最後の旅
夏祭りの翌日。
駅での待ち合わせよりもかなり早めの時間に、僕は東雲家を訪れていた。旅立ちの前に済ませておくことがあると思ったのだ。
家のなかへは立ち入らず、しかし出現範囲ができるように、ブロック塀に背中をあずける。それから美門にメッセージアプリで連絡を入れた。
>すぐ近くに来てる。家の北側の壁沿い
今日が最後というのなら、円佳さんが自分の家に対して向き合える時間を用意したかった。
残念ながらというかやはりというか、ご両親に円佳さんの姿は見えなかった。それは先日の見舞いのときにも確認済みだが、円佳さんの納得のためにも、こういう機会を作ってあげたかった。
仏壇に手を合わせて祈りを捧げても、故人と話ができるわけではない。生きている人間が節目を感じるためにそういうことをするのだ。これは、その手の確認と同じような行為なのかもしれない。行うのが生者か死者か、その違いだけだ。
自分の過ごしてきた部屋をじっくりと眺めたり、ご両親の表情を記憶に刻み付けたり、あるいは感謝の言葉をつぶやいたり。
消えてしまう円佳さんにとってそれは無意味な行為だろうか。不要な記憶だろうか。
届かない感謝の言葉に価値はあるのだろうか。
それを決められるのは円佳さんだけだが、幸運なことに僕は、彼女がどう感じたのかを察することができる。
家から出てきた円佳さんは、上目遣いでかわいくこちらをにらんできた。
(小粋な計らいをするようになっちゃって)
「少しでも早く会いたかっただけです」
(ふーん、照れ隠しはまだまだ未熟ね)
「というかその言い訳がこっ恥ずかしいわ。噴飯ものよ」
ドライに言い放ちながら先に歩いていく美門がおかしくて、僕と円佳さんは顔を合わせて忍び笑いをした。
あまり列車を利用しない僕にとって、4ケタ価格の切符というのは思わず二度見してしまうくらい縁のないものだった。小旅行と言っていたとおり、それなりの距離があるのだろう。目的の駅がある場所はほとんど県境だった。
僕と美門は自分用の切符と、そして当たり前のように割り勘で大人1枚の切符を購入してから、古ぼけた鈍行列車に乗り込んだ。
(実はね、キミのいたコンビニを選んだのって、偶然じゃないんだよ)
美門の隣に座っていた円佳さんは、唐突にそんなこと言った。列車はガタンゴトンと順調に市街地から遠ざかっている。
「それって、僕が働いてることを知ったうえで、ってことですか」
(そうよぉ)
「またどうして」
(もちろん、ミカちゃんが気になっている男の子に興味があったからよ。ウチの可愛い妹にちょっかいを出すのはどんな奴だ、って乗り込んでやったの)
「そんなの、客として来ればそれで十分じゃないですか――って、え?」
美門はそんなに前から、僕に対してそういう感情を持っていたのだろうか。
気になって美門をうかがってみるも、彼女は文庫本を開いたまま、さっきから一切、会話に入ろうとしていない。断固として壁を作っているが、こちらの話題に合わせてピクリと表情が動くので、たぶんしっかり聞き耳を立てているのだろう。実際、ページは一枚も進んでいない。
(ちょうどバイトがしたいと思ってたから、ついでよ、ついで)
円佳さんはあははと笑い、それから、少しためらうような間を取って、
(で、まあここからが本題で、何が言いたいかっていうとね、最初はただの様子見だったのに、なんだかんだ絡んでるうちに、キミを好きになって……、抜け駆けみたいなことをしちゃってごめんなさい、ってこと)
円佳さんは文庫本で顔を隠したままの妹へ頭を下げる。
「別に、あたしは……」
美門はちらと文庫本から視線を上げてこちらを見て、
「そのとき、あなたのこととか別に興味なかったし、お姉ちゃんの勘違いだから。本当よ。気になるっていうのは、誰か一人だけでも、強いて言うならっていうレベルでいいから、ってお姉ちゃんがしつこくせがんでくるから、仕方なく答えただけ。そうしないと引き下がってくれそうになかったからよ。本当だから。……ちょっと聞いてるの二人とも」
ちゃんと聞いていたせいでだんだん恥ずかしくなってきた。
素直じゃないのが逆にわかりやすくて、正直、かわいい。
(はいはい、よしよし、ツンツンデレデレ)
円佳さんが謎の呪文を唱えながら頭を撫でると、美門はふてくされて文庫本で顔を隠してしまう。
しかし円佳さんは容赦しない。
(じゃあ、次はミカちゃんね)
「次って何よ」
(秘密打ち明け大会のトップバッターをあたしが務めてあげたんだから、その次ってこと)
「え、今そういう流れだったんですか」
(ほらほら、あたしは胸に秘めていた言いづらい過去を明かしたんだから、ミカちゃんも観念して話しちゃいなさいな)
美門は文庫本で顔を隠したまま、ふいっと窓の方へ身をよじる。
円佳さんと美門の関係性があらわになるやり取りだった。
いつも以上にお姉さんしている円佳さんと、普段よりずっと幼くて妹っぽい美門の対比が、おかしくて仕方がない。
もっと早くこういう風になりたかったなと、切に思う。
親しい人を失った悲しみとか、それが不意に戻ってきた驚きや戸惑いとか、だけど結局消えてしまうことには変わりがないというあきらめとか、そういう感情の乱れのせいで、僕たちはとても平静ではいられなかった。
最後の最後にならないと〝普通〟を取り戻せなかった。
世界が滅ぶ映画でよくあるやつだ。
もうすぐ人類は滅亡しますと政府の偉い人が発表して、民衆は右往左往するけれど、やがて滅びを受け入れておだやかな日々を過ごすようになる――その、エンディング間近のところに、僕たちも来ていた。
世界は終わらないが、円佳さんは消える。
この二人のやり取りをもう見られなくなる、と思うととても寂しい。いや、逆だ。円佳さんが幽霊になって戻ってこなければ、そもそも再び見ることすらできなかった。だから、もっとこの奇跡を喜ぶべきなのだ。
そんな風に前向きに考えてみても、さびしい気持ちはまったく癒えない。人間は浅ましい。思いがけず得られた幸運にもすぐに慣れて、もっと寄越せと欲を張る。
姿を見られたら、次は声を聴きたくなる。
声が聞けたなら、その次は手に触れたくなる。
口づけを、その続きを、もっともっとと求めてしまう。
だけど、駄目だ。今は、そんな情けない姿を見せてはいけない。これまでさんざんこの姉妹には情けない姿を見せてきたのだから、せめて最後くらい、格好をつけて、さよならをしなければ。
だんまりを決め込んでいる美門をフォローあるいは弄るべく、
「……じゃあ僕からリクエストで」
(仕方ないなぁ、何?)
「美門が自分の名前を呼ばれるのを嫌がっている理由とか」
「はぁ? 別に嫌がってなんてないわ」
(実はねえ)
「ちょっとやめてお姉ちゃん」
(効きませーん)
美門はぶんぶんと腕を振るが、当然すかすかと円佳さんをすり抜けてしまう。
やがて美門はあきらめて白状した。
「……美門の、かど、っていう響きが好きじゃないのよ。最後に濁点がつく名前ってどうなの? しかも一応女子なのに」
「円佳さんは真ん中についてるけど」
「変な統一感とか出さなくてもよかったのに。キラキラネーム一歩手前じゃない」
「そうかな、みかど、っていう言葉の響き、僕は好きだけど」
(出た)と円佳さん。
「なにがですか」
(無自覚な、甘いセリフで、たぶらかす)
円佳さんの謎川柳。
「本ッ当、褒め言葉の大安売りね」
美門は吐き捨てるようにそう言ったあと、安全圏にいる者に特有の上からの笑みを浮かべる。
「……ほら、わたしはしゃべったわよ、お姉ちゃんも」
(残るはキミだけだよ)
東雲姉妹の視線が僕を追い詰める。そんなことを言われても、この二人にまつわる秘密だとか隠し事なんて特にないのだけど。
(二人の馴れ初めについて、くわしく聞きたいかな。、ほら、ミカちゃんが困っていたところを助けてくれたでしょ。そのとき、下心はあった?)
「いや、あれは僕も同じ実行委員だったから、その仕事としてですよ」
「ふーん、じゃあ、お姉ちゃんが困っているのをあれこれ助けたときは?」
「……ありました。かなり」
「じゃあ、バイトに来たお姉ちゃんの第一印象は?」
「待った。僕だけ質問多くない?」
「簡単な質問だから数を増やして帳尻合わせてるのよ」
「えぇ……」
秘密や隠し事なんてないと思っていたが、聞かれたら聞かれたで、答えにくいことばかりだった。だけど今は、こんな追及すらもくすぐったい。




