイミングで円佳さんが現れたのは事実だ。
「またキスをしてみたら、とか考えてるの?」
濡れた唇が動いた。
「何を言って――」
「わたしは別に構わないけど」
いつもと変わらぬ静かな口調で美門は言う。表情も平坦なので、本気で言っているのか、冗談でからかわれているのか判断がつかない。
「……そういうのは、最終手段だ」
「選択肢には入っているのね」
僕はグラスに入った氷水を一気に飲み干して、激しくむせた。テーブルの上に飛び散った水を、美門はてきぱきとおしぼりで拭いていく。
「そのうち、またひょっこり出てくるわよ。今のところはそういう仮定で過ごしましょ」
「ずいぶん落ち着いてるんだね」
こちらの皮肉にも、美門は眉ひとつ動かさない。
「あなただって、ぜんぜん取り乱してないわ」
「僕は鈍いやつだから」
言ってから苦笑する。
僕はたぶん、何か衝撃的なことがあってもそれをそのまま感じられず、しばらく時間を置かないと実感できないのだろう。円佳さんが亡くなったときも、幽霊になって戻ってきたときもそうだった。じわじわと浸透してきて、突然ガクンと動けなくなる。感情の伝導率が低いのだ、きっと。天変地異が起こっても逃げ遅れるタイプだ。
「わたしはこの状況を、おまけのようなものだと考えているから」
「おまけ?」
「そうよ。東雲円佳、享年二十歳の人生の、余禄」
ひどくドライな現状認識だったが、それならば、この落ち着きようも理解はできる。
「だから、奇跡だと思っているあなたとは、スタンスが違うのも仕方ないでしょ」
「そうかもしれないね。……あれ?」
違和感を覚えて首をひねる。
『この状況って奇跡じゃないですか』
たしかにそんな恥ずかしいセリフを口にした記憶はある。しかし、それは昨日の大学見学のときに、円佳さんに向けてだったはずだ。
「え、もしかして、あの話、聞こえてた?」
「声が大きいのよ。興奮してたんじゃないの」
「おぉ……」
天井を仰ぎ見る。
数メートル離れた美門が聞こえていたのなら、僕の周りにいた人たちには丸聞こえだっただろう。誰もいない場所に向かって恥ずかしいセリフを語るイタい男として、不審がられていたに違いない。もっとも僕は円佳さんとの話に夢中で、他人など見ていなかったのだが。
「あなたの生き恥は置いておいて、今のうちに聞いておくけど」
「……何」
正面に向き直ると、美門は頬杖をついていた。
「昨日どうしてお姉ちゃんにあんな話をしたの」
「あんな話?」
「行きたい場所や、やりたいことはないかっていう話よ」
その理由ならはっきりしている。
円佳さんの友人や知人は、ことごとく彼女の姿を見ることができなかった。それはとてもさびしいことで、改めて僕は円佳さんをかわいそうだと思ったのだ。
それに、この状態がいつまで続くのかもわからない。だから今のうちに、彼女が望むことをしてあげたかった。早くも目的を見失ってしまいそうだが。
「生きていても、幽霊になっていても、大事な人のために何かしてあげたいと思うのは当たり前のことじゃないかな」
「あなたは、お姉ちゃんを送りたいの? それとも繋ぎ止めたいの?」
こちらの甘い言葉に対して、美門の問いかけは鋭かった。
答えられずに黙り込む。店内に静かに流れるピアノ曲が、二人の間の静けさを埋めてくれたが、それも長くはもたなかった。
美門はさらに質問をしてくる。
「お姉ちゃんがずっとあのままだったら、あなたもそれに合わせて一緒にいるつもりなの? 手もつなげないのに?」
「今はまだ……、その先のことなんて考えられない」
正直に答えると、美門は聞えよがしにため息をついた。
あいまいな返事が不満だったのだろうか。
「でも、お姉ちゃんの狙いは想像がついてるでしょ」
「円佳さんの、本当の目的……」
「お姉ちゃんは、わたしとあなたを一緒に居させて、距離を縮めようとしている。俗っぽい言い方をするなら、くっつけようとしている」
美門の予想はたぶん当たっている。
円佳さんのために何かをするというなら、僕と美門の同行は絶対条件だ。
行ってみたいと望まれれば、流行りのデートスポットだろうが、シックな美術館巡りだろうが、どこへなりと僕たちは出向くだろう。もちろんそれは、亡き恋人のため、あるいは亡き姉のためにという一心でだ。
しかし、円佳さんはこの条件を利用して、残された僕たちの仲を取り持ってやろう、などと考えるのではないだろうか。
あるいは、そんなお節介精神こそが、この奇妙な状態の原因なのかもしれない。
「可能性はあるだろうね」
「……わかってて、あんなことを言ったの?」
美門の声にはっきりとした感情がこもる。怒りだ。
「円佳さんの気が晴れるのなら、ちょっと話に乗るくらいは」
「形だけでも仲良くしておくっていうの? じゃあ本当にキスしてみる?」
矢継ぎ早に問いかけられて、イエスともノーとも答えられずに押し黙ってしまう。
「お姉ちゃんの気持ちのためなら、わたしの気持ちはどうでもいいの?」
「そんなことは――」
「誤魔化さないで、はっきり言葉にして」
美門はテーブルに身を乗り出した。
「わたしは今、意地の悪い質問をしているわ。それはね、あなたの口からきちんと聞きたいからよ。残酷な要求をしているんだってこと、思い知らせたいからよ。だから、察してなんてあげない。甘えないで」
頬を平手で張られたような思いだった。
現実にやられた経験はないが、あれは痛みではなく、それをされたという事実によって受ける精神的なダメージの方が重要なのだろう。
彼女にここまで言わせてしまったことを申し訳なく、そして情けなく思いながら。僕は心からの言葉をかき集める。
「どちらの気持ちを優先するかと言われれば、それはやっぱり、いつ消えるとも知れない円佳さんの方だよ。だから、協力してほしい」
「イチャついてるのを見せつけてしまうけどごめんなさい」
「え?」
「復唱」
有無を言わせぬ口調だった。
「……イチャついてるのを見せつけてしまうけどごめんなさい」
「女心がわからないダメ男でごめんなさい」
「……女心がわからないダメ男でごめんなさい」
「ん、今のセリフは迫真だったわ」
「それはどうも」
演技じゃなかったからね。
美門による精神修養がひと段落したタイミングで、女性の店員さんが注文の品を運んできた。
「……ブレンドコーヒーのお客様」
軽く手をあげて応じるとき、店員さんに一瞬だけ蔑むような目で見られた気がした。
「こちら、ミルクティーです」
美門の前に紅茶の入ったグラスと、ミルクの入ったガラスの小瓶が置かれる。店員さんが美門に向ける視線が慈しみに満ちていたのは気のせいだろうか。
お互い、注文した飲み物を口にして一服して、話を再開する。
「まあ、いいわ。お姉ちゃんに免じて協力してあげる」
「それはどうも。……ありがとう、ミカ」
「だから、お姉ちゃんのためよ」
「別にミカが円佳さんとイチャついてもいいんだよ」
「わたしたち姉妹ってそういう感じじゃなかったから」
「そう」
美門はアイスミルクティーをもうひと口。
僕もつられるようにコーヒーカップをかたむける。
その後、少しためらいながらも口を開く。
「生きるべき人とか死ぬべき人とか、言うけど」
「ええ」
「そういう人なんか、どこにもいないんだなって、思うよ」
「それはそうよ。どんな善良な人でも死んでしまうし、あちこちで迷惑をかけてるような人間が平然と生きてたりする。そういう世の中でしょ」
「あっさりしてるね」
「口だけよ。わたしはシルバー席に平気で座ってる若者とか、店員に怒鳴り散らしてるおじさんとかを見かけるたびに、どうしてあんなのが生きてるのに、お姉ちゃんは――なんて考えてる暗い女なんだから」
知ってるよ、と心の中で応じる。
こんな根の暗い話は、円佳さん相手にはできない。それは、円佳さんが亡くなっているから不謹慎だ、なんていう配慮とは関係がない。話し相手の性質の問題である。
東雲円佳という善良な人に、ネガティブな心の内を知られたくないからだ。元カレの言葉を借りることになるが、円佳さんは確かにまぶしいのだ。
美門にこんな話ができるのは、彼女がそういう人格だと知っているから。
東雲美門は出会ったころから物静かで、内向きで、そして、投げやりな攻撃性を持つ女の子だった。




