恋の死
円佳さんと出会ったのは、去年の秋のことだった。
僕がアルバイトをしているコンビニに、彼女が新人として入ってきたのだ。
「東雲円佳です、よろしくお願いします」
ていねいに頭を下げる彼女は二つ年上の大学生で、人目をひく美人だった。
顔立ちは本当にすごくきれいなのに、いつもニコニコと笑顔を浮かべているから、お高い感じはしない。
よく言えば、親しみやすく、打ち解けやすい。
悪く言えば、ほどよく隙があって、異性を勘違いさせやすい。
それが円佳さんの第一印象だった。
そんな彼女を男性の同僚が狙うのは当たり前のことで。
特に、同じ時間帯にシフトに入っている先輩が円佳さんにべったりだった。つきっきりで仕事を教えたり、事務所に引きこもって新人教育と偽りスマホの動画を見ているのを、僕はやれやれと思いながらレジ打ちをしていた。
「ねえキミ」
バイトを始めて1週間ほどがすぎたある日、円佳さんの方から声をかけてきた。僕はちょうど棚の商品の乱れを直しているところだった。
「横島さんがサボってるの、注意しなくていいの? 言いにくいのなら、あたしから店長さんに伝えてあげようか?」
不真面目な先輩アルバイトへの反感と、年下の先輩アルバイトへの気づかいを、円佳さんは口にした。
「いつもあんなだから気にしなくていいですよ。本当に忙しいときは呼べば一応出てきますし」
「キミはそれでいいの」
「上手く回っているうちは」
「でも、それってキミが損をしてるんじゃないの」
不満が収まらないらしい円佳さんに、僕は少し言い方を変える。
「……悪い人じゃないんですよ。ただちょっとおしゃべりなだけで、仕事中もレジに二人並んでたら、話しかけないと気が済まないような人なんです。でもその話が本当につまらなくて、僕が「はあ」とか「そうですね」とか、そういう反応しか返さないから、いつからか横島さんは事務所に引っ込んで、事務仕事と称して憂チューブに興じるようになったんです」
「あ、それそれ、あたしもなんかお気に入りの動画見せられたんだけど、それがぜんっぜんつまらないの。どこがおもしろいのかわからなくて「はあ」とか「そうですね」とか、キミと同じような相槌打ってたよ」
円佳さんはようやく表情をほころばせる。
「でもそっか、虐めとかパワハラってわけじゃないんだね」
僕はその笑顔から顔をそむける。
始めて数日のバイト先の同僚を心配する優しい人だった。
「どっちかっていうと東雲さんがセクハラを受けてる気がしますけど」
「え? あれってサボり仲間に引き込まれてるだけでしょ」
「今まで横島さんは、女性のバイトが入ってきてもそんなことしてませんでしたよ。東雲さんが美人だからじゃないですか」
特に他意はなくそう言うと、東雲さんの頬が赤くなった。綺麗だし社交的な人だから、ほめられるのには慣れていると思っていたのに、予想外に初心な反応である。
他意はなかったはずなのに、そんな反応をされたらこっちがナンパ野郎みたいじゃないか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それから少しずつ、円佳さんとの接点が増えていった。
ある日、僕がバイトに入ると、2台あるレジの片方しか空いていなかった。
それ自体はよくあることだが、稼働中のレジはまだ不慣れな東雲さんが打っていて、お客さんが四人並んでいた。スーパーならばいざ知らず、コンビニでは長蛇の列レベルと言える。
横島さんはどうしているのかと事務所をのぞくと、お気に入りの憂チューバーの動画に見入っていた。何やってんだろうこの人、東雲さんに良いところを見せるチャンスなのにと呆れつつ、僕は急いでもう一方のレジを開けて、お客さんをさばいていった。
助けに入ってやった、なんてつもりはない。溜まっているお客さんを早く掃かせるのはただの仕事なのに、円佳さんは絶体絶命のピンチに駆けつけたヒーローでも見るみたいな顔でこちらを見ていた。
仕事を終えて店内で買い物をしていると、円佳さんが声をかけてきた。
「お仕事で疲れた少年に、おねーさんが肉まんをおごってあげよう」
「さっきのお礼のつもりなら、大丈夫ですよ」
素っ気なく返すと、円佳さんは頬を膨らませる。
「どうしてそんなこと言うの」
「あれは仕事をしただけなんで」
「じゃあ、あたしの助けてくれてありがとうっていう気持ちはどこへ持っていけばいいのよ」
「さあ……」
「いいから受け取りなさいって、据え膳食わぬは男の恥っていうでしょ」
「あれそういう意味じゃないと思うんですけど……」
「え、違うの?」
「食べる食べないって性的な意味ですよ」
「キミって、あたしのことそういう目で見てたんだ……」
円佳さんは僕から身を守るように、胸の前で腕を交差させる。
「誤解です」
「あははははは、キミもこーゆー話だと赤くなるんだ。愛いやつ愛いやつ」
「意味わかってないですよね」
僕はあきらめて肉まんを奢られることにした。
「その一番下の、奥のやつを」
「え? これってもうすぐ廃棄しちゃう古いやつだよ」
「別にいいです」
「でも、生地べちゃべちゃだよ?」
「しっとりとしてますね」
「物は言いよう!」
「味音痴なんで大丈夫ですよ」
僕は強引に腕を伸ばして肉まんを奪い取る。
「ふーん、なるほど、キミってそういう子なんだね」
と円佳さんは何かに納得したようなニマニマした顔でうなずくのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
年の瀬も押し迫ったころ、その一件は起こった。
さいきん横島さんの絡み方がしつこくなってきて怖い、という話は聞いていたが、それがついに行動に移された。円佳さんの仕事が終わるのを待ち伏せしていたというのだ。
夜道は危ないから送ってやるよとか、そういう言い訳を用意していたのだろう。帰りにどこかへ寄っていくか、あるいはそのまま送り狼になるつもりだったのかもしれない。
幸いにして、一度目の危機は回避された。
「仕事が終わって店を出ようとしたとき、なんか違和感っていうか、外に人の気配を感じたの。事務所の監視カメラで見てみたら、あの人が立ってて……」
「それで、どうしたんですか」
「具合が悪くなったからって嘘ついて、お父さんに迎えに来てもらっちゃった。もう大学生なんだし、あんまり頼りたくはなかったんだけど」
「夜も遅いですしね」
「それに、何度も迎えを頼んだら、さすがに変だと思われて、ここのバイト辞めさせられちゃうかもしれないし」
「何度も使える手じゃないですよね」
「どうしたらいいと思う?」
「さあ……」
やり取りの間、円佳さんはチラチラとこちらの顔色をうかがうようなそぶりを見せていたが、その意味はよくわからなかった。年上の女のひとから、高校生に過ぎない僕になんらかの行動を求められているなんて、このときは考えもしなかったのだ。
だいたい、円佳さんの退勤時間は夜の12時。
高校生のバイトは夜の10時までと法令で決まっているので、僕には関知できない話だった。直接的には。
だから店長に頼んでシフトを調整してもらった。
まずは、横島さんと円佳さんの出勤日を常に同じにする。
その上で、円佳さんが仕事を終わるとき、横島さんはまだ勤務時間中である、という状態のシフトにするのだ。これなら不真面目なあの人も、さすがに仕事をサボってまで出待ちをすることはない。
「うーん……、でもなぁ……」
店長は少し渋っていた。一方的にシフトを変更するのは、バイト側から嫌がられることも多いので、気が乗らないのだろう。しかし、
「東雲さん辞めちゃうかもしれませんよ。バイトが集まりにくいこのご時世に、あんないい人を手放していいんですか」
そう問い詰めると、人手不足には勝てないらしく、ようやく受け入れてくれたのだった。
「……それだけじゃないでしょ。店長に掛け合ってくれただけでも、十分うれしいんだけど」
数日後のバイト帰りに、コトの顛末を知った円佳さんに捕まってしまった。
「それだけじゃないっていうのは?」
「キミに負担をかけてる。あたしを助けるシフトを組むために、キミの出勤時間がズレてるじゃない。今までは学校が終わってすぐ入ってたのに、中途半端に時間が空いちゃって、やりづらくなったでしょ」
「時間だったらいくらでも潰せるから大丈夫ですよ」
「もう……、また格好つけて」
「別にそんなつもりはないですけど」
「でもあたしは格好いいって思ってるの!」
勢い込んでそう言ったあと、円佳さんは顔を赤くしてうつむいてしまう。それから、ちらり、と上目遣いでこちらの反応をうかがってくる。
なんだろうこの人、すごくかわいいぞ……。
「お願いがあるんだけど」
「なんですか」
「このあと、あたしが上がるまで、ちょっとだけ待っててくれない? 一緒にどっか寄っていこうよ」
「今日はクリスマスイブですけど、良いんですか」
そう尋ねると、円佳さんは唇をとがらせ、あからさまに不機嫌そうな表情をする。
「わざとはぐらかしてるの? それとも本気でわからないの? ……キミと過ごしたいって、そう言ってるの」
「僕と……?」
「キミが好きなの」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
こんなきれいな年上の女の人が、冴えない年下に好意を伝えているこの状況が理解できなかった。最初は冗談かとも思ったが、冗談でこういうことを言える人ではないのは、短い付き合いだけどよくわかっていた。
自分の気持ちだって、いつからか自覚はしていた。だけど受け入れられるわけがないと思っていたから、ずっと言葉にできなかったのに。
「僕も、好きです」
まだ仕事中の、制服姿の円佳さんが抱き着いてくる。
「本当に?」
腕の中で不安そうな声。
「本当です」
「あたしなんかでいいの?」
「こっちのセリフです」
「学校で誰か気になってる子、いないの?」
円佳さんと同じ苗字の女子生徒が一瞬だけ頭をよぎったが、いま目の前にある明らかな恋慕と比べると、その想いはあまりにもささやかだった。
「……いませんよ」
こうして僕たちの付き合いが始まった。
クリスマスイブだからといって、そのまま流れでそういうことを致したりはしなかった。ファミレスで向かい合って話をするだけで胸がいっぱいで、そういうところにまで考えが及ばなかった。
「次のクリスマスはちゃんとしたところでデートしたいね」
「ちゃんとしたところって?」
「それは……、あれよ、わかるでしょ?」
テーブルにうつ伏せになって顔を隠す円佳さんがおかしくて笑ってしまう。
「ちょっとキミ、わかっててとぼけてるでしょ」
「世間知らずなんですよ」
「こっちばっかり焦ってるの、なんか悔しい。見てなさいよー」
正月の初もうでで、円佳さんはリベンジとばかりに気合の入った振り袖姿で現れた。僕はまんまとそれに見とれて、きれいです、かわいいです、と賛美の言葉を連呼していた。本当に可愛すぎて羞恥心を忘れてしまっていた。
バレンタインにはチョコが手作りでないことを悔しがっていた。
「あたし料理全般ダメなの、ゴメンね?」
「僕は家事とか、そんなに苦手じゃないんで」
「え?」
「なんか変なこと言いましたっけ」
「あたしの代わりに家事をやってくれる、みたいに聞こえたんだけど……」
「……あ」
まるで同棲の計画を立てているみたいだと気がついて、お互い顔を赤くしてしまった。
ホワイトデーには気合を入れたお返しを贈った。
「わぁ……、このネックレス、高かったんじゃないの?」
「誕生日も近いって聞いたんで、それ込みです」
「んもう、背伸びしちゃってぇ」
円佳さんは年上の余裕をよそおいつつも、ずっとニヤニヤ笑いを浮かべていた。僕の誕生日にはもっと豪華なプレゼントをお返ししてやらないと、なんて意気込んでもいた。
そのほかにも、先の話をたくさんしたのだ。
春になったらお花見をしよう。
夏になったら海へ行こう。祭りに行って花火を見よう。
秋になったらお互いの学校祭を見て回ろう。
そして、二度目の冬のクリスマスには――
そうやって、次があることを疑いもせずに。
◆◇◆◇◆◇◆◇
美門からの電話は、アルバイトの休憩中にかかってきた。
そもそも美門から電話がかかってくること自体が珍しいのに、そのときは不在着信が5件もあって、ディスプレイを見ただけで何かよくないことがあったのではないかと察せられた。
動機が早くなるのを感じながら、折り返しの電話をかけようとした、その瞬間にスマホが震えた。
『落ち着いて、聞いてほしいんだけど』
現実はこちらの想像をはるかに超えて最悪だった。
世界が滅ぶのと同等の悪い報せだった。
『今、病院にいるの。電話で呼ばれて。わたしと母も。事故だって。お姉ちゃんが事故に、遭ったって。父はこっちへ向かってるところ。それで――』
美門の声は静かだった。
世界が滅んだあとのように静かで、廃墟のように無秩序だった。
霊安室と呼ばれる場所へどうやって辿り着いたのか記憶がない。病院の人に案内されて、二人で向かったのだが、順路はまったく覚えていない。方向感覚には自信がある方だが、もう一度行こうとしても無理だと思う。近しい者が亡くなった人間にしか道が開かれない、そういう場所なのかもしれない。
骨組みだけの素っ気ないベッド――ストレッチャーというやつだ――その上に白いシーツがかけられて、人が寝ころんでいる程度に膨らんでいた。頭の部分には白い布がかぶせられていて、僕と美門は並んで、医師の手によってその布が外されるところを見ていた。
眠っているようにしか見えなかったが、目を覚ましてよ、なんて間の抜けた呼びかけの言葉が口をつくことはなかった。
医師に確認を取って手に触れさせてもらった。
そのとき、あまり強く握らないように、と注意を受けたのが印象的だった。
もう物質だから、生き物ではないから、強く握っても痛いとは言ってくれずに、何の前触れもなく壊れてしまうかもしれないから――。
そういう意味だと勝手に受け取って、円佳さんを失ったという事実に沈み込んでいく。
触れた手は絶望的に冷たかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
その冷たさの記憶が引き金となって目が覚めた。
約束を思い出してスマホの時計を確認するが、まだ午前の3時過ぎだった。クーラーをかけているのに身体じゅうが汗で濡れていた。心臓も激しく脈打っていたが、寝ころんだまま天井を見上げていると、徐々に動悸は落ち着いてくる。
円佳さんが亡くなった当時の夢を見たのは久しぶりだ。ここ最近ではぱったりと見なくなっていたのに、どうしてだろう。やはり円佳さんの幽霊のせいだろうか。
種別としては悪夢のたぐいだが、まだ記憶が鮮明だったことは少しうれしかった。




