キミを/あなたを待つ
学校を出ると、歩きながら美門へ電話をかけた。
意外に早く数コールでつながってくれた。出てくれるかどうかは五分五分と見ていたので、つながったことだけで安心して力が抜けて、危うくスマホを取り落としそうになる。
『……もしもし、どうしたのよ』
聞こえてくる声はトーンが低い。本当に体調が悪いのか、それとも中途半端な拒絶の表れなのか、どちらだろう。前者だったら無理して話をさせるのが申し訳ない。後者だったら本当は話をしたいのに表面上不機嫌をよそおっているというちょっと可愛らしい状態なので、ぜひそうであってほしい。
「まだ具合がよくない? つらそうだけど」
『昨日よりはだいぶマシよ』
「それはよかった」
『……用件は?』
「声が聞きたかったから」
『――えっ』
「昨日は最後あんな風になって、そのままいろいろ終わってしまうみたいな感じだったから、そうじゃないって確かめたかったんだよ」
美門は数秒ほど黙り込んだ。
やがて返ってきたのはこちらを揶揄するような言葉だった。
『何、言ってるのよ。あなたこそ、あ、暑さにやられちゃったんじゃないの?』
「大丈夫」
と僕は断言を返す。
「僕のことは気にしなくていいから、美門は自分のことだけ考えて、早く本調子を取り戻してほしい」
『……冗談を真面目に返さないでよ、こっちがおかしいみたいじゃない』
「実はそれを狙ったんだ」
『馬鹿。切るわよ』
「美門」
『何』
「本気だから。今度は僕が心配をする番だ」
『――ッ』
美門は何か言いかけたが、結局、それは声になることなく、彼女の方から通話は切れた。
やり取りが終わると、どっと汗が噴き出してくる。
ずいぶん鼻持ちならない、格好つけたことを口走ってしまった気もするが、言葉を飾る余裕がなかったのだから仕方がない。
円佳さんの話をしなかったのは、まず美門を落ち着かせることを優先したからだ。僕の気遣いなど美門にはお見通しだろうけれど。
◆◇◆◇◆◇◆◇
そうして1日1回、放課後になると電話をかけた。
成績の話や連日の猛暑の話など、深い意味のない会話だったが、それによってつながっている事実こそが大切なのだ。
古井河先生の言うところの、マメな男はモテるの理屈である。しかし、僕と美門の距離感が変化しているかどうかはよくわからなかった。
それでも続けなければならない。
先生の言ったとおり、円佳さんが亡くなった直後のいちばん大変だった時期に、美門は僕を助けてくれた。あのときの彼女の大変さに比べたら、この程度のことで二の足を踏んでいられない。
――円佳さんの葬儀が終わったあと、自分の部屋に戻った僕は動けなくなった。文字どおり、身体が動かないのだ。ベッドに倒れ込んでノロノロと服を着替え、仰向けになってただ天井を眺めていた。
たぶん、心が麻痺していたのだろう。
仮に身体が麻痺しても思索にふけることはできるが、心が麻痺してしまうと、身体を動かそうという気が起きなくなる。思考が停止し、時間の感覚もない。
気がついたら外の明るさが変わっている。早朝なのか夕方なのかもわからない薄暮を見て、どっちでもいいとすら思わない。
喉の渇きや空腹を感じると部屋から出て飲み食いをするが、極力、家族とは顔を合わせないようにしていた。家族も僕をどう扱えばいいのか決めかねているようだった。心配はしても恋人を失ったことには触れてこない。当時は気を遣われていることさえわからなかった。
何日目かの夕方に美門がやってきた。
制服を着ていたので学校帰りのようだった。
ちゃんと食べてる? この部屋ちょっと臭わない? あなたでも髭が生えるのね、などとどうでもいいことを話しかけてきた。僕の反応は薄かったと思うが、美門は怒るでもなく床に座ると文庫本を広げて読書を始めた。時間にして2時間ほど。やがて手を合わせるようにして本を閉じると、じゃあまた明日、と言って帰っていった。
翌日も、その翌日も、美門はほぼ同じ時間にやってきた。
そしていくつか世間話をしたあと、床に座って文庫本を読み始める。美門の読書スピードは早く、二日に1冊のペースで読破していった。それが一週間ほど続いただろうか。
その間、僕は少しずつ変化していった。
部屋を片付けるようになり、身だしなみを整えるようになり、美門が来るころになると時計を気にするようになった。外界の刺激に反応する、人間らしい感受性を取り戻していった。
大きな手術をしたあとは、食事をしても身体が受け付けないという話を聞いたことがある。だから点滴から流動食、固形食へと徐々に慣らしていかなければならないのだという。僕の精神もそれと同じようなものだった。
美門が支えてくれたのだ。
快復するように。
解凍するように。
あるいは蘇生するように。
美門が訪れるようになって七日目。
彼女が来る前に円佳さんの番号へ電話をかけてみたがつながらなかった。電波が届かない場所にある、または電源が入っていないためかかりません、というアナウンスが流れた。
やってきた美門にそのことを話すと、くしゃりと顔をゆがめ、声を上げて泣き始めた。美門が泣いたのを初めて見たし、あんな大声を聞いたのも初めてだった。
美門へのイブニングコールを始めてから七日後。
1学期の終業式を翌日に控えた、その放課後。
「あー暑い、こんな暑いなかで運動部の連中もよくやるよ」
『暑さに関する話が多すぎない?』
「話題の少ないトーク下手な男で申し訳ない」
『無理しなくてもいいのよ』
「高校野球はどうしてナイターでやらないんだろう」
『汗、涙、青春、感動、それらは炎天下でないと映えないからでしょ』
「なるほど」
『そんなことより、明日、学校へ行くから』
美門の言葉を受け止めて、いつもどおりの返事をする。
そのための精神状態を整えるのに数秒ほどかかった。
「それはよかった」
『そろそろお姉ちゃんの声が恋しくなってるんじゃないの?』
「否定はしません」
『一週間、ねばった甲斐があったわね』
「美門に受けた恩を少しでも返したかったから。それは、円佳さんとは関係ない」
わかってないのか、はぐらかしているのか。どちらにしても、自分を軽視するような美門の物言いが嫌で、つい強めの口調で反論してしまう。
美門はしばし押し黙ったあと、
『放課後のデ――』口ごもり、言い直す。『散策だけど、お姉ちゃんの希望はわかる?』
と聞いてきた。
もちろん答えは知っている。
付き合い始めたあの日、いつか行きたい場所を語り合った深夜のファミレス。円佳さんの楽しげに弾む声がよみがえった。
「あたしの浴衣姿を見せてあげる」「はぐれないように手をつないで」「わたあめを買って、金魚すくいをして」「二人で並んで打ち上げ花火を見上げるの」
「ベタですね」
僕の素っ気ない言葉に、円佳さんは笑顔を返した。
「だけどきっと楽しいよ」
涙腺ににじむような予兆を感じて、僕は顔を上向けた。
「夏祭りへ行こう」




