今まで、どこに
円佳さんの言葉がじわじわと心に染み込んでくる。
あの楽しかった毎日を。
会うたびに彼女を好きになっていく日々を。
これ以上のしあわせはないと確信していた時間を。
円佳さんの方は、僕と同じようには感じていなかったのだろうか。ショックが大きすぎて何も考えられなくなりそうだったが、困ったことに、僕はこの手の衝撃には慣れてしまっている。だから対処もばっちりだ。
「……それはそれとして」
と僕は話を変えた。
(あ、逃げた)
「話題にも優先順位があるので」
円佳さんが茶化すが、取り合わない。
「――円佳さんは、今まで、どこにいたんですか」
〝亡くなってから〟という具体的な言葉を外して問いかける。
円佳さんはベッドの端に座って、子供みたいに足をぶらぶらさせながら言う。
(どこにいたとか、何をしてたとか、そういう感覚はないかなぁ。ホントに、気がついたらあそこにいたのよ。強いて言うなら、ずっと眠ってたみたいな感じかな)
「そう、ですか。……よかった」
(良いわけないと思うんですけど?)
円佳さんは語尾を上げて口をとがらせる。
死んだ人間に使う言葉ではなかった。僕は慌てて頭を下げる。
「あ……、いや、すいません。そういう意味じゃなくて……」
(うんうん、聞いてあげる、キミの言い訳)
円佳さんはあっという間にお姉さんぶった笑顔に戻る。
「言い訳とはちょっと違うんですけど……、その、死後の世界に天国と地獄という区分けがあるとしたら、もちろん円佳さんは天国へ行ってますよね。それを無理に引き戻してしまったのだとしたら、申し訳がないじゃないですか」
きょとんとしている円佳さんに、言葉を探しながら言い訳を続ける。
「あと、死後の世界なんて存在しないのだとしたら、幽霊になってから、ずっと現世をさまよい続けていたことになりますよね。それは、想像するだけで居たたまれないので……、円佳さんの境遇がそのどちらでもないことを、良かったと思ったんです」
(んーーーッ……)
円佳さんは梅干しを口に含んだような顔になった。
「え、どうしたんですか」
(キミって本当に、ナチュラルに恥ずかしいセリフをぶっ放すよねぇ)
「今の話って、そんなにハズい内容でしたっけ?」
(あたしを照れさせるプロフェッショナルだよもう……)
両手で頬を挟んでうつむいてしまう円佳さん。その仕草がかわいくて、今が有り得ない時間だということを忘れてしまいそうになる。あるいは、それを僕に意識させないために、ことさら明るく振る舞っているのかもしれない。
(っていうか、あたしが目覚めたきっかけは、やっぱりあのキッスよねぇ)
そんな風に昨日のことを茶化す円佳さん。口元を手のひらで隠してにししと笑っている。
「眠り姫じゃないんですから。第一、僕は王子様じゃないし、相手も違うし。キスがスイッチだとしても、回路が混線してますよ」
(ほらやっぱりロマンチックなこと言っちゃってる)
「そういう茶々は後にしてください」
(でもさ、回路が混線してるなら、キミとあたしがキスすれば、ミカちゃんが目を覚ますってことにならない?)
「さあ……」
その思いつきを本気でいいアイデアだと思っているのか、円佳さんは自信ありげな顔をする。突拍子もないことを言ってこちらを困惑させる彼女を、とてもらしいと感じた。本当に、生前と変わらない。
(あ、そっか、幽霊には触れられないから、そもそもキスなんてできないね)
幽霊と人間とのラブストーリーで出てくるようなセリフだった。
僕は黙って立ち上がると、美門が寝ているベッドの二つ隣の、カーテンで囲まれたスペースへと移動する。円佳さんはカーテンをするりと素通りしてついてきた。
(どうしたの? 急に)
「触れてみていいですか」
円佳さんは目を丸くして、それからさみしげに笑った。
(イチャついてるところ、ミカちゃんに見られたくない?)
「騒々しくして起こしたら悪いですから」
向かい合って、お互いの距離は50センチほど。
(背、少し伸びたね)
「気がつきませんでした」
そっけなく答える。
そんな、時間の流れを意識させるようなことを言わないでほしい。
僕は一歩踏み込んで、円佳さんの唇――があるように見える位置――へ顔を寄せていく。確かに以前より少し、円佳さんの顔の位置が低くなっていた。肩に手を置けないので距離感がわかりにくい。付き合い始めのころ自分の部屋で、枕を円佳さんに見立ててキスのシミュレートを重ねていた、イタい記憶がよみがえった。
唇の感触はない。
「どうですか」
(正直に言うけど、なんの感触もなかったよ)
「僕もです」
(幽霊は記憶で形作られたものだから、人と重なると相手の感情とか記憶が見える、みたいなオカルト話は、ちょっとだけ期待してたんだけど)
「そうならなくてよかったです」
苦笑いを返しつつ、カーテンをかきわけてベッドの方へ戻ってくると、本当にキスがスイッチになったわけではないだろうが、上半身を起こした美門が冷めた瞳でこちらを見ていた。
円佳さんがすばやく美門のそばへ歩み寄る。
(ミカちゃん、よかった……、目が覚めたのね)
「心配するふりなんてしないで」
と美門は冷淡に吐き捨てる。
あまりに雑な口ぶりに、最初は僕に言っているのかと思った。
しかし美門は確かに円佳さんの方を向いていた。姉の幽霊の存在は認めた上で、明らかな拒絶の言葉をぶつけたのだ。
(ミカちゃん……?)
お気楽に振る舞っている円佳さんも、さすがに表情がこわばっていた。
ショックを受ける姉に対して、美門は一切の気遣いをせずに淡々と問いかける。
「お姉ちゃんは今までどこにいたの?」
それは先ほど僕がしたのと同じ質問だった。
だから、その意図も同じだと思っていた。
「眠っているような状態だったらしいよ」
「それはもう聞いたわ」
まず返事の素っ気なさに驚き、次いでその言葉の意味するところに気づいてまた驚く。
「……起きてたのか。じゃあ、なんで同じ質問を」
「同じじゃないわ」
美門は僕の言葉を乱暴にさえぎった。
苛立っているのがはっきりわかる、攻撃的な態度。
「言葉が足りなかったわね。――お姉ちゃんは昨日、部屋で化けて出てから、今日、学校の廊下に現れるまでの間、いったいどこにいたの?」
盲点を突かれたような質問だった。
亡くなってから昨日まで、ではなく、昨日から今まで、円佳さんはどうしていたのか。それがすっかり抜け落ちていた。今朝の美門の反応を見るかぎりでは、姉妹で夜通し、思い出話に花を咲かせていたわけではなさそうだ。
「あなたのところにいたわけじゃないみたいね」
僕の態度から察したのか、美門はそう結論づける。
美門の方は、円佳さんが僕のところにいると考えていたのだろう。しかし、実際はどちらのところにも姿を見せていなかった。
(どこにも行ってないよ。気がついたら学校だったから……)
「眠っているような状態だった、ってことですか?」
(うーん、それもちょっと違うかな。昨日はミカちゃんが部屋を出ていったあたりで一時停止して、今日は学校の廊下のシーンで再生、みたいな感じ)
円佳さんは浮かない顔で首をひねる。
彼女自身、自分の状況がよくわかっていないのだろう。
「その間って、だいたい半日くらい時間が経ってるんですけど」
(あたしの方はタイムラグなかったよ)
「……やっぱり、そうだったのね」
美門は苦い顔でゆっくり左右に首を振った。何か僕たちの知らないことを知っている、あるいは気づいている、思わせぶりな態度だ。
「何かわかったのなら、教えてほしい」
駆け引きをする余裕のない僕は、ただ率直に頼むしかない。
美門は円佳さんを一瞥して、僕を見て、短くため息をついてから、ゆっくりと話を始めた。
「お姉ちゃんは、フィクションでよくある幽霊みたいに、ふわふわ浮遊して自由に動けるわけじゃない。地縛霊っていうのとも違っていて、どこか一カ所に縛られて、どこにも行けないわけでもない。……〝憑りついている〟というのが近いんでしょうね」
美門は一拍おいて、苦い表情で話を続ける。
「たぶん、お姉ちゃん――東雲円佳の幽霊は、わたしとあなたが一緒にいるところにだけ、現れるのよ」